今週配信されたマル激の中で、ゲストの西部邁氏と宮台真司氏が柳沢発言について語っている部分がある。内容的には、僕が以前に考えていたようなものと重なると思った。それが数学系的な文脈であればさほど問題にするようなものではないと言うものだ。むしろ問題は別のところにあるという指摘だと僕は感じた。
西部氏の指摘は、放送に忠実に採録してみると次のようになるだろうか。「機械」という言葉をどう受け止めるかでこの解釈は微妙に違ってくるのだが、西部氏は「機械的」という言葉と関連させて、必然性を受け止めたときに「機械」としての自覚をすると語っているように思った。つまり、西部氏の「機械」という言葉の受け取り方は、「非人間的」というものではなく、数学系的な発想からくるもののように感じた。 これは、人間機械論と言われたサイバネティックスの発想にもつながるようなものではないだろうか。必然性を見つけて、それを自覚すると言うのは、関数のブラックボックスとしての認識だ。それは機能性のほうを重視して、まさに「装置」としての働きに注目をするという観点であって、その観点を徹底するためには、むしろ人間と言うような曖昧な存在であっては抽象化に失敗する恐れがある。数学系的な発想では、むしろ人間を機械と見たほうが抽象化のためにはいい場合もある。 西部氏の言い方にも誤解を招きそうな部分はあるが、女が「産む機械」であるなら、男は「産ませる機械」とでも呼ぶ機能が必然性であり、これは入れ替えができない「必然」だろうという解釈だった。 このことと関連させて西部氏は、哲学的な「自由」に関する議論を基本にしていた。「自由」というのは、「恣意的」と同じ意味ではない。なんでもかんでも自由勝手に振舞えると言うことではない。男と女が入れ替え可能ではない部分があるということを「必然性」として理解した上での、必然の自覚の上にたった選択が「自由」の本義だと言うことだ。これは、僕が学んできた「自由論」とも重なるもので納得できるものだ。 西部氏は、このように「生む機械」という発言の「機械」を解釈しているので、「機械」という言葉を使ったこと自体には何も問題を感じていないようだ。つまり、柳沢発言は、数学系的な文脈で語られたものだという判断をしているようだ。それを補足しているのが、次のような宮台氏の発言だ。 宮台氏は、「機械」という言葉に不快を感じるものがいるのは仕方がないという。しかし、世の中をどう見るかと言うことで、人間を「機械」と見るかどうかと言うことが決まってくる。例えば、財界での世の中の見方は、経済という視点が優先する。人間一人一人の個性を重んじた、人間的な視点で個人を理解するのではなく、集団として経済の流れがどうなっているかと言うことを抽象的に思考する視点で考える。 そのような発想をする人間が、どのような立場の人々にいるかと言うことを知るよいきっかけとなったと宮台氏は解釈しているようだ。そして、この考え自体には、道徳的な善悪という判断は出来ないと考えているようでもあった。統計的に蓋然的な出生率というものを数学系的発想で考えれば、「機械」という視点のほうが役に立つと言うことに過ぎない。これが道徳的な判断の対象にならないのは、客観的真理に関係しているからだ。仮言命題として、出生率が下がればどうなるかと言う、出生率が下がるということを前提にすると、論理的にどう帰結されるかということを考えているだけだからだ。 このように、人間を「機械」になぞらえるのは、数学系の文脈であれば、その発言をした人間の人格を否定するほどの道徳的な問題にはならない。問題は、その文脈が違うときと、その発言が、数学系的な文脈ではふさわしくない場面で語られたときだ。宮台氏によれば、柳沢大臣は、何度も「こういう言い方はまずいんですけれど」と言い訳をしていたようだ。それが語られた「松江市で開かれた自民県議の決起集会」という場と、聴衆を考えると、少子化の問題を個人的に深刻な子育ての問題と捉えるよりは、数学系的(抽象的・機械的)に、インプットとアウトプットの問題として捉える立場の人たちに呼びかけていたと考えられるのではないだろうか。 だから、批判の本質は、少子化という問題の本質がどこにあるのかと言う問題の特定と、その解決方法として人口論的な思考がふさわしい解答を与えてくれるのかということにならないといけないのではないかと思う。そこのところに批判が集中すれば、批判も正当なものになっただろうし、解決の方向も実りあるものが提出されたのではないかと思う。 しかし、「機械」という言葉に感情的に反発した部分だけが大きく報道され、反自民勢力が政治的にその世論に乗っかってしまったことから、この批判はつまらないものになったように感じる。ほとんどが柳沢氏の人格攻撃のようなものになってしまったからだ。柳沢氏個人はたたかれたが、自民党の基本的な政策や考え方は何も批判されずに終わってしまったのではないだろうか。個人的なブログではそのような展開をしている人もいたかもしれないが、それはあくまでも個人的なものにとどまり、マスコミでは終始柳沢氏個人への攻撃が続いていたように僕は感じた。 柳沢発言には批判されるべき内容が含まれていると僕も思う。だが、それは柳沢氏が女性差別の意識に凝り固まったひどいやつだという人格的な面ではないと思う。この問題は、それに反対する側が批判の方向性を間違ったのではないかと思う。特に、世論に便乗して大衆に媚びたような民主党の批判はまったく的外れでむしろ大衆的な支持が離れていってしまったのではないかとも感じる。 これは穿った見方をすれば、民主党にも本当は女性を「産む機械」と捉えたい立場の人もたくさんいたのではないかと思う。だから、「産む機械」という発想の根底にあるところまで批判を深めてしまうと、その返す刀が自分にも降りかかってしまうので、言葉だけを問題にして済ませようとしたのではないだろうか。この問題は、批判が本質にまで深められなかったと言う不満は残るものの、言葉狩りに終わって柳沢氏がたたかれただけで終わることがなく、それなりに反対勢力も批判されたのはよかったと思う。 かつて差別糾弾運動の中でも、言葉狩り的なやり方が反感を買ったことがあった。それは、ある言葉に感情的に反応して怒りを持ったということは理解されたが、その怒りに深い共感を呼ぶことはなかった。それは、言葉だけに反応して、意図の違う使い方をしているときにも言葉の字面だけを見て批判したために、怒りがそこまで深くなることが人々に共感できなかったのだ。 それに対して、差別糾弾運動をする側は、その怒りが理解できないのは差別されたと言う体験がないからだとして、共感してもらおうという努力を放棄した。共感できないのは、その能力がないほうが悪いのだという言い分だ。そのために、この運動は大衆的支持が得られなかった。同じような状況が、今回の柳沢発言でも生まれたのではないかと考えられる。 経験が違えば感じ方が違うのはある意味では当たり前だ。大衆運動というのは、そういうものを前提として展開していく必要があるだろう。それを、感じられないのは感じないほうが悪いのだと言って、理解してもらう努力を怠れば大衆運動としては成功しないだろう。大衆運動というのは、そのスタートは圧倒的少数派からはじめなければならないのだから、権力的に考えを押し付けることが成功するはずがない。それではむしろ反感を買うだけだ。本当の権力をもっていれば押し付けることも出来るだろうが、それは面従腹背という状態を生むだけであり、権力がなければそれも生まれない。 これと関連したものとして、マル激では宮台氏が、アメリカ的なフェミニズムをあたかも普遍であるかのように吹聴する人間の間違いの指摘をしていた。これは、その主張に正当性が含まれていたとしても、大衆運動としてはむしろ反感を買うばかりで、動員という点では失敗するという指摘だった。 宮台氏が語るアメリカ的なフェミニズムというのは、以前にも宮台氏が語っていたが、細かいところを突っついて、何にでもフェミニズム的な解釈を持ち込んで文句をつけるようなものと僕は受け取っていた。例えば、以前、大学での教授と女子学生の関係において、教授が女子学生に個人的に話し掛けただけでセクハラになるかのように解釈することのバカさ加減を語っていたことがあった。 これに対して、フランス的なエスプリ(機知)で対応すると、このような考えは、女子学生が大学教授と恋愛する権利を侵害すると捉えると語っていた。アメリカ的なフェミニズムにも、これくらいの余裕を持った対応をしてほしいものだと思った。 アメリカ的なフェミニズムを知る一つの記事を「マスターズに見るフェミニズムとアメリカ社会」というものに見つけた。この記事によれば、オーガスタ・ナショナル・ゴルフクラブに女性会員が一人もいないことに、アメリカのフェミニズム団体が抗議していたそうだ。そして、その抗議の一つとしてマスターズ・トーナメントのテレビ中継のスポンサーになった企業の不買運動をすると通告してきたとき、オーガスタ・ナショナル・ゴルフクラブでは、スポンサーをまったくつけずに大会を行ったということが伝えられていた。 不買運動によってスポンサーに迷惑をかけることが出来ないということからそうしたようだが、それによって中継をするテレビ局にも損害をかけたので、その損害分をオーガスタ・ナショナル・ゴルフクラブが請け負ったそうだ。そこまでして、守ったものはいったいなんだったのか。それは、ここで次のように語られていることではないかと思った。 「アメリカでは、パブリックとプライベートがあまりにもはっきりと分かれている。政府や公的な組織・活動などでは、差別的言動があってはならない。しかし、プライベートで何をしようとそれは個人の自由。誰にも規制する権利はない。」 確かに、女性会員が一人もいないことは、そこに何か不当な差別があるような感じを受ける。だが、それを強権的に平等化させようとすれば、それは「自由」を侵害するのだと捉えるのが、アメリカの民主主義の伝統ではないだろうか。それがあったので、この運動は、「この件において、フェミニズム団体はアメリカ人女性すら味方につけていないのだ」と語られている。 これは、 「オーガスタが女性に開放されたところで、会員になれる女性が一体何人いるというのだ、というのが議論のポイントになっている。会員になるためには、小国が1つ買えるくらいの年収、社会的な地位、既存会員からの推薦など、さまざまな条件を満たしていなければならない。フェミニズム団体が金切り声をあげて騒いだところで、その恩恵を受けるのは、富豪でゴルフ好きなほんの一握りの女性だけだ(全米で5人くらい?)。男女平等とはまた次元の違う話ではないか、という見方をしている女性が多い。」 ということが理由らしい。この運動は、攻撃することが目的の本末転倒な運動になっているのではないかと思う。それが本当の意味での男女平等に向かっているのなら、多くの人が共感して大衆運動としての動員にも成功するだろう。しかし、的外れな目的が違う運動なら、それはかえって反感を買うのに作用するだろう。攻撃は目的ではなく、本来の目的を達成するための手段であるべきなのだと思う。柳沢発言は、このような本末転倒についても考えるきっかけになるのではないだろうか。僕は、この問題に関しては保守勢力の西部氏に共感する。
by ksyuumei
| 2007-02-20 10:45
| 雑文
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