「社会学入門講座」における数学系的記述

宮台真司氏の「連載・社会学入門」は、その内容の難しさにもかかわらず大きな魅力を与えてくれる文章だ。僕はそこに数学系の匂いを感じる。

宮台氏は、あることばを説明するときに、まずはそれを明確に定義して、他の解釈を許さないような形でその意味を明らかにする。そして、その定義を基礎にして論理を展開し、その定義を受け入れた人間はすべてそう考えなければならないような方向へと導いていく。これは宮台氏がそれを押し付けるのではなく、論理というものを理解すれば、そう考えるのが正当であり、自らそれを受け入れるというようになっていくのだ。

宮台氏はここで社会について語っているのだが、宮台氏はその研究の結果として、社会の全体像を把握した後にもっともふさわしい本質的な定義をそれに与えて、全体が整合的に捉えられるような形で論理を展開していく。これは抽象的に設定された対象であるから、現実の社会そのものではないが、適切に抽象されているので末梢的な部分が捨てられているだけなのを感じる。そして、このように抽象によって単純化することで、混沌とした社会という対象が、初めて全体として一まとまりになったものとしてつかまれる。社会というような複雑な対象は、このようにして単純化しない限り、おそらく全体像を把握することは出来ないのではないかと思われる。




全体像を把握して論理を展開している宮台氏に対して、それを学ぶわれわれはまだ全体像をつかんでいない。だから、ある対象の定義に関しても、初学者にはその妥当性が十分には分かっていない。それは全体の把握が終わった時点で完全につかまれるものだ。しかし、全体の把握というのは、個々の対象の正しい捉え方を通じてしか実現できない。全体を把握するには個々の対象を捉えられなければならないし、個々の対象を正確に捉えるには全体の把握が必要でもある。

この鶏と卵の関係のような学習の構造は、ループをぐるぐる回るだけで解決がつかないようにも見える。これは、どこかで一歩を踏み出さないと、そのループの中に入れない。その一歩を踏み出すきっかけが、とりあえず宮台氏の見方(定義)で世界を眺めてみようと決心することだ。そして、このループの中に入ることで、これがらせん状の発展をもたらしたとき、文章を読み返したときに理解が深まったという感じをつかむことが出来る。

宮台氏の定義によって、社会という対象をより深く把握できたと思えば、その定義の妥当性も理解できるだろう。そのような感じがつかめなければ、もっとより妥当な定義をしていると思える人から学びなおさなければならない。今のところ、僕は宮台氏の説明のすべてに満足している状態だ。宮台氏のことばによって社会を見ると、社会をより深く知ることが出来ると感じる。

「社会学入門講座」で語られている定義によって、どのように社会への見方が深まったかを考えてみようと思う。「連載第三回:システムとは何か?」では、「システム」ということばの新しい定義を知った。

ここで「システム」の新たな定義を知る前のイメージを振り返ってみると、それは何かある種の「全体性」を感じさせるものとして僕は捉えていた。それは、共同作業をするようなイメージで、個人では達成できないような仕事でも、共同して全体として展開することで達成できたりする、個人の力を越える何かをもたらすのが「システム」というような感じだろうか。個々バラバラのものとは違う、全体性を持つことで新しい性質を帯びるものが「システム」というもののイメージだった。

それを宮台氏は、「複数の要素が互いに相手の同一性のための前提を供給し合うことで形成されるループ(の網)です」と定義した。これは非常に明確な定義であり、抽象的ではあるが、「全体性」というぼんやりとしたイメージとつながっているものではなく、個々の要素の具体的な存在の仕方が規定された、抽象的でありながら具体的な定義のように感じた。

これを初めて読んだときにはもちろん、この定義の妥当性はまったくわからなかった。宮台氏がこういうから、とりあえずはそういうものとして「システム」を捉えてみようという感じだろうか。

この定義からすぐに分かることは、「システム」においては、個々の要素はバラバラの関係ではないということだ。何か関係があることは確かだが、その「何か」が「互いに相手の同一性のための前提を供給しあう」というもので表現されている。これは、かなり具体的に表現されているので、システムの個々の要素の関係を抽象したものとしても、この表現から抜け落ちるものは捨象されていると考えなければならない。

この抽象=捨象は、果たして妥当なものなのか。システムにおける個々の要素の関係を「前提供給」というもので代表させる抽象は正しいのか、ということが気になる。気にはなっても、この定義でまずは「社会」というものを眺めてみようというのが、定義を受け入れるということではないかと思う。そして、その見方がどんな実りをもたらすのかを体験することで、この見方の妥当性を理解するという学習が大事だろうと思った。

僕にとっては、システムというのはやはり共同作業をするような人間の集団というイメージが強かったので、この集団において、個々の人間の関係が、システム内においては「互いに前提」となっているかどうかを考えてみた。そうすると、どのような共同作業においても、それが共同である限りにおいて、他人がやった仕事に自分が加えるものが、他人の仕事を前提として展開していることを発見できる。他人の仕事を前提にせずに、勝手に一人でやっていい仕事なら、わざわざシステムを作る必要などないからだ。

この定義は、システムの抽象としてはふさわしいのではないかと思えてきたし、これによって、孤立したものではない、すべての存在を「システム」として捉えることが出来るようにもなった。また、ロボットと生命体の違いを記述した部分での「秩序」ということばの新たな定義も、今ならより深く理解できるようになった。

宮台氏は、「秩序」を「同一性」と同じ意味で使っている。「ここで「同一性を保つ」とか「同一性を維持するための前提を供給する(される)」と言う場合の「同一性」は、「秩序」と言い換えられます」と表現している。普通「同一性」といった場合は、

  A=A

という、等式が浮かんでくる。しかし、この等式は現実を対象とした思考では、

  A=B

と考えたほうが正しいと指摘したのは板倉聖宣さんだった。つまり、同じものが同じだというのは、論理的なトートロジーだが、それは現実に対しては新しい知識は何も加えない。現実に対しては、違うものだが「同じ」だという認識が新たな発見をもたらしてくれる。宮台氏の語る「同一性」も、物質的には違うにもかかわらず「システム」としては同じだということを表現するためのもので、それが「秩序」と呼ばれる。

ロボットの場合は、バラバラにしてもまた組み立てなおせば「同じ」ロボットを作ることが出来る。この場合は、個々の部品は「A=A」であり、トートロジー的な同一性を持っている。しかし、生命体の場合は、バラバラにしてしまえば、個々の部品は死んでしまうので「A=A」という形の同一性を保つことが出来ない。この場合は、生命体として生きているものは、個々の部品である細胞は実は日々新たなものに生まれ変わっているのであり、個々の要素としては違うものになっていて、物質的にはAがBになっているにもかかわらず同一性を保っている。つまり「A=B」という同一性がここでは発見できるのである。

この「同一性」は「定常」ということばで表現され、有機体的な生命システムは「定常システム」と呼ばれる。これは、個々の要素が同じだから同一だという判断をするのではなく、「定常状態」が同じなので同一性を保っていると判断される。このような見方は、定常状態が保たれるということは、まさに「秩序」があるということが妥当な表現となるだろう。

ここで新たに学んだ「システム」「秩序」「同一性」ということばで社会を改めて眺めてみると、それまではぼんやりと「何か」ということばでしか捉えられなかったものの姿が見えてくるような感じがする。

社会はシステムである、という言い方は、いったいどのようなイメージで浮かんでくるか。個々の人間や物の関係が、とにかく何か関係があるというイメージから、それぞれが互いに前提を供給しあっているという具体性のあるものとして見えてくる。これは、「情けは人のためならず」というようなことわざの認識にも近いものを感じる。ただ、ことわざは、漠然と全体性を表現したものに過ぎないが、システム理論は、全体の動きと個々の動きを予想させてくれるような深い内容を持っているのを感じる。

システムが秩序を保つというのを、そのメカニズムとして教えてくれるような感じがする。これは、社会というシステムの実体を捉えることができなくても、その機能を捉えれば、入力と出力が予想できるという、現実的な利点が得られるという発想だ。そして、この捉え方は、それだけでは価値観とは無関係の科学的認識となる。この科学をどう応用するかで、人間的な善悪の価値観と結びついてくる。

必要のない商品を買いたくなるように働きかけるのは、立場によって善悪の価値観が生まれるだろう。しかし、このメカニズムそのものは、社会というシステムを分析すれば、どのように生まれて発展していくかが見えてくるに違いない。商売に利用して、宣伝効果をあげようと思う人間も出てくれば、宣伝にだまされまいとして警戒することに利用する人も出てくるだろう。どちらが正しいとはいえないが、そこにメカニズムが存在するということは、科学的に証明できるに違いない。

僕は、第一歩として、そのような真理が存在することを認識することが大事なことだと思う。それを、人間社会の存続に利用できるかどうかが次に考えることだろうと思う。このときに価値観というものが関係してくるだろう。「健全」ということばが何を指すかは、最近話題になっているが、社会が「健全」な方向で存続するということが何を意味するかで、その人の価値観というものが出てくる。これは科学的真理を発見して理解するより難しいかもしれない。原理的には、価値観に客観性はないからだ。科学的真理には客観性がある。それは、立場を越えて同意できるからだ。立場によって同意できなくなる命題は、原理的には客観性はないだろう。
[PR]
by ksyuumei | 2007-02-10 10:59 | 方法論


<< 歴史的事実に対する確たる証拠 数学系の思考の進め方 >>