著作権はどこまで守られるべきなのか

まだブログが主流になる前に楽天では日記形式のホームページサービスをしていた。僕がそれをはじめたのが2002年の1月だった。かれこれ5年程がたっただろうか。その楽天がまだ日記だったころ、自分のページに貼り付けていた画像などについて著作権法違反を指摘して回ることが流行したことがあった。

これに対して僕はずっと違和感を感じていた。確かにディズニーなどの有名な画像をどこかでダウンロードして自分のページに貼り付けるということは、著作権法の違反になるには違いない。だが、当時は個人のページを持つということに関して草創期であり、よく知らなかったために間違えたという人が多かったのではないかと思う。それを、凶悪な犯罪を犯したかのように糾弾して回る姿にとても違和感を感じたものだ。

もともと著作権法というのは、著作権を侵された当人が告発しなければ有効にはならないそうだ。当人に代わって代行する会社もあるそうだが、まったく関係のない第三者が告発しても仕方がない。だから、著作権法違反に気が付いたときは、糾弾するのではなく、もしそれを知らなかったらこういうものですよと教えてやればいいのにと思っていた。




それが糾弾という形にまで行ってしまうのは、本人は正義を実現しているつもりなのだろうが非常に危険な感じがしたものだ。軍国主義化で非国民を探しているような、全体主義的な正義の実現を連想させるような気がした。しかも、糾弾をしている人々が、反戦・平和を訴えるために権力批判をしている人々を攻撃しているのをしばしば目にしていたので、その正義が「非国民」を糾弾する正義と重なって見えるのを特に感じた。

著作権法違反というのは、その判断が容易であり、違反を指摘することに間違いがおこることがない。正義を主張するにはちょうどいい材料になる。指摘する側にほぼ絶対的な正しさがある。その意味では、著作権法違反の指摘というのは、著作権を守りたいという目的よりも、正義を主張するための手段として選ばれていたのではないかと今なら思う。その正義は反権力の人間がけしからんと思うような種類の正義と同じだったので、反権力の人間を攻撃することとよく重なったのではないだろうか。

反権力がけしからんと思うような心性は、宮台氏が語る、柱にすがる「さびしい輩」の心情ではないだろうか。反権力には、正しい指摘もあれば間違った指摘もある。その都度是々非々で判断すればいいのであって、反権力自体が間違っているのではない。しかし、反権力そのものに過剰に反応してけしからんと思うのなら、それは自分の中に、権力という崇高な存在を柱としてすがるさびしい尊厳の根拠があるのではないか。

そのような尊厳の持ち主にとっては、著作権法というのは、その正義が絶対的に見えるためにちょうどいいものだったかもしれない。著作権というのは絶対に守られなければならないという自明の前提がそこにあったように感じたからだ。しかしそれは本当に自明なことなのだろうか。僕はそこに疑問があったので、なおさら著作権法違反を摘発して回ることに違和感を感じていた。

そのような疑問に的確に答えてくれるものを、宮台真司氏が「宮台真司 週刊ミヤダイ」というインターネット・ラジオの放送で語っていた。それは直接的には、ウィニーというファイル交換ソフトの製作者を巡る裁判のことを語っていたのだが、その裁判の本当の意味は著作権法というものの本質にあるという指摘は、さすがに宮台氏だと感じたものだ。

著作権法の本来の目的は、著作権者という創作者の権利を守ることだったはずだ。それは、創作者の権利を守らなければ、創作意欲が枯渇し、新しいいいものが作られなくなってしまうという社会の不利益が出てくるという考えによっている。しかし、現行の著作権法は、本当に創作者の権利を守っているだろうか。

友人のギタリストは、自分が作った曲を演奏するときでも実は著作権料を払って演奏をしているというようなことを語っていた。それは、著作権を守ることを代行する会社に、その権利を委託していることからそのようなことが起こるらしい。この著作権を守ることを代行する会社はかなりの儲けがあるらしい。この儲けが、本来の著作権者に正しく配分されているかどうかにはかなり疑問があるようだ。会社だけが肥大していく構造になっているのではないだろうか。

現行の著作権法というのは、実は著作権者本人の利益を守るのではなく、その中間でその創作物を提供している会社が儲かるようになっている法律ではないかという感じがする。デジタル情報が氾濫するネット時代になって、著作権法の質そのものが変化したのではないかと宮台氏は指摘するのだが、それにあわせて著作権というものの考え方も変化しなければならないのではないかと思う。

著作権というのは、創造者の権利であり、何らかのオリジナリティに対して先駆者としての権利を保障するものだ。それは、一番最初にそれを作り出した人間の大きな才能を尊敬することでもあり、2番目にそれを模倣する人間のたやすさに比べれば大きな努力と才能を必要とするものだから、それを尊重する意義がある。

しかし模倣と想像というのはそう単純に判断できるものではなさそうだ。仮説実験授業の提唱者の板倉聖宣さんは、模倣と創造に関する研究も多いのだが、末梢的な創造を気取る仕事は、優れたものを模倣する仕事よりも価値が低いというようなことを言っていた。どうでもいいようなところで創造性を発揮するよりも、明らかに優れているという部分を模倣したほうがいいことがあるということだ。

西欧の近代文明に追いつき・追い越そうとした時代の日本ではこれが当たっていただろう。そこでは模倣の才能に優れた学校優等生が時代をリードする人間になっただろうと思う。しかし、模倣する手本がないような分野では、オリジナルな本当の創造性を発揮しなければ優れた仕事は出来なくなる。日本だけにしかなかった現象というのは、そのような本当の意味での創造性が見られるという。

板倉さんが研究していたのは脚気の歴史だった。脚気という病気は日本特有のもので、外国には手本にすべき先行研究がなかったようだ。だから、この病気を解決するには、本当の意味でのオリジナルな創造性を発揮する仕事が必要だった。日本特有の問題を解決する仕事に着手している人は、それを解決するためには創造性を発揮しなければならないのであって、もともと創造性がある人がそれに着手するとは限らないのではないかと思う。偶然そのような仕事に携わったおかげで創造性を発揮できたという人もいるのではないだろうか。

逆にいえば、手本を真似ただけであるのに、今まで日本にそのようなものがなかったために、日本では創造性を発揮したと評価されたものもあったのではないかと思う。かつてのポップミュージックから、フォークソング・ロックにいたるまでの日本の音楽のほとんどは外国からの輸入品の模倣だったのではないかと思う。それは、オリジナルを創造するよりも、模倣のほうがはるかに優れたものを創れたのではないかと思う。

社会が複雑になり、情報が氾濫するようになれば、どこまでが模倣でどこからが創造なのかという区別が難しくなるのではないかと思う。音楽などは、気持ちよく聞こえる音の組み合わせなどは有限の範囲に限られるので、その組み合わせがもう限界に近いくらい創られ尽くされているのかもしれない。本当の意味でのオリジナルを主張することなどもう出来なくなるかもしれない。

またそれだけ先行財産が多くなると、もはや新しい創作物などいらないという時代が訪れるかもしれない。先行財産を楽しむだけで人生が終わってしまう時代になったともいえる。過去の財産を利用できるアーカイブスが充実すれば、高いお金を払って新しいものを求めなくなる可能性もあるという指摘を宮台氏はしていた。

著作権の所在がはっきりしている著作物に対して、厳密に著作権の実行をしていこうとすると、人々はその著作物から他のものに目を移していくという現象が起きつつあるという。そのような面倒なことがあるのなら、他に楽しめるものはたくさんあるのだから、わざわざそんなものに手を出さなくてもいいということになる。

このような傾向は、CDが売れなくなったことに顕著に表れているという。新しい音楽には、もはや本当の意味でのオリジナルは感じられなくなっているのかもしれない。似たような昔の音楽を聞けば十分かもしれないし、その歌い手が歌わなくてもいいかもしれない。代替となるような作品はいくらでもあるという時代になってしまったのかもしれない。

かつてなら、同じ歌でもこの人が歌ったものでなければ聞けないというような感性がわれわれにはあった。だが、今ではどうなのだろうか。小説や映画などでも、この人が創ったものでなければというこだわりがあったが、今では楽しめるなら誰でもいいという感じがないだろうか。

著作権というものが、今までは商売上の必要性から考えられていたような気がするが、もはや商売上でもあまりうまく機能しない時代になったという感じがする。せっかくそのような時代になったのだから、模倣と創造の本質を深く見極めて、本当の意味での創造性を守り、著作権者の権利を守る方向というのが今こそ考えられるのではないかと思う。

情報にあふれている時代のわれわれの周りには本当の意味での完全なオリジナル作品はありえない。すべてが何らかの模倣作品だといえるだろう。その意味では、著作権を守るというのは、経済的な意味での権利を守るということの意味しかもたない。それはどこまで守られるのが、今の社会の状況としては妥当なのだろうか。

宮台氏は、ローレンス・レッシグを引いて、著作権は何らかのグレーゾーンを認めるような方向を持つことが望ましいというようなことを語っていた。レッシグによれば、著作権を完全に守るようなことをすれば、それは個人の幸福追求権を侵害するという。創作物を楽しむという面での、それから得られる幸福が制限されるというのだ。

他人の創作物であっても、それを他人に譲渡したり、ある集団で楽しむというのまで完全に制限してしまえば、そこで得られるであろう幸福感の追求を侵害するという考えのようだ。著作権者の権利を大幅に侵害しないという程度をどこかに設定することで、著作物を自由に扱う権限も認められるべきだという考えだろう。この「程度」の問題こそが著作権の問題の本質なのではないだろうか。著作権法違反を摘発する側に完全な正義が存在するのではない、と僕は思う。
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by ksyuumei | 2007-01-24 09:54 | 雑文


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