「よい先入観」とは

仮説実験授業の提唱者の板倉聖宣さんに『近現代史の考え方』(仮説社)という本がある。この中に「明治維新とフランス革命」という文章がある。ここで主張されているのは、「明治維新とフランス革命とは基本的に同一の革命であって、フランス革命は完全だったが明治維新は不完全だなどとはいえない。もし明治維新がブルジョア革命として不完全だというなら、フランス革命もそうだ」というものだ。

板倉さんは、世界史の授業を科学的に考えるにはフランス革命を教えるといいと考えていたそうだ。しかし、フランス革命について「フランス革命の結果、フランスの社会はどう変わったか」ということがはっきりと書いてある本がなかったそうだ。フランス革命は、民主主義へ至る革命として知られているが、恐怖政治をもたらしたり、その後王政復古があったりと、何が革命なのか、何がその成果なのかがわかりにくいというのだ。

それに比べると明治維新は、日本の出来事ということもあるが、それまでの何が否定され、何が新しく興ってきたかというのが分かりやすい。しかし明治維新は、その中で民衆の活躍という場面が見つからないので、何か革命らしくないように見える人もいるようだが、これを革命と呼ばなくて何を革命だというのだろうかというのが板倉さんの感想だったようだ。



その板倉さんが、自分のこの考えとほぼ同じ事を主張している歴史の専門家を紹介していた。それが小林良彰さんという人で、この人の『フランス革命の経済構造』という本の序文には次のようなことが書いてある。


「フランス革命について著書は無数にある。しかし、フランスであれ、日本であれ、今までに出版されているものを見ると、総合的なフランス革命史は、たとえ出発点は経済的・社会的な考察が多くても、展開・結論へと進むにつれて文学的・理念的考察に終わり、結論は宙に浮いたようなものになる。」


小林さんのこの指摘を見て、板倉さんは「どうやら私が不勉強のために目指す本が見つからなかったわけではなかったようです」と安心している。この事情は今ではどうなのだろうか。板倉さんのこの文章が書かれたのは1985年の12月で、もう20年以上前なのだが、この事情は今でもあまり変わらないのではないだろうか。フランス革命や明治維新の革命性が、日本では常識的なものとして歴史教育で教えられているとは思えないからだ。

僕も板倉さんや小林さんの見解に賛成なのだが、これが主流になっていないというのは、どんな「先入観」を持って歴史を見ているかということと深くかかわっているような気がする。この「先入観」は言葉の定義にも深い関係がある。板倉さんは前々から「近代ヨーロッパの<貴族>というのは、日本の平安時代の<貴族>よりも江戸時代の<武士>に近いものではないか。それなのに、どうして<貴族>と訳すのか、混乱するではないか」という疑問を持っていたそうだ。

今までヨーロッパの<貴族>とい呼ばれていた存在に対して、日本的な<貴族>のイメージという先入観を持っていると、多分間違った判断に引きずられるのではないだろうか。これは「悪い先入観」になってしまう、つまり本質から外れた理解になってしまうのではないかと思う。

この<貴族>という言葉の概念に対しても、小林さんは『明治維新とフランス革命』(三一書房)という本で「誤訳が固定観念をつくる」として一つの章を使って語っている。これなども、何が「よい先入観」なのか、そしてその「先入観」を持つことによって、何が解明できるのかという本質に迫ることが出来るなら、ものを考える一つの技術として「よい先入観」を見分けるということを考えることが出来るかもしれない。

小林さんの『明治維新とフランス革命』はたまたまアマゾンで見つけたので購入してみたのだが、この序文には興味深いことが書かれていた。小林さんは歴史の専門家だが、実はスタートは医学者を目指す理科系の人だったらしい。それが文系の方へと変わっていくのだが、そのあたりの事情が面白い。小林さんは次のように語っている。


「そこから先に迷いが生じた。当時の理科の状況の下で、すなわち実験器具、材料すべて不足している条件のもとで学が成るかという予想をめぐってである。私は不可能だと思った。その説明は省略するとして、本と紙と鉛筆だけで、世界的な水準の学を成らせるためには、文科系でなければならないと考えた。こうして文転をしたのであるが、理数を得意とした頭では、文科系の人の中でよく孤立するのである。つまり相手の理論の飛躍を、何気なしについてしまい、相手を怒らせるのである。
 そうした中で、私は文科系の学問のうち、理科的な学問はないかと探求をはじめた。つまり、しっかりとした理論の組める、科学的な学問はないかということである。こうなると文学、哲学、法律などを捨てることになり、残ったものとして、歴史、特にそれの科学的な解釈が有望であると思い至った。」


小林さんは歴史の専門家ではあるが、もともとは科学の出身であるといってもいい人だったのだ。それならば、板倉さんが求めていた発想で歴史を研究していたとしてもうなづけるものがある。そして、小林さんのような理科系的な発想が、文科系では異端であり孤立しているとしたら、事情は20年以上経ってもそれほど変わっていないのではないかとも感じる。

丸激の中でも、数学を擁護する江川達也さんが、文系の発想というのは最後は味わいになってしまい、理論的な探求ではなく感想になってしまうと語っていたことがあった。前述の小林さんの言葉「展開・結論へと進むにつれて文学的・理念的考察に終わり」というのも、理科系的発想から見た文系の理論への批判として読むことが出来るだろう。文系的発想では、理論という形にはなりにくいのではないかと思う。

これは文系への悪口を言っているのではなく、それが客観的な事実であると自覚しなければならないのではないかということだ。文学的な味わいという面では、理科系にはそういう発想がないので、たとえ科学者が書いた文章に文学的センスが感じられようとも、理科系はそのようなところを味わおうという気はあまりない。それが大事だと思っている文系からは、理科系はひどく野暮な人間に見えるかもしれない。

しかし、理論という側面で現実を捉えなければならない場面では、理科系的な捉え方をしなければ現実を間違って認識するだろうと思う。どんなに味わい深い文章であろうとも、その表現者の感想を語ったものは、そのまま現実だと受け取るわけにはいかない。どのようなものにも長所と短所があり、大事なのはそれを自覚することではないかと思う。科学は理科系的な発想でなければ理解することは出来ないだろう。

歴史を科学として捉えようとしている小林さんは、自らが見出した結論に対してもほぼ絶対的な自信を持っている。小林さんの主張は、「明治維新は市民革命である」「明治維新は近代社会を作り出した革命という意味で、フランス革命と同じ意味をもつ」というものだ。小林さんは次のように書いている。


「フランス革命では、領主の組織した権力が破壊され、商工業、金融業の上に立つもの(フランスではブルジョアジーと呼ぶ)が権力の指導権を握った。これだけが、フランス革命で異論の余地なく実現された結果である。そこで、この基本的結果が明治維新で実現されたかどうかと観察するならば、江戸時代は領主が権力を組織していたこと、明治維新以後商工業、金融業の上にたつものが権力の指導権を握ったということが確認される。その点でフランス革命と明治維新は基本的に同一の変化を引き起こしたのである。」


「異論の余地なく」という言葉が、小林さんが科学的な考察の結果得たものだという自信に満ちた気持ちを表現しているように僕は感じる。立場や、思いで主張が違ってしまうようなものは科学にならないのだ。小林さんは、「「領主の権力からブルジョアジーの権力へ」、これが市民革命の定理と考えるべきである」とも語っている。極めて理科系的な言い方だ。

これは、その現象を市民革命だと呼ぶのならば、必ず「領主の権力からブルジョアジーの権力へ」という現象が見出せるということが「定理」だと語っていることを意味する。つまり、これは市民革命というものをこのように定義するのだということを語っていることでもある。「領主の権力からブルジョアジーの権力へ」と社会が変革されていくものを市民革命と定義するということだ。これは、それこそが市民革命の本質であり、それを捉えることで革命というものの理解が進むと考えられるからそう定義するのだと僕は思う。

理科系が考える定義というのは、理論の全体像から見て、その理論的な対象の世界が最もよく把握できる、それの論理的な展開によって世界がつかめると予測できるものを本質と考えて、その本質の把握に役立つものとして設定される。数学で言えばすべての定理が導けるような、整理された公理群の把握が出来る定義が選ばれるということになる。

これこそが、板倉さんが言う意味での「よい先入観」ではないかと感じる。小林さんの『明治維新とフランス革命』という本は、「よい先入観」を考える材料にあふれている。小林さんは、「市民革命を引き起こす基本的原因は財政問題にある」ということも語っている。これも本質の一つを見るための「よい先入観」のように感じる。小林さんは、この先入観に絶対的な自信を持っている。この視点こそが革命の本質を見ることが出来るものだという自信にあふれている。小林さんは次のように書いている。


「私が財政問題を強調すると、「どうして財政問題がそれほど重要か」という質問を投げかける人がある。私はそれを愚問だというのである。権力を握っているものは財政政策を自分の利益になるように運営することが出来る。その基本は、「納税額を出来るだけ少なく、財政支出からの恩恵を出来るだけ多く」がその基本であり、これを権力と財政問題の定理としよう。フランス革命以前、権力を組織していた宮廷貴族は減免税特権の最大の受益者であった。財政支出の中から、宮廷貴族の有力者は巨額の国家資金をさざまな名目で手に入れた。これが、権力をもつ財政的特権であった。」


この小林さんの主張に対して、現実にそうでなかった例を持ってきて、「財政問題だけが重要ではない」と反論することも出来るだろう。しかし、そのような例を持ってきて、特殊性をあくまでも考慮の中に入れようとすると、抽象=捨象によって得られる認識利得がなくなってしまう。そういう特殊な例を、あくまでも例外として排除してしまえば、「納税額を出来るだけ少なく、財政支出からの恩恵を出来るだけ多く」ということが定理として成立する。

このような論理展開を、論理の強さと有効性として受け取るか、ご都合主義的な現実無視と受け取るかは、論理に対するセンスの問題ではないかと思う。抽象=捨象をうまく使えない論理は、結局は現実というものは複雑で分からないものだという不可知論的な結論に落ち着いてしまうのではないかと思う。確かなことを自信を持って主張するためにも、科学の持っているこの論理の有効性をしっかりと身につけたいものだと思う。
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by ksyuumei | 2007-01-28 18:45 | 方法論


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