図書館で小林良彰さんの『複眼の時代』(ソーテック社)という本を借りた。これは昭和51年(西暦1976年)に出版されたものだが、今読んでも新鮮さを感じるすごい本だと思った。この時代にこれだけの本を書いていたのに、板倉さんが小林さんを知ったのは1985年のことだった。ここにかかれている小林さんの主張も、ほぼ板倉さんのものと重なるように思えるのに、板倉さんの目にとまることがなかったのだ。
小林さんの知名度はそのくらいこの当時は低かったのではないかと思う。小林さんは、時代の先を行き過ぎていたのではないかと感じる。この当時に正当な評価を得るには、その主張があまりにラジカルでありすぎたのではないだろうか。そして、今でもそれほど有名になっているようには見えない。小林さんの主張がごく当たり前のようになっているとは思えないのだ。 しかし僕には、小林さんが言うことのほうが本当だという確信のようなものを感じる。これはいったいどこからくるものなのだろうか。かつて「新しい歴史教科書を作る会」では、歴史は物語であって科学ではないと主張した。そのように考えている人は今でもかなりいるのではないだろうか。歴史は立場や国によって違うのが当たり前で、誰もが賛成するような事柄にはあまり価値あることはないと考えているほうが主流なのではないだろうか。 それに対して小林さんは、歴史は科学であり、誰も反対できないような命題が求められると考えて、そのような命題を提出している。しかもそれは末梢的なつまらないことを主張する命題ではなく、歴史の本質にかかわる重要な事柄を語る命題だ。この主張に深く賛同するからこそ、僕は小林さんが語ることが本当だと感じるのだろうと思う。 歴史を科学にするための「よい先入観」は、ヘーゲルが語ったという「現実的なものは理性的(合理的)である」ということではないかと感じる。江川達也さんは「つじつまが合う」という表現をしていたが、同じような発想ではないかと思う。歴史的事実を受け止めるとき、そこに整合性を見るような見方こそが歴史を科学にするポイントではないかと思える。 明治維新が市民革命であるかどうかというのは異論があることで、主流は市民革命ではないというものだったそうだ。今ではどうなのかは分からないが、その後の昭和の反動的な歴史とのつながりを見ると、これが市民革命であるということと「つじつまが合わない」ような感じもして、市民革命であることが否定される発想も出てくるのかもしれない。 しかし、江戸時代に比べて飛躍的に人口が増え、植民地化されたアジア各国に比べて独立を守った明治の日本の姿を見ると、明治のころに飛躍的な進歩・改革があったことは疑いがない。そうでなければやはり「つじつまが合わない」。そうすると、反動によるゆり戻しがあったとしても、それが反動であること自体がその前に革命的な出来事があったということを証明するようなものではないかという「つじつま」も考えられる。 そこでフランス革命を見てみると、そこにもやはり反動的なものを見つけることが出来る。今の西洋の進んだ民主主義を見ていると、フランス革命はそのような進歩をもたらしただけのように見えてしまうが、歴史というのはそれほど単純な解釈では正しく理解できないのではないかと考えられる。今の日本が民主主義として未熟だというのを見て、明治維新の革命性を否定してしまうとしたら、今の時代の尺度を単純に昔に当てはめるという「悪い先入観」で歴史を見ていることになるのではないだろうか。 僕が、小林さんが語ることが本当だと感じるのは、小林さんの説明なら歴史の流れを論理的に納得して眺めることが出来るからだ。歴史においてはいくつかのつじつまを合わせることが難しい出来事がある。そのような時、それをどう受け止めるかが歴史観という「先入観」によって決まる。 たとえばユダヤ人を600万人も虐殺するようなことを引き起こしたヒトラーのような人間が、大衆的支持を受けて権力を独占したことをどう受け止めるかというのは難しい問題だ。ヒトラーを極悪人だと思ったら、そのヒトラーを支持して権力を委任した大衆はすべてバカだったと解釈するしかない。これはとても整合的な解釈には見えない。 あるいは、人間というのはそういうものだ、と悟りの境地に入るのも整合的ではない。それは現実をあるがままに認めているだけで、現実を深く考えているのではないからだ。この難しい問題に対して整合的な解釈が得られたら、それこそが本当の歴史の意味だと思えるようになるだろう。歴史に対して、すべてこのような整合的な解釈が出来るとは限らないが、小林さんが提出するいくつかの出来事に対しては、そこに見事な整合性が語られているのを感じる。 『複眼の時代』から幾つか例を拾ってみよう。第1章では「日本の文明は猿真似といわれてきたが」ということが語られている。「猿真似」というのは軽蔑的な言い方であり、解釈としては、日本の文明はレベルの低いたいしたものではないということになる。だが、そう解釈すると、日本の高度経済成長などということが、この解釈と「つじつま」が合わなくなる。 これは「猿真似」という解釈が現象的・末梢的なものであって本質的なものではないからではないかと考えられる。本質は、真の独創は模倣から出発するという、模倣と独創の関係を捉える考えではないかと思う。これは板倉さんが主張していたものと同じ発想だ。模倣を軽蔑して独創をありがたがる人間は、板倉さんに言わせれば「独創を気取る」人間だということだ。そしてそのような人間は、模倣であることを知られたくないため、誰の遺産を受け継いだかを厳密にしない。そのため盗作まがいのこともしてしまうというのを実例を挙げて語っていたことがあった。 歴史を振り返ってみれば、先進国というのは一定ではなくいくつも変わってきている。かつてはエジプト・メソポタミア・中国・インドなどが先進国であり、それがギリシア・ローマ・アラビアなどに移っていき、やがてヨーロッパが先進国となる時代がやってきた。これらの流れの中で、後発の先進国は、常に先発の先進国の模倣をしながら進歩してきた。そして、ある時点で模倣を乗り越える独創の時代に入ったことが、先発の先進国を追い抜いて新たな先進国となるきっかけを作ったと考えられる。 模倣から独創へという道こそが歴史の本当の姿であり、模倣だからだめだという解釈は皮相的な末梢的なものだろうと思う。この大きな流れの指摘だけでも小林さんのほうが正しいと思えるのだが、さらに小林さんは、進歩の条件という整合性についても考察している。どのようなときに、先進国が入れ替わり、より進歩した独創の時代に入ることが出来るのかという歴史解釈の整合性についても語っている。小林さんは、 「進歩と停滞は、さまざまな条件の違いからくる。その時代の技術的条件に、気候、資源、その他の地理的条件が結びつく。さらに、その時点の社会制度も大きな役割を果たす。国民的能力を全面的に発揮させる可能性が保障されるかされないかも、進歩と停滞の重要な条件となる。」 と語っている。この条件が変化することによって、どこが先進国となるかも変わってくると解釈したほうが歴史においての「つじつまが合う」。封建主義を捨てて近代化したヨーロッパがいち早く先進国となったのは、「社会制度も大きな役割を果たす」ということの証明ではないかと思う。小林さんが他の本で語っていたが、有能な人間がその有能さを発揮できる地位につくことができる近代という時代は、家柄だけで高い地位につき、能力はまったく省みられていない封建時代に比べて、何をしても勝負にならないだろうことは容易に想像できる。 ナポレオンの軍隊は、数において上回る封建国家の軍隊を打ち破ったそうだが、これは奇跡的なことではなく、ナポレオンの軍隊が近代化されたものだと解釈すれば整合的に理解することが出来る。優れた戦術を考える人間が指導者になり、その指導者に対する信頼感が厚い、しかも国家を守る気概に燃えた人間が集まった近代の軍隊が、家柄だけで地位についた、何も指導できないトップを持った軍隊と戦争をしたら、いくら相手が数で上回っても打ち破るのは容易だろうと思う。 また人口や国家規模の小さなイギリスやオランダ・ポルトガルといった国が、まずヨーロッパの先進国となったのも、整合的に理解するには結構難しいだろう。イギリスの進歩については小林さんは次のように語っている。 「産業革命の出発点では、イギリスが最先進国であったが、この時代の貧弱な輸送手段の段階で、イギリスでは鉄鉱石と石炭の産地が接近しており、これを運河で結ぶことが簡単であるという地理的条件の有利さの上に、機械の大量生産に成功したのであった。もちろん、これだけが決定的な原因であったというものではないが、これなしには、当時の急速な産業革命は実現できなかったはずである。」 また、次のような指摘もある。 「社会的条件の相違も重要である。ある国の社会制度が行き詰まりとなり、政治が反動化し、進歩を抑圧するような段階になると、経済の停滞も始まる。そのとき、他の国がより自由で、国民の創意性を発揮させるような制度をとっているならば、やがてその国に追い抜かれる。日本のように海の中に孤立している場合は、あまりはっきりとした対比の実例は見られないが、移動の比較的容易な西洋諸国では、そうした現象が多く見られる。」 オランダやポルトガルが、国としては小さくても、有能な人間が集まってくるような条件を持っていれば、そのような背景から先進国となる可能性が生まれてくるだろう。「つじつまの合う」整合的な理解が出来る。 日本の明治維新も、それまでの封建制が消滅して、有能な人間が指導者になれる道が開けたことが大きな進歩につながっているという。この解釈なら、明治がいかに優れていたかというのを整合的に理解することが出来る。単なるノスタルジーではなく、客観的に正しい理解だと自信を持つことも出来るだろう。逆にいえば、近代成熟期においても、まだ封建的な権力委譲をしているような企業は、有能な人間が指導者になれない状況が続き、やがては没落するということのほうが「つじつまが合う」だろう。不二家の姿などを見ているとそう感じる。 歴史は物語のように都合よく解釈するのではなく、整合的に正しい解釈を引き出すことが出来る。もちろんすべてにわたってそのようなことが出来るとは限らない。だが、問題を限れば、客観的に正しい解釈を引き出すことが出来る。解釈が難しい歴史があるからといって、すべての歴史が物語りだと結論するのは、可能性を根拠にしてすべてを分からないものにしてしまう不可知論だろう。 僕は、小林さんが語るように、歴史は科学になると思う。それが歴史の常識になり、歴史教育に生かされてほしいものだと思う。歴史が、文科系的な味わいの対象(物語)になってしまうと、危険なナショナリズムに利用されてしまうのではないかと思うからだ。
by ksyuumei
| 2007-01-30 10:29
| 方法論
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