バックラッシュの奥に潜むものと丸山真男

宮台真司氏の「アンチ・リベラル的バックラッシュ現象の背景」について書いたエントリーに浩瀚堂さんという方から「宮台真司氏の所説の疑問」というトラックバックをもらった。浩瀚堂さんの論旨をまとめると、次のようなものではないかと僕は受け取った。

1 宮台氏は丸山眞男の「亜インテリ論」を間違えている
 (丸山が語った「亜インテリ」は「宮台氏が言う様な頭の悪いインテリや低学歴を指すのではなく」「義務教育以上の高等教育を享受していたし、経済的にも当時の中間層に属していた人々」を指す)

2 宮台氏は『丸山眞男の時代』(竹内洋・著、中公新書)の読み方を間違えている。
 (丸山の「亜インテリ論」に対して「竹内先生はこれに対してやや批判的な記述をしている」。それを自説に都合良く解釈している。つまり、丸山の「亜インテリ論」が正しいかのように竹内氏が書いているように引用している。)

ここでは宮台氏が間違っていると言うことを二つ指摘しているのだが、正直言って、この二つは僕は考えもしなかった。その理由は二つある。一つは、宮台氏に対する信頼感が大きいと言うことだ。宮台氏ほど論理的に明晰な思考をする人間が、他人が言っていることを間違って受け取ると言うことはほとんど考えもしなかったからだ。もし他人が間違えていたら、それを間違いとして正しく受け取るだろう。間違ったまま受け取ったり、正しいものを間違って受け取るとは考えられなかった。



もう一つの理由は、もし宮台氏が上の二つを間違えていたとしても、僕が考えたエントリーではほとんどその影響はないと思われたからだ。浩瀚堂さんがトラックバックを送ってくれたのははてなのダイアリーの方だったが、同じエントリーをライブドアのブログでリンクさせておくと次の二つになる。

「2006年03月19日 二流問題」
「2006年03月20日 一流の学者と二流の学者をどこで区別するか」

ここで僕が論じているのは、「バックラッシュ(揺り戻し・反動)と呼ばれる現象の中に、二流の学者が台頭して権力を握り、一流の学者を駆逐するという面」の考察だ。この現象を合理的に理解したいと言うことから、宮台氏の論説を参考にしてその整合性を見つけていこうとしていた。

この理解のための道具として、「亜インテリの、真のインテリに対するルサンチマン」と「複雑な現実の複雑性を失わずに理解する論説の難しさと、短絡的な現象を直結させて単純化した論説の理解のしやすさ」というものを利用した。この二つの言葉で表される現象が、現実のものとして発生しやすいということが言えれば、二流の言説として低俗なものであっても、それが権力を握ったものの大量宣伝によって社会に浸透すると言うことを理解させてくれるのではないかと思った。

宮台氏が丸山の「亜インテリ論」を用いて説明したのは、そのような考え方が、宮台氏によって初めて見出されたのではなく、すでに丸山眞男によっても見出されていたのだと言うことを語っただけなのだと思っていた。僕は、宮台氏の説明に説得力を感じ、それが正しいと思っていた。だから、その説明の過程に現れる「亜インテリ論」も正しいと思っていた。

だから、これが丸山眞男のものでなくても、それは論理の展開の本質には全く影響がないと思う。丸山のものでないのなら、それは宮台氏のオリジナルだと言えばそれですむことではないかと思う。論理の流れとしては「亜インテリ論」は正しいと思う。それが丸山のものであるかどうかは別の問題ではないかと思う。

浩瀚堂さんは「丸山の亜インテリ論は八つ当たりに過ぎぬであろう」と語り、丸山の「亜インテリ論」に関しては批判的に見ているようだ。また、竹内氏の『丸山眞男の時代』からの引用も丸山の「亜インテリ論」への批判として読んでいるようだ。この引用部分の解釈に対しては、僕は若干の異論も感じるのだが、それは別の問題として、宮台氏がエントリーの中で語っている「亜インテリ論」に関しては、直接の言及はないように見える。

浩瀚堂さんのエントリーの趣旨は、あくまでも宮台氏が読み間違えていると言うことであって、「亜インテリ論」に関しても、読み間違えた当の丸山のものには言及しているが、宮台氏が提出している「亜インテリ論」に関しては、単に丸山のものとは違うという指摘がされているだけで、それ自体の正しさは問題にされていないようだ。そういう点では、僕が論じたものと「論点」が違うので、宮台氏の文章の受け取り方の視点が違っただけのことなのかなとも思える。

だから、宮台氏に代わって、僕がそれは間違いではないと主張するのは変なことになると思うのだが、宮台氏が、ある意味では単純と思えるような間違いをするとは信じられないので、それは本当に間違いなんだろうかという疑問を語っておきたいと思う。幸いにも、僕は竹内氏の『丸山眞男の時代』という本を持っていたので、この中から丸山の「亜インテリ論」の本当の姿を探し求めてみた。

だが、残念なことにこの本からは、丸山自身の「亜インテリ論」の本体とも言えるものは見つからなかった。この本に書かれているのは「時代」ではあっても丸山の「理論」ではないからだ。

関係していると思われる部分の記述は、「ファシズムの担い手」として丸山が考えていた中間階級に第一類型の「本来のインテリゲンチャ」と第二類型の「疑似インテリゲンチャ乃至は亜インテリゲンチャ」と言う言葉が出てくるところだ。ここで「亜インテリ」として挙げられている具体例は、浩瀚堂さんも引用しているが次のようなものだ。


「小工場主、町工場の親方、土建請負業者、小売商店の店主、大工棟梁、小地主、乃至自作農上層、学校教員、殊に小学校・青年学校の教員、村役場の吏員・役員、その他一般の下級官吏、僧侶、神官」


これらの「亜インテリ」こそがファシズムを煽ったというのが丸山の「亜インテリ論」のように竹内さんの本からは読める。ここには、宮台氏が語るような「丸山がインテリの頂点だったために、亜インテリ(竹内氏は疑似インテリと表記しますが)の妬みを買ったから」というようなルサンチマンの問題は語られていない。

だが、「丸山眞男によれば、亜インテリこそが諸悪の根源です」という判断は、竹内氏の本でも語られているようだ。「大衆を悪玉にせず、擬似インテリを悪玉にしているのである」という言葉にそれがうかがえる。「亜インテリ」の問題を丸山が語ったのは確かで、それこそがファシズムを煽ったものであるという、「諸悪の根元」=「悪玉」であるというのも語っている。

問題は、丸山が語った「亜インテリ」の時代と、宮台氏が問題にしている現在の「亜インテリ」の時代とに違いがあると言うことだ。時代背景の違いがあるので、丸山の論をそのまま現代に当てはめることは出来ないだろう。そこには、当然丸山の論の展開があって現在への応用と言うことがあるはずである。

僕は丸山眞男に詳しくないので、丸山が「亜インテリのルサンチマン」について語っていたかどうかは分からない。しかしそれを前提にすれば、アカデミック・ハイラーキーの頂点である東大法学部教授を攻撃するという動機は理解しやすい。そしてその攻撃が、リベラルへの攻撃になり、結果的にファシズムを煽り・翼賛すると言うことにつながるのも理解しやすい。

これを逆に考えると、まずは「亜インテリ」のファシズムへの翼賛が前提され、それによってファシズムを煽り、リベラルであるアカデミック・ハイラーキーの頂点を攻撃すると言うことが論理的に帰結される。

問題は、「亜インテリのルサンチマン」の方が前提として存在することが合理的なのか、「亜インテリのファシズムへの翼賛」が前提として存在することが合理的なのかと言うことになるのではないだろうか。「亜インテリ」と「ファシズム」の間に強い親和性があるのなら、「亜インテリ」という存在が「ファシズム」への翼賛を生むことになる。

しかし、「亜インテリ」と「アカデミック・ハイラーキーに煮え湯を飲まされる(学問的にはどうしても一番になることが出来ない、優等生意識の強い「亜インテリ」の挫折感が「煮え湯」と言うことの比喩だろうか)」と言うことの方が親和性が高いのなら、むしろ「亜インテリ」であることは、アカデミック・ハイラーキーへのルサンチマンを生むと理解した方が合理的なのではないだろうか。

丸山がこのことを語っていないとしたら、それは二つくらいの理由が考えられる。それはあまりにも当たり前のことなので、書かなくても読者はそれくらいのことを知っていると想定していたというものが一つ。もう一つは、本当にそのことに気が付かなかったというものだ。

書いていなくても、それが当たり前のことだと思われていたなら、丸山がそれに言及していなくても、宮台氏が、丸山の「亜インテリ論」として紹介するときにそれを前提にしていてもかまわないだろうと思う。また、丸山が本当にそんなことを考えてもいなかったら、それは不思議なことだが時代の限界なのかも知れない。その時は、宮台氏が語る「亜インテリ論」は丸山の「亜インテリ論」に宮台氏が付け加えたオリジナルなものだと了解すればいいのではないかと思う。

また「亜インテリとは、論壇誌を読んだり政治談義に耽ったりするのを好む割には、高学歴ではなく低学歴、ないしアカデミック・ハイラーキーの低層に位置する者」という宮台氏の言い方は、「亜インテリ論」を現在に適用するための解釈を語ったものとして僕は受け取った。丸山が語った「亜インテリ」を現代において解釈するなら、このようになるのではないだろうか。だから、これは丸山が語ったものとそっくりベタに重ならないからと言って間違った理解とは言えないのではないか。むしろ、ベタに重ねてしまえば、時代背景の違いを無視していると批判されてしまうのではないだろうか。

また、宮台氏の定義は、簑田胸喜を「亜インテリ」の特異点として理解するための定義になっているのではないかと思う。丸山の一般的な定義に従うと簑田胸喜は「亜インテリ」から除かれてしまうのではないかと思う。簑田は、東大教授ではないのでアカデミック・ハイラーキーの頂点ではないが、高学歴で私大の教授という「文化人」ではある。

簑田はファシズムを翼賛した人間であり、本物のインテリだとはとても言えない。簑田が「亜インテリ」ではないと理解する方が難しい。だからこそ「ないし」という接続語で、簑田のような存在を包含するような定義こそが、本当の意味での「亜インテリ論」を完成させるためにふさわしいと考えたのではないだろうか。丸山が、簑田を「亜インテリ」だと考えていたかどうかは、直接の証拠を見つけていないが、簑田を含む「亜インテリ論」になってこそ、「亜インテリ論」は社会現象を整合的に説明する理論として完成するのではないかと思う。
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by ksyuumei | 2006-12-24 12:54 | 宮台真司


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