権力のもつ有効性

現在の日本の社会状況は、規律の乱れや道徳の荒廃が指摘されることが多いのではないだろうか。学校においても、学力の低下や、自由が放縦の様子を見せるなど、いわば勝手なふるまいをする子供たちを育てているように見える。かつての日本では、人々はもっとまじめな生活に価値観を抱いていたし、学校でも子供たちは秩序に従う生活をしていた。

これは、かつての日本人のほうが道徳的に優れていたことを意味するのだろうか。あるいは、かつての教員のほうが子供の指導力が高かったので、秩序を確立することができたのだろうか。これは、そう思いたい面もあると思うが、本質的には「近代過渡期」が「近代成熟期」になったということがこのような変化をもたらしたのではないだろうかと僕は感じている。

「近代過渡期」の学校教育は、宮台氏が指摘するように、監獄と軍隊を手本としていた権力的な押し付けを基本としていたと思う。戦後民主主義は民主的な教育を実現したと言う面もあるだろうが、基本的にはそれは戦前とつながっている権力的な押し付け教育だったのではないかと思う。




これは「近代過渡期」というものがそのような教育を求めていたということがあるのではないかと思う。そのような教育で育った人々が、「近代過渡期」によく適応して、時代を前進させる力として有能な人を多く排出したのではないかと思う。権力を背景にして秩序を作り、ひとつの目標に向かって努力を傾けていくという道徳が、「近代過渡期」という時代にはぴったり適合するものだったのではないかと思う。

学校教育における体育は軍隊を思わせるものが色濃く残っているものの一つだ。整列させたり、全体が一つの行動を同じようにするということは、心身を健康にするという目的とは直接的にはかかわってこない。むしろ、個人に合わせたトレーニング方法を工夫したほうが、個人の心身の健康には効果がある。本当に民主的な教育をするのなら、全体主義的なやり方ではなく、個人主義的な方向へとシフトしていかなくてはならなかっただろう。

高度経済成長期に子供時代を過ごした僕は、今から振り返ると学校におけるこのような権力的な教育を反省できるが、子供だった当事はそれほど疑問を感じることはなかった。学校というのはどこでもそういうものだったから、いやな面はあったけれど仕方のないものとあきらめていたところもある。ほかの「自由」を知らなかったので、「自由」がないことに悩む必要がなかった。

ビデオニュースの主宰者の神保哲生氏は、中学生時代の体育教師の暴力について語ることが多い。それは秩序を維持するための暴力であって、教育的な意味はあまりなかったと思われるのだが、単なる暴力という判断はされず、教育に有効な「体罰」という判断がされていたようだ。

かつての学校が秩序を保っていたのは、教員に権威があったことが大きかったと思う。そしてその権威を支えるものが「権力」というものだったような気がする。本来ならば、個々の教員の人格に権威が帰することが最も理想的な状態になるだろう。しかしこれは大変難しい。本当に尊敬できる「師」と呼べる存在がどこにでもたくさんいるとは思えないからだ。たいていは平凡な教員であることが多いし、社会的な職業というのはそういうものではないかと思う。

大多数の人が従事する職業というのは、特に優れた選りすぐりの人が就くようなものでは、社会的に成立しない。人材が確保できないだろうと思う。選りすぐりの人が就くような職業は、エリート的な職業としてやはり特別なものになるだろう。多くの人が従事する職業は、一定のレベルの技術・能力を持っている人間であれば勤まるというものでなければならない。

そういう意味では、教員が学校の秩序を維持できるということは、個人の資質に帰する権威ではなく、外的な存在が保証する権威として確立されていなければ、秩序確立が難しいのではないかと思う。「近代過渡期」には、社会の要求に応えていた教育という姿が、学校の権威を信頼させ、国家権力も後ろ盾となっていたと解釈したほうが正しいのではないかと思う。

「近代過渡期」が「近代成熟期」へと移っていくと、社会に要請される能力というものが変わっていくのではないだろうか。それはもはや、軍隊や監獄を基礎とした押し付け教育では身につけることができない能力となってきたのではないだろうか。努力して時間さえかければ身につくという、勤勉さを最上の価値とするような教育があまり効果をもたなくなってきているのではないかと思う。

決められたことをきちんとやるよりは、その対象や状況に応じて試行錯誤の末に最適なものを選んでいくという、「自由」により適合した能力が必要なのではないかと感じる。全体主義的な一斉授業のカリキュラムよりも、個別的な一人一人に応じたカリキュラムが有効なのではないかと思う。そのようなものを制度的に保証するものとして、都立高校に登場した単位制という考え方を宮台氏は高く評価していた。

東京都の単位制高校は、何を勉強するかを自分で選ぶ制度になっている。何が自分に適合する学習なのかを、自分で試行錯誤して確かめていくような制度になっている。これによって、自分が「自由」に選んだ結果が自分にとってよいものをもたらすかどうかということを訓練することになる。「自由」を適切に使える能力を育てるということになるのではないかと思う。

「自由」な選択肢がなかった時代には、ある種の押し付けであっても、それを押し付けと感じることなく受容できただろうと思う。しかし、他に選択肢があることが明らかにわかる時代になった今は、なぜ他の選択肢が選べないかという思いが強ければ、権威や権力で押し付けようとするものは、「自由」を侵害する悪いものだと感じるのではないかと思う。

「近代過渡期」には、物理的な意味での選択チャンスがなかったので、それを獲得するための量的な努力が必要だった。そして、それは努力をすれば何とかなるという希望の見えるものだった。それが、ある種の我慢をしても努力をしつづけるというモチベーションを高めただろう。このような時代は、その目的を達成すると信じられるような方向であれば、少々の押し付けで「自由」を制限しても多くの人がそれを受け入れただろうと思う。

この「自由」を制限して秩序を確立するために、「権力」というものがかなり有効に働いたのではないかと思う。そして、この「権力」は、弾圧という面も見せただろうが、総体では人々の希望をかなえたので民主的な支持を得たのではないだろうか。これは、ファシズムがその初期においては大衆的な支持を得ることの理由に通じるようなものではないかとも感じる。

「近代成熟期」になると、「近代過渡期」で有効性を持っていた「権力」の一面が、その有効性を発揮できなくなったのではないかと考えられる。むしろそれは「自由」を侵害するひどい押し付けのように感じられるのではないだろうか。秩序の維持に有効性を発揮できるように「権力」というものも再構築される必要があるのではないだろうか。

「近代過渡期」においては、学校では、秩序を乱すものを弾圧する「権力」によって秩序を維持していた。神保氏が語る体育会系の暴力などは、稚拙な方法ではあるが、「権力」の面を端的に示す例としては分かりやすいものだろう。この時代には、秩序を乱すということが罰されるべきことであり、そこにどんな理由があるかなどは問題にされなかった。

「近代成熟期」は、何が秩序を乱すことであるのかということで、必ずしも合意できなくなってきているのではないだろうか。携帯電話の会話がうるさいという道徳的な問題も、携帯電話ですぐに会話するほうが便利だと感じる人が圧倒的多数を占めるようになれば、道徳感情も変わってくるだろうと思う。表面的に秩序を乱すように見えるようなことであっても、そこにどのような理由があるかで、是々非々が判断されるようにすべきなのが「近代成熟期」の秩序というものではないだろうか。

「近代成熟期」には、すべての事柄が再帰的に考えられるようになり、自明の前提というものが崩れる。前提が自明であれば、その前提を選ぶということに選択肢はない。それが当たり前のことであるということで人々の共通の理解がある。だが、それを再帰的に相対化して、その前提が本当に正しいのだろうか、他の可能性はないのだろうかと考えるようになれば、一つの選択だけを押し付けることは非常に難しくなる。多様性こそが重要なものになってくる。

多様性が許容されるような、そのような秩序の確立に役立つような「権力」というのは考えられるだろうか。宮台氏が社会学入門講座で語っていた、信頼ベースの社会のモデルというものが、そのような権力の実現ができるのではないかと感じる。

信頼モデルに対して、合意モデルという社会の形もあるようだ。これは、ある種のルールに人々が合意して、そのルールが守られている状態が秩序があると感じるような社会だ。そこではルール破りが出た場合に秩序が乱れたと判断し、秩序を乱した人間を処罰するようになる。これは多様性を許容することができない。

信頼をベースにするということは、社会を構成する人々が、プラットホームである社会そのものを転覆させるというような無茶をしないという信頼が基礎にある。だから、表面的には合意されたルールを破るような出来事があっても、そこに整合的な理由があることが納得できれば、一定の範囲でルール破りも許容される。それは秩序を乱すことにならない。信頼さえ失われなければいいわけだ。これなら多様性を許容することができるだろう。

このような社会は、信頼を失墜させるような行為に対しては厳しく対処しなければならない。そのために「権力」というものが有効性を発揮しなければならない。今の日本の状況はどうなっているだろうか。ルール破りの面がセンセーショナルに見える凶悪犯罪の報道を見ていると、その犯罪にいたった個人的な特殊な事情というのはあまり省みられていないように感じる。むしろ、ルールを破ったことで、その人間が生まれついての極悪人だったようなイメージを持っているのではないかとさえ感じる。

逆に、政治家に対する信頼を破るような人間が多く出てきているにもかかわらず、彼らに対する厳しい処置を要求するような社会的な雰囲気がないように感じるのは僕の思い過ごしだろうか。今の日本社会は、信頼をベースにしているとは到底思えないような状況ではないのだろうか。このような状況のもとで「近代成熟期」を乗り切ることができるのだろうか。信頼を基礎にした社会を構築する努力をしなければ、教育改革も本質的な面では成功しないのではないだろうか。「近代成熟期」という認識は、「権力」と個人の関係を考える上でも重要になるのではないかと思う。
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by ksyuumei | 2007-01-15 09:26 | 雑文


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