科学とは何か--反証可能性の意味

科学というものを考える際に、多くの人が頼りにする考えにカール・ポパーの「反証可能性」というものがあるのを知ったとき、僕はこれに大きな違和感を感じた。ポパーが主張することが間違っていると言うことではない。自然科学系(=数学系)から言えば、ポパーが語ることはごく当たり前のことだと感じる。その当たり前のことをことさら声を大にして主張しなければならないのはなぜかと言うことに大きな違和感を感じたのだ。

その疑問に答えてくれるような資料を「<科学哲学史(1) 帰納主義>」で始まる科学哲学史の記述の中に見つけた。ここでは、科学を観念的な思い込みでなくし、現実的に有効な理論として構築するために「帰納主義」という考えが提唱されたということから説明が始まっている。

「帰納主義」は、判断の根拠を現実に求めるもので、これ自体には何も不当なところはない。しかし、これは判断としては個々の個別的な判断についてしか語れないもので、科学のように一般的・普遍的な命題として語ろうとすれば、個別から普遍への論理の飛躍が必要になる。この論理の飛躍をうまく処理できないと、科学は「仮説」に過ぎないもので、新たな出来事に対してはそれが正しくない可能性をいつもはらんでいるものだと感じてしまう。




科学を「仮説」だと思ってしまうと、科学に対する信頼が崩れてしまうし、「疑似科学」と呼ばれる、ある特殊な条件下では正しい言明だが、普遍的な正しさをもっていない「科学もどき」(あるいは「エセ科学」)と「科学」の区別がつかなくなってくる。

科学の正しさという普遍性を、現実の対象に対して100%完全に成立すると捉えれば、科学が「仮説」に解消されるのは当たり前ではないかと思う。現実の多様性はいつでも「例外的存在」という「誤差」を含んでいるからだ。この「誤差」に対しても当てはまるような法則を打ち立てようと思えば、全ての科学法則には欠陥があると結論せざるを得なくなる。

「<科学哲学史(3) 論理実証主義>」によれば、論理実証主義者はそのような考え方で、科学的な命題を絶対的真理として厳密に検討したようだ。そんなことをすれば、現実の多様性から生まれる「例外的存在」が科学理論を否定することは明らかだ。それで、


「論理実証主義のように、厳密に考えてしまえば、相対性理論だろうと、量子力学だろうと、ホンモノの科学(正しいと確実に言える理論)には決してなりえず、「疑似科学の仲間」にすぎないのだ。」


と言うことになってしまうだろう。これは、科学というものを「現実の対象に対して100%完全に成立する」絶対的真理だとする前提に間違いがあるのである。これは、エンゲルスが『反デューリング論』に書き、三浦さんが継承した誤謬論の発想で理解することが正しい理解になる。

エンゲルスによれば、絶対的真理というのは、相対的真理の極限値としてのみ存在すると理解するのが正しい。それは、近づいていくことは出来るものだが、そこに達することは出来ないものだ。現実に得られる科学としての真理は、相対的真理であり、ある条件の下でのみ「絶対性」を獲得する。その条件をはずれるような事柄が出てくれば、それは「例外」として処理されることになる。

そして、その例外によって条件を狭めていくことが出来れば、それは「絶対的真理」に一歩ずつ近づいていることを意味し、そのような相対的真理の連鎖によって実現されるものが、完全な科学としてイメージされている絶対的真理と言うことになる。

このような発想の元で考えれば、科学は「相対的真理」であり、エセ科学は「相対的誤謬」に過ぎないものになる。両者の違いはかなり明らかだ。どちらも「仮説」に解消するような、論理実証主義的な厳密性こそが、両者の区別がつかなくなる「味噌もクソも一緒にする」発想になる。

ポパーは、論理実証主義が区別をつけられなくなった、科学とエセ科学の違いを、「反証可能性」という概念で区別をしようと考えたらしい。だが、基本的な面で、科学を「仮説」に解消するような、科学的真理に「絶対性」を求めるような発想をしていたらこの区別も現実にはつけられなくなるだろう。

科学と科学でないものとの区別は確かに難しいときがあるだろう。だが、その時に「反証可能性」というものを使って区別をしようとすると、この「反証可能性」の方がさらに難しい判断になると言うマンガのような話になってしまうのだ。上記のページで展開されている話はまさにそのようなもので、結果的には、全ての科学はエセ科学と変わりがないという結論になってしまう。

「<科学哲学史(7) ポパーの決断>」で語られている最後の結論は次のようなものだ。


「ポパーは、
「結局、このような疑いを乗り越えて、何らかの科学理論を構築するためには、どこかで疑いを止める地点を<決断>しなくてはならない」
と述べた。
「人間は、原理的に、どの観察や理論が正しいかを知ることはできないのだ。だから、人間は、どこかで疑いを止めなくてはならない。どこかで『この観察・理論は絶対に正しい!』という<決断>をしなくてはならない。そういう<決断>にもとづいて、理論を構築していかなくてはならない。」
つまり、科学理論とは、
『うるせぇんだよ!とにかくこれは絶対に正しいんだよ!』
という人間の<決断>によって成り立っており、そのような思い込みによってしか成り立たないのだ。
(そして、それは、すべての理論体系(哲学、倫理、宗教)について、
 当てはまることである。)」


これは典型的な不可知論の結論というものだろう。「絶対的真理」というものは現実にはあり得ないのだ。エンゲルスが語ったように、自然科学系にとってはごく当たり前の結論に落ち着いたというわけだ。しかし、僕は「相対的真理」の有効性を感じているので、「絶対的真理」の存在を否定したところで終わる不可知論に対して大いなる違和感を感じてしまう。科学を「相対的真理」として捉えれば、それはかなりの有効性を持ったものとして役立てることが出来るのである。

僕はポパーに詳しくないので、ポパーがここで止まってしまったのどうかは分からない。だが、ここで止まってしまったとしたら、それは哲学者の限界を示すものだろうと思う。哲学者は物事を厳密に掘り下げて思考することに優れている。だが、対象によっては掘り下げすぎたら間違いを犯すものも出てくる。程度の問題を正しく判断するには、掘り下げることだけに深い技術を持っているだけでは足りない。もっと多様な視点から、全体像を把握して判断する必要がある。

「反証可能性」によって科学を定義しようとする発想は、その根底に科学を「仮説」に解消しようとするものがある。このような発想では永久に科学の何たるかを理解することは出来ないのではないかと思う。もちろんエセ科学との区別もつかないだろう。

「反証可能性」というのは「§3 科学とは何か?  反証主義」によれば、「反証不可能」というものを定義して、それではないと言うことから導かれている。「反証不可能を」否定する二重否定によって「反証可能」という概念をつかもうというわけだ。「反証不可能」な命題とは次のようなものだという。


「(a)論理的に反駁不可能(論理的に矛盾していない言明)
 (b)経験的に反駁不可能(如何なる可能な経験的言明とも両立しうる言明)」


(a)は、論理的にはトートロジーと呼ばれているものになる。それは、無前提に正しいことを主張するものであるから、もちろん反証など出来るはずがない。トートロジーが反証されてしまえば論理は破綻してしまうからだ。現実を考察する基礎として論理の正しさを前提とするなら、トートロジーは反証できない。

(b)の場合には、二つの解釈が出来る。一つは技術的な問題として「経験的に反駁不可能」だというものだ。しかしこれは「可能性」としての反証が出来ないという意味ではない。だから、そのようなものは科学という判断がまだ出来ないと言うだけのものであって、「科学である」とも「科学でない」ともどちらとも言えないと言うだけのものになる。まさに「仮説」として扱っていればいいもので、将来的に技術的な問題がクリアできれば、「科学である」(すなわち条件付きの普遍的な真理である相対的真理)か「科学でない」(すなわち特殊な状況で成立する例外的な事実で、条件が違えば相対的誤謬になる)かが決定できるのだと考えておけばいい。

もう一つの解釈は、その反証が正しいかどうかの判断が、常に結果から解釈されるようなときには、反証されなかったという解釈さえしておけば、反証されないことになる、というものだ。「屁理屈と膏薬はどこにでも付く」ということわざが語るように、このような論理では「反証不可能」になる。「§3 科学とは何か?  反証主義」の最後に提出されている<小レポート課題>の


「ダーウィンの「適者生存」の主張は、反証不可能である。」


という問題は、まさに解釈の問題として反証を拒否するから、「適者生存」という法則は「反証不可能」なものになると考えられる。これは、生存競争において生き残るのは、それが環境に適した性質を持っているからと考える法則だが、「適者」という概念の中にそもそも、生存競争で生き残った存在というものが含まれている。つまり、

 現実を観察して生き残った → その生き残った存在は「適者」である
              → 「適者」は生存競争に勝つ

と言う解釈をしているに過ぎない。これは論理的には

 ある個体が生存競争に勝つ個体である → その個体は生存競争に勝つ個体である

と言うトートロジー(同語反復)を語っているに過ぎない。これは(a)の場合でもあるというわけだ。これを科学にするには、ある個体が「適者」であるかどうかを、それが生き残ったという結果を見出す前に決定する法則として提出すればいいと言うことになる。結果からの解釈によって反証を拒否することが出来ないようにしてしまうのだ。

反証というのは、相手にそれを拒否させないように工夫すればたいていのものは「可能性」としての反証を提出することが出来る。ここでも科学とエセ科学の区別はつかなくなってしまう。科学とエセ科学を本当に区別したければ、科学に対する根本的な発想を変えなければならないだろう。次はそれを考えてみたいと思う。
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by ksyuumei | 2006-12-29 11:48 | 科学


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