『ネット時代の反論述』(仲正昌樹・著、文春新書)

仲正さんの新しい本を買った。僕が仲正さんを知ったのは、宮台氏と対談をしていたのを読んだり聞いたりしたことが最初だった。宮台氏に対しては、これはすごい人だと感じてから、その言説をもっと知るにつけその印象が強まっていくのを感じている。宮台氏の言い方を借りれば、すごさに感染しミメーシスを感じると言うことになるだろうか。

その宮台氏との対談と言うことで関心を持ち、その語るところに共感するところが多かったのが仲正さんだった。宮台氏にはすごさは感じるのだが、親近感は感じない。それに対して、仲正さんには共感と親近感を感じる。これは内田樹さんに感じるものと似ているような気がする。宮台氏が語ることからは、「目から鱗が落ちる」というような新しさをいつも感じるのだが、仲正さんや内田さんが語ることからは、「ああ僕も前からそう思っていた」というようなことを改めて適切な表現をしてもらって確認するというような感じがしている。

仲正さんや内田さんの表現には、ナイーブなベタな表現と言うよりも、皮肉っぽくネタで語ると言うところがある。そのあたりも何か共感し好きなところだ。これはigelさんがコメントの中で書いてくれたことにも通じるのだが、「この種のアイロニカルな矛盾に満ち溢れているのがわれわれの生きる社会というものの本質的な姿なのであり、それをどう扱えるかが論理には問われていると思います」と言うことを知らせてくれるものとして、特に僕の気に入るような表現になっているのではないかと感じる。



さて、昨日購入したこの仲正さんの本で、共感した部分を抜き出して感想を記していこうと思う。まずは次のような文章に僕はとても共感する。


「学校と名の付くところで「先生」と呼ばれる職業の人は多かれ少なかれ体験されていることだと思いますが、大学の学生さんも、こちらの言っていることをあまり真面目に聴いてくれないけど、そのわりには「批判」だけは一人前にしますので、非常に疲れます。
 授業中に集中して話を聴いて、帰ってから予習・復習しなければ、「分かる」はずなど無いことくらい分かりそうなものですが、「僕たちが分からないのは、先生が分かるように教えてくれないからだ」、と一方的に言い張る子が多い。「君は、ちゃんとやるべきことをやっているのか」と聞き返しても、それに答えようとしないで、「だって、先生が勉強したいと思わせるような、真面目な教え方をしないから……」というような減らず口で返してきたりします。完全になめられている感じです。
 最近、名古屋大学の速水敏彦先生が『他人を見下す若者たち「自分以外はバカ」の時代!』(講談社現代新書、2006年)という面白い本を出されましたが、私も授業中に携帯をいじっていたり、お喋りしたりしている行儀の悪い学生さんに注意して、屁理屈を返されるたびに、「バカにされてるなあ」とつくづく感じます。若者にそういう反応をされると、「教える」という仕事がつくづく空しくなってしまいます。でも、見方を変えると、そういう学生さんは、とにかく何が何でも「反論」すると言うことだけは、どこかで学習しているのかも知れませんね。」


語り口は穏やかなのだが、ここに含まれている皮肉っぽさを理解すると、自分勝手な若者に対する痛烈な批判を読みとることが出来る。そしてそれが当たっていると感じるだけに、この皮肉っぽさにますます共感するという感じがしてくる。

ここでの論理展開は、「あまり真面目に聴いてくれない」という前提があって、「だから分かるようにならない」という結論が導かれている。これは正当な推論であり、正しい仮言命題ではないかと思う。

真面目に聞いていないと言う前提からは、どこか聞き漏らすという抜け落ちる部分が生じる。論理の展開において、論理の連鎖のどこかが抜けてしまえばそのつながりである「理論」を理解することは出来ない。だから、真面目に聴いていなければ、結論として「分からない」という結果が出るのは、事実と照らしても明らかだろう。

この論理展開からは、「分からない」責任は、真面目に聴いていない学生自身にあるということになるのだが、「先生が分かるように教えてくれないからだ」と「「批判」だけは一人前に」する。これは、「真面目に聴いていない」という前提がなければ、このような「批判」が成立する場合もあるからやっかいだ。

仮説実験授業研究会で分数の効果的な学習の授業を作った徳島県の新居信正先生は、自分自身が小学校の時に受けた「先生が分かるように教えてくれない」授業を反省して、本当に分かるようになる分数の授業を作った。新居先生が受けた教育は、分数が出来ない生徒を、放課後教室に正座させて反省させるというものだった。ここには

 「放課後の教室で正座させる」 → 「分数の計算が出来るようになる」

という仮言命題がある。これが正しくなければ、この教育の効果は証明できない。この仮言命題がバカげたものであることは共感してくれる人は多いのではないかと思う。これは、分数が分かるようになるには、「先生」が努力するのではなく、生徒自身が努力せよと言うメッセージを生徒に伝えているだけだ。おまえの努力によって出来るようにもなるし、出来ないままにもなる、というわけだ。

これは、一面の真理を語ってはいるものの、教師の責任を放棄しているものであり、このような教育に対しては「先生が分かるように教えてくれないからだ」という「批判」は正当なものだろうと思う。

「先生が分かるように教えてくれないからだ」という「批判」は正しい場合もあり、正しくない場合もある。それを、正しい場合があるということから、いつでも主張できるように錯覚していれば、正しくない場合に主張するような「屁理屈」を言うようになる。

このような現象を見ていると、最後に語る「でも、見方を変えると、そういう学生さんは、とにかく何が何でも「反論」すると言うことだけは、どこかで学習しているのかも知れませんね。」という言葉が皮肉っぽく響いてくる。この学習はどうしてこうも効果的に習得されているのだろうか、という皮肉な感想だ。正しいものの考え方は習得が難しく、自分のエゴを満足させるような屁理屈はたやすく習得されるという、まるで「悪貨は良貨を駆逐する」というような現象の方が現実には多いと言うことの皮肉さを感じる。

この話に僕が共感するのは、「学校と名の付くところで「先生」と呼ばれる職業」に僕がついているという理由もあるだろうと思う。実感としてよく分かると言うところがあるからだ。また、僕自身が生徒や学生であったときは、あまり先生の話をよく聞かない生徒だったから、聞かなければ分からないと言うことをごく当たり前のこととして受け止めていたので、分からないのは先生のせいだというようなことは思っていなかった。

僕は関心のないものは勉強する気がなかったので、関心のない教科は、分かるところまでは先生の話を聴くが、分からなくなったら、勝手に自分で他の勉強をしていた。人間というのは個性を持っているから、自分の感性にうまく合うものでなければ、そう簡単に理解できるものではない。かなり苦労して勉強しなければならないだろう。だが、それほどの苦労をするよりも、他に勉強したいことはたくさんあったので、僕は関心のないものは理解することをある意味ではあきらめた。

しかし、どこかでもう一度関心を持つことが出来るようになれば、その時に話を聴くようになれば分かるようになるだろうとも思っていた。「話を聴かなければ分からない」という命題は、「話を聴けば分かる」という命題と対になって正しいものだと思っていたのだ。そして、話を聞けるかどうかは自分の関心の高さにかかっている。だいたい大学生にもなって、自分の関心を自分自身で高めることをしないで、教師が教えてくれることによって得ようとすること自体があまりにも幼稚なのではないかと思う。仲正さんが空しくなるのが良く理解できる。

仲正さんの話を僕が好きなのは、ここからいろいろな展開が出来て、自分の関心に従って考えが広がっていくからだ。ここから先のことは仲正さんが書いていることではなく、僕がここから触発されて考えることなのだが、「先生の教え方が悪い」というのは一つの告発として考えることが出来る。告発とその受け止め方と言うことで僕の頭の中には次のような想像が浮かんできた。

アメリカは訴訟社会といわれているようだが、たぶん何かの告発をするときに、告発すること自体はたやすいのではないかと感じる。しかし、日本社会ではまだまだ何かを告発すると言うことは、社会の中で白い目で見られることが多いのではないかと思う。僕は、告発すること自体はたやすくできる社会がいいと思っている。自分が何か不当だと感じていることがあったら、そのような声がすぐにあげられる社会がいいと思う。我慢して和を保つという日本的な伝統はあまり好きではない。

しかし、告発されたことは厳格な証明の下に裁きがなされるような仕組みが欲しいと思う。「先生の教え方が悪い」という告発がされたとき、本当に教え方が悪いのか、努力もせずに自分の責任を先生に転嫁しているだけなのかを、厳格に調べて欲しいと思う。そして告発そのものの方が不当であれば、告発したものを裁いて欲しいと思う。告発はたやすくでき、それをしてもいいが、それには重みがあるという風にして欲しいと思う。

今はいじめ問題が関心を持たれていて、いじめに対しては厳罰化で対処するという方向が取られそうになっている。これはある意味では正しいと思う。いじめの告発はたやすくできた方がいい。いじめられている人間が、自分はいじめられているという告発がすぐに出来た方がいい。しかし、それが本当にいじめであるかどうかは厳格に証明するという仕組みも欲しい。

これはかなり難しいと思う。ある現象がいじめであるかどうかを客観的に証明する方法はないのではないかと思う。そうすると、いじめられたと感じた人間の感性の方に頼ることになりかねないのだが、そうすると、普通以上に敏感な人間がいた場合に、いじめの冤罪が起こる恐れがある。

実際には、いじめの告発が行われた場合、それがいじめであるかどうかはじっくりと時間をかけて判断すべきだろうと思う。そして、すぐに判断できる部分で裁きと厳罰化を考えるべきだろうと思う。すぐに判断できる部分というのは、暴力行為によってケガをしたとか、脅されて金を取られたなどということが証明できるときだ。これは、いじめかどうかが決定できなくても、「暴行罪」とか「恐喝罪」とか言う犯罪行為として裁くことが出来る。これに対しては警察権力を介入させて厳罰化せよと言うのが内藤さんや宮台氏の主張ではないかと思う。僕はそれに賛同する。

告発はたやすく、判断は厳格にというのは、セクハラやドメスティックバイオレンスなどでもそうすべきではないかと思う。今は、告発の方はかなりたやすくなってきているので、判断の厳格さを考えて欲しいと思う。セクハラやドメスティックバイオレンスそのものが成立しているかを判断するのは慎重に、しかし、明らかに「暴力」が行われていると判断できるものは厳罰化すべきだと思う。それを親しい間柄や家族内のもめ事だからということで見過ごしていると、学校におけるいじめ問題のように解決が難しいものになってしまうだろう。

仲正さんが語ることは、僕が考えていることと通じているので、それに共感し好きだと思う。
[PR]
by ksyuumei | 2006-12-13 09:46 | 読書


<< 「批判」の本当の意味 「バカ左翼」と「バカフェミニス... >>