宮台真司氏が「連載第二〇回:法システムとは何か?(上)」の中で「法」というものを語っている。この定義も、日常感覚からするイメージから言うと少しかけ離れているように見えるが、社会というシステムを理解するには有効性を感じる定義になっている。
宮台氏が語る定義をそのまま受け入れるというのは、何か定義が天下って無反省にしたがっているように見えるかも知れないが、学習というものはそのような形で始めなければ出来ないものではないかと思う。宮台氏の定義は、宮台氏の長く深い考察の結果として得られたものだとしても、それと同じだけ長く深く考えなければ見出せないとしたら、宮台氏と同じ能力を持たない人間にはその定義は見出せなくなってしまう。 実際には優れた人間から学ぶことによって、かなり難しい・自分一人では見出せないようなことも理解することが出来る。科学の歴史というのはまさにそうだっただろう。科学というのは他者が学ぶことを可能にしたので、誰かが到達した地点から次のステップへ進むという進歩の歴史をたどることが出来た。いつでも全くゼロから始めなければならないとしたら、真理の認識は特に優れた人にしかできないことになる。 もちろん特に優れた人は存在するだろうが、それが「特に」と呼ばれるのは、大多数はそうではないと言うことだ。その大多数にとっては、誰が優れた人で、誰に学ぶことが大いなる真理を得ることが出来るかを正しく判断することが重要になるだろう。特に難しい対象を理解するには、誰に学ぶかが決定的に重要になってくる。 社会を深く理解するための師として僕は宮台真司氏を選んだのだが、ここで語られている「法」の本質への見方も、社会の中で「法」がどのように役立っているかを見るのに見事な整合性があるのを感じる。 「法」というものが人間社会の中にこれだけ深く浸透していると言うことは、それに欠点があるかも知れないが、本質的な部分で役立っていると言うことがあるはずだと感じる。時には冤罪の発生という事実があっても、それがなぜ発生してくるかと言うことを、不合理の発生でさえも合理的に理解できるのなら、それは現象をよく説明する論理になっているのではないかと思う。これは矛盾の存在に目を向ける弁証法に通じるような考え方だろう。 冤罪の発生を合理的に理解すると言うことは、冤罪が発生してもやむを得ないからそれを受け入れろと主張しているのではない。むしろ逆に、冤罪発生のメカニズムが合理的に理解できれば、その発生のメカニズムを改善することによって冤罪の発生を防ぐことが出来ると言うことが語れると言うことだ。冤罪は不合理で不当なものだが、「そんなものはあるべきではない」と糾弾をしてもそれがなくせるものではない。発生のメカニズムを正しく捉えない限りそれはなくせないものだと思う。 宮台氏の「法」の定義は次のように語られる。 「連載でも述べましたが、法とは紛争処理の機能を果たす装置の総体です。紛争処理とは何か。紛争の抑止ではありません。紛争を公的に承認可能な仕方で収めることです。公的に承認可能な仕方とは、「社会成員一般が受容するだろう」と期待できるような仕方です。 「収める」とは何か。紛争当事者のどちらかが死滅するまで戦うことを以て「収める」こととし、その結果を「公的に承認」することもあり得ます。ただ、今日まで生き延びた社会はどこも、そこまでせずに、「手打ち」することを以て「収める」こととしています。」 日常感覚では、「法」というのは正義を実現してくれるもののように感じる。だからこそ「正義」ではない冤罪を発生させるようなものはケシカランという感覚も出てくるわけだ。「正義」というのは「正しさ」にも通じるものだが、「法」を正しさを実現するものと考えると、冤罪の発生は矛盾以外の何ものにも見えなくなり、なぜ発生するかという合理性を求めることが出来なくなる。 だが、「法」が求めるものが「正義」ではなくて「手打ち」だとするなら、「正義」が決定できなくても「手打ち」が出来れば「法」を実現していることになるだろう。「正義」というものがいつでも確実に決定できるものでないと言うことから、あやふやな決定をして「手打ち」をしなければならないケースが出てきたときに冤罪が発生すると理解することが出来る。 冤罪というのは、どれほど民主主義が進んだ国であってもゼロにすることは出来ないことだろう。人間がやることに間違いというものはある。だが、その発生を出来るだけ少なくするように工夫することは出来る。それが「推定無罪の原則」というものではないかと思う。これが正しいと言うことは、「法」を「手打ち」だと理解するときに納得しやすい。「法」を「正義」だと思うときには納得することが困難になるのではないだろうか。 「推定無罪の原則」は「疑わしきは被告の利益に」という言葉でも語られるのではないかと思う。その人間がどんなに犯人のように見えようとも、決定的な証拠がない限り、つまりその人間が犯人であると言うことを積極的に肯定する証拠がない限りは無罪だと考えると言うことだ。無罪というのは、罪を犯していないと判断するのではなく、罪を犯したと決定できなかった、そういうときは無罪なのだと考える原則だ。 だから本当には罪を犯しているのだが、それを証明できなかったときに無罪にするのは、「正義」を実現できていないことになる。これは、「法」を「正義」だと考える考え方からすると、「法」が実現されていないように見える。しかし、本当に罪を犯しているのかどうかが分からないときに、罪を犯しているに違いないという先入観が強いと、「正義」の実現を求める人々は間違った判断をして冤罪を作る恐れがある。 それを防ぐためにこそ「推定無罪の原則」がある。これは、本当のことが分からないときは罪を問えない、つまり無罪であると言うことで「手打ち」をしようと言うことで合意することなのだと思う。「推定無罪の原則」と言う「手打ち」があれば冤罪のかなりの部分は防げるだろうと思う。 この「手打ち」は国民一人一人にとって利益になることだ。罪を問うのは警察権力という国家権力が行う。国家権力にとっては、個人の疑わしい面を調べることはたやすい。何かの標的になれば、疑わしい面などいくらでも見つけることが出来る。もし疑わしいだけで有罪になるのなら、国家はねらいをつけた人間を誰でも罪に陥れることが出来るだろう。このような可能性に歯止めをかけるために「推定無罪の原則」は有効だ。個人が刑事被告人になる可能性は少ないだろうが、それは誰にでも起こる可能性を持っているものでもある。犯罪現場の近くにたまたま居合わせたがアリバイが無いというケースは起こりうるだろう。そのようなときに、犯罪を犯したという積極的な証拠がない限りは無罪であるという原則は、個人にとっての大きな利益となるに違いない。 この「推定無罪の原則」に反する出来事が、「和歌山毒カレー事件」で出された死刑判決だったと宮台氏も神保氏も批判していた。これは、その判決理由が、林被告以外には犯行を行うことが出来た可能性がないからと語られていたことが「推定無罪の原則」に反するという批判だった。林被告以外にそれが出来たはずがないから、林被告が犯人だという結論だ。これは、林被告がその犯行を行ったという積極的な証拠から得られたものではない。まさに「推定無罪の原則」に反するものだろう。 林被告が犯人かどうかは分からない。もしかしたら犯人かも知れないと言う可能性は残るだろう。しかし、分からないという状況の時は無罪という決定を下すべきだと考えるのが「推定無罪の原則」だ。だから、この原則は「100人の真犯人を逃したとしても、一人の冤罪者を出さない」ということで共通に了解しなければ出来ない「手打ち」だ。進んだ民主主義国家ではこのような「手打ち」が出来ているようだ。 だが、犯罪者というものが、誰でもそのような追求を受ける可能性があると受け止められず、悪いことをする特別な奴が犯罪者だと言うことが社会の認識として大きいものになると、「100人の真犯人を逃す」ことに耐えられなくなってくる。誰かが犯人になってくれないと不安が静められないというメンタリティが育つことがある。そのようなときは、むしろ疑わしい奴に厳罰を与えてくれと言うことが「手打ち」になる可能性がある。 林被告が犯人であるかどうかは分からないが、分からないのであるから無罪だとしなければならない、と言うのが近代民主主義国家の「手打ち」にならなければ、個人にとって「法」の脅威の方が大きく感じる。日本の現状は、どうも「推定無罪の原則」が実現されているように見えないので、「法」が個人にとっての脅威になる可能性の方が大きいのではないかと感じる。 「推定無罪の原則」は感情的には受け入れがたいものがあると思う。だが、社会というものや「法」というものを深く考えれば、この原則こそが正しいと結論できるのではないだろうか。感情を抑えて論理の結論を受け入れるには、「法」が「正義」を実現するものではなく、「手打ち」として社会的に共通に承認されるものなのだという定義が役に立つだろうと思う。 この定義は、普通に生活して「法」の現象を見ていてもたぶん発見するのは難しい。社会について「法」について深く考えてきた人に学ぶことによって初めて気づくようになるだろう。そして、その定義の有効性に気づいた人間は、「法」の他の定義との比較によってこの定義の意味をもっと深く知ることが出来るようになるだろう。 「法」についての多様な現象を全て理解したあとに、最も優れたものが発見できるという手順は、かなり優れた資質を持った人でなければ難しいだろう。しかし、普通の資質であっても、何か一つ優れたものを頼りに、多様な現象を見直すと言うことが出来れば、それがなぜ優れているかを比較的容易に理解できると思う。学習というのはそういうものだろう。 宮台氏は、法定義論の歴史や言語ゲームによる定義などを語っている。これらも、先入観なしに白紙の状態で理解しようとするよりも、「法」が「手打ち」としての機能を持っているという観点から、その内容を理解した方が理解しやすいのではないかと思う。そして、その方がたぶん正しい理解に近づくのではないかと思う。 我々の誰もが世界を広く深く捉えられるものではない。たいていの人間は、世界を広くとりすぎれば、そこには混沌しか見えてこない。狭い一部を深く観察することによって全体の理解に役立てようとするのがそもそもの科学の発想だ。狭い一部に対して本当の理解をもたらしてくれるのは誰なのか、学習や教育にとって大事なのは、そのセンスを磨くことだろう。
by ksyuumei
| 2007-01-11 09:55
| 雑文
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