抽象的対象としての権力と現実の統治権力

学問と呼ばれる種類の理論や科学的思考において対象として設定されるものは、ほとんどが何らかの抽象過程を経て得られるものだ。現実に存在しているものがそのまま対象になることはない。現実の対象は、抽象的対象を理解する助けとはなるが、それをそのまま受け取ると抽象的な推論において間違った展開に陥る可能性がある。特に、現実を対象とした学問・科学においてその恐れが大きい。

数学などは、その対象が抽象的なものであることが明らかなので、抽象が現実に引きずられることは少ない。数学的対象は、そのままの形では現実に見つけることができないからだ。数学の場合は、むしろこの逆の現象が起きる。現実の対象に抽象性を押し付けるという、実際には成立しない性質が、そこにあるかのような錯覚を起こす。

たとえば、仕事算などという文章題では、ある人の仕事が10日で終わるなら、1日にこなす仕事は正確に1/10という抽象をする。しかしこんなことは現実にはありえない。仕事の質によって、1日にこなせる量はランダムな分布をするのが現実だ。もし正確に等分されるなら、人数さえ多ければその仕事は1時間ほどで完成するというような論理的結論さえ導かれてしまう。



三浦さんが、かつて中国における俗流弁証法を批判したとき、ある書物を書くとき、労働者が1ページずつ担当するなら、500人の労働者がいれば500ページの書物ができるというのを、戯画的に批判していたことがあった。これは確かに、寄せ書きのような書物はできるかもしれないが、何かまとまった主張を整合的に表現することはできなくなるだろうと思う。現実は、抽象世界ほどの単純さを持っていないのだ。

「権力」という存在は、その現実存在があまりにわれわれの生活に密着しているために抽象化が難しい対象ではないかと思われる。現実に何らかの圧力を感じていて、自分が自由に振舞っていないという感覚を持っていると、その自由を制限する何かに対して悪感情を抱くのではないかと思う。特に、自由というものがかなりありふれたものになってきた近代成熟期においては、自由の選択肢はあるのにそれが選べないということは、「不自由感」を感じて不幸だという気分が生まれてくるかもしれない。

このような気分の中で生きていれば、「権力」というものはすべて悪いものだというイメージが出来上がるのも無理はないかもしれない。だが、この一般化は、果たして正しい抽象であるかは一度考えてみたほうがいいのではないかと思う。「権力」というものを抽象すると、実は自分が「権力」を意識せずに自由に振舞っていると思い込んでいるときほど、「権力」は見事にその存在を実現しているとも考えられるからだ。

これは構造主義的な見地に近いのかもしれない。無意識のうちに人間を支配している構造こそが、本来の抽象としての「権力」と呼べるものかもしれない。この抽象的な「権力」は、抽象的であればそこに善悪の価値観を伴っていないのではないかと思う。あるのは、システムとしてのメカニズムだけではないのだろうか。ある種の「権力」は、実際に人間社会にどのような働きかけをし、どのような効果をもたらすかが解明できるだけなのではないだろうか。

この「権力」を、自分のために、あるいは他者を含んだわれわれのために生かすかどうかは、メカニズムをどれだけ正しく解明できるかにかかっているのではないかと思う。抽象的対象の間に成り立つ論理的な法則を解明し、それを現実に適用するときに、抽象と現実の関係を間違いなく把握することが重要だろう。

宮台真司氏が「連載第二二回:政治システムとは何か(上)」の中で政治システムとともに語っている「権力」は、その抽象性を考えるのにいい材料だと思う。宮台氏の「権力」概念は、『権力の予期理論』(勁草書房)という本に詳しく書かれている。しかしこの本はとても難しい。抽象度があまりに高いので、そこに書かれていることをイメージするのが難しいのだ。

『権力の予期理論』を理解するヒントとしても、政治システムとともに語られている「権力」について考えてみたいと思う。宮台氏によれば、「政治システムとは、社会成員全体を拘束する決定──集合的決定という──を供給するような、コミュニケーションの機能的装置の総体」として定義されている。この拘束が、自分にとって利益になるのであれば、積極的に拘束に賛成するであろうが、何らかの不利益があるのなら、いやいやながら従うということになるだろう。この、いやであるけれど従うという状態の中に「権力」が存在すると考える。

「権力」をこのように抽象すれば、社会というものにとって「権力」は必ずどこかに存在するものであり、「権力」をなくすということは、社会をなくすということに等しいことになるだろうと思う。どのような政治決定であろうとも、100%その構成員が賛成するというような決定は考えられないからだ。どこかに制限される人間がいる。その制限される人間が、決定に従わない場合は社会の秩序を乱すことになる。その場合は、「権力」というもので従わせるというメカニズムがどうしても必要だろう。抽象的な論理帰結としては、社会にとって「権力」は必要不可欠なものだということが出てくるのだと思う。

宮台氏は「ウェーバー的権力」という言葉で、「相手の抵抗を排して意思貫徹する能力」としての「権力」を語っている。この例として分かりやすいものは強い暴力的な機能を持ったもの、端的に言えば軍隊や警察のようなもので「権力」を示すことではないかと思う。力によって相手を支配する「権力」は、その実体は見えやすい。その「権力」行使に不当性を発見したときにも、抵抗の動機を持ちやすいといえるだろう。

この場合の「権力」の行使は、その正当性を示すことのほうが難しいともいえるかもしれない。戦争を起こすような「権力」は、この種の「権力」の中でも正当性の証明が難しい「権力」だろう。イラク戦争を起こしたアメリカのように、その戦争に大儀があることを証明することが難しいだろうと思う。

宮台氏が語るもう一つの「パーソンズ的権力」というものは、その概念をつかむことが難しいと思われる。これは、「権力」を振るう実体が見つからないのだ。そこに見えるのは、実体ではなく機能だけだ。自分の選択が、自分が最も望むものではなく、仕方なく選ばされるものになっているという圧力は感じるのだが、何がそのような「権力」を振るっているのかはわからない、というものだ。

「パーソンズ的権力」を語るキーワードは「資源動員能力」というものだ。つまり、ある種の利益をもたらすような能力が、人間の選択において影響を与えるだろうということは論理的に納得できるので、これがある種の制限になりそうだということは分かる。これは、利益を受ける人間にとっては、制限というよりもむしろ積極的にそれが実現するように求めることにもなるので、「権力」が行使されているという気分さえ抱かないだろう。

だが、その選択に必ずしも利益を感じない人間も、その選択を選ばざるを得ないときがある。たとえば、今の年金政策に対して利益を得る人はほとんどいないだろう。年金を支払っている人間のほとんどは、将来自分の不利益になることを予測している。しかし、これが制度としてある限りは、いやでも従わなければならないという感じを抱いている。

この年金制度は、誰か「権力者」がいて、その「権力者」が私益を追求するために設定したのではない。民主的な手続きを経て、選挙された議会が進めた政策であり、形の上では、みんなが賛成したからこうなったのである。ほとんどの人が反対しそうな政策なのに、形の上ではみんなが賛成したことを理由にそれが押し付けられる。ここに存在する「権力」とはどういうものだろうか。この「権力」を、多くの人の利益になるようにコントロールしなおすことができるのだろうか。「権力」のメカニズムを解明できたら、そのようなことが可能になるだろうか。

宮台氏は、「権力」の分析において「予期」という概念を使っている。「予期」とは、「こうなるであろう」と想像している内容のことで、まだ現実化していることではない。自分がある選択をしたとき、その結果としてこんなことが起こるだろうと「予期」した場合、人間はその「予期」に従って行動することが多い。実際にそうなるか試してみようと考える人は少ない。

「権力」の行使による弾圧的なものも、実際にそれが行われることは少なく、社会的に誰もがそうなるだろうという「予期」を持っていれば、「権力」は十分その機能を発揮できる。仕事もないのに付き合って残業するという必要はないはずなのに、付き合いが悪いと白い眼で見られるという「予期」を誰もが持っていると、付き合いたくないのに付き合わざるを得ないという「権力」がそこで機能する。意に反する行動をしてしまう圧力を感じる。

この「予期」を成立させる要因はどこにあるのだろうか。暴力的な機関というのは、一つの要因にはなるだろうが、それは抵抗を生み出す契機にもなる。「権力」の安定にとってはむしろマイナス要因になる可能性もある。宮台氏は、正統性というものをあげて次のように説明している。


「正統性とはウェーバーを踏まえるなら「決定への自発的服従契機の存在」です。ウェーバーは「カリスマがあるから/伝統だから/合法手続だから、従う」という正統性の三類型を挙げています。」


確かに正統性があれば、不本意であろうとも納得してそれに従うということができる。「権力」の装置は安定したものになるだろう。だが、今度は、この正統性はどのようにして形成されるかという問題が出てくる。この解明が『権力の予期理論』に語られている内容だろうか。

抽象的な意味での「権力」は、善悪という価値をもっていない。それはあくまでもメカニズムを解明する対象だ。それが実際に悪用されるのも、利益となるように正当に利用されるのも、抽象性とはあまり関係のない偶然の産物だといえるだろう。「権力」は必然的に悪いものになるのではなく、人間が賢くなればかなりうまくコントロールできるようになるものではないかと思う。ただ、今はまだ人間はそこまで賢くなっていないのだろう。私益の追求も、単なるエゴでは安定せず、本当の利益は公益に支えられてこそ得られるのだ、というメカニズムをほとんどの人が理解すれば、人間は「権力」を賢くコントロールできるようになるのかもしれない。「権力」のメカニズムの難しさを分かりやすく解明する努力をしたいものだと思う。宮台氏の言説がもっと分かりやすくなればと思う。
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by ksyuumei | 2007-01-17 09:43 | 雑文


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