「因果関係」は客観的属性ではなく主観的判断である

瀬戸智子さんの「仮言命題の限界」というエントリーに書かれている「因果関係」というのも気になるものの一つだ。瀬戸さんは因果関係については詳しく語ってはいないが、これは仮言命題と深く関わっていると僕は理解している。

あまりはっきりとは覚えていないのだが、ヒュームは因果関係の存在を否定したと記憶している。これは、それを実体として存在すると考えるのなら、否定されるべきだろうと僕も思う。つまり、因果関係というものを物質の属性として捉えようとすると、そんなものは存在しないと言わないわけにはいかないだろうと思う。関係というのは実体ではない。あくまでも人間の認識の中に存在する、もののとらえ方の方を指す。だから、それが物質の客観的なあり方だと思ったら間違えるだろうと思う。

その意味で瀬戸さんが語る「原因が必然的に結果を引き起こすという関係は存在しない」という言い方は正しい。しかし、ある現象に関して仮言命題が成立する、つまり

  A →(ならば) B

という命題が成立すると判断したら、このときは認識の中に「Aが成立したときは必ずBが起こる」という判断が存在する。この「必ず起こる」と言うことを「必然性」の定義とするなら、AとBの間には「必然性」が存在すると認識していることになる。そして、この「必然性」を、AとBとの「因果関係」だと定義すれば、この意味で「因果関係」の認識が存在すると言うことが出来る。



つまり、「因果関係」は物の属性として、人間の意思と独立に存在はしないが、物と物との存在の関係として意思の中に認識としては存在すると僕は考えている。その認識を支えるのは、仮言命題が成立するかどうかと言うことにかかっている。仮言命題が成立するときに、人間はその両者の間に「必然性」が存在し「因果関係」が存在すると認識するのだと思う。同じ現象を見ても、そこに仮言命題が成立するという視点を持っている人間は、そこから「因果関係」を読みとるが、それを成立しないと受け取る人間には「因果関係」はないと判断するだろう。

問題は仮言命題の証明の方だが、これは前件Aが成立するときに限って考察を進めていけばいい。なぜなら、前件Aが成立しないときは、自動的に仮言命題は真となるからである。前件Aが成立しないときは考察から省くことが出来る。

対象が有限個である場合は、帰納的な方法で一つ残らず確かめてみればいい。Aが成立する場合が有限の範囲に限られるなら、その時に必ずBが起こるかどうかを経験で確かめることによって仮言命題「A→B」が成立するかどうかを確かめることが出来る。

しかし、Aが成立する場合が無限の可能性を持っているときは帰納的な方法では成立を確かめることが出来ない。それではこの場合にはもはや仮言命題が成立しない、従って「必然性」や「因果関係」は存在しないと結論していいのだろうか。現実ベッタリの論理展開をしてしまえばそのように言うしかないだろう。現実を常に肯定する人間は、「必然性」や「因果関係」の認識は持てないといった方がいいかも知れない。「現実とはそういうものだ」と、現実をあるがままに受け入れる人間は、そこに法則性を認識することは出来ない。

無限の対象に対して仮言命題の成立を主張するには、そこに抽象の過程を経て、有限の場合を確かめたことが無限の場合を代表するような構造を持たせる必要がある。それが「仮説実験の論理」と呼ばれるもので、ある仮言命題を一つの仮説と考え、それを未知なる対象に対して成立するかどうかを問う実験を行う。この場合「未知なる対象」と言うところに「仮説実験の論理」の本質がある。

既知の対象であれば、実験の結果は実験の前に分かってしまう。しかし、未知の対象であれば、実験をしてみなければどういう結果が出るかが分からない。そして未知の対象というのは、特に選ばれた対象ではない。偶然それが未知であったと言うことから選ばれている。ここに「任意性」を代表していると見るのが「仮説実験の論理」である。

未知の対象によって「任意性」が確認された仮言命題は、よほどの特殊な対象が選ばれない限りは、一般的に成立することが主張出来る。その時「仮説」は「科学」になる。つまり、条件付き(真理の「領域」が限定されている)の真理となるのである。

エンゲルスは、どこかで太陽系の星の間に働く力学的な法則について、未知なる惑星の発見がその真理であることの証明をしたというようなことを記述していた。これなども、未知なる存在が「任意性」を代表するからこそ、それが「仮説」ではなく「真理」となったという判断になっているのだと思う。

因果関係で思い出されるのは、マル激で議論していた「狂牛病」についてのものだ。「狂牛病」は、異常プリオンが原因で起こると言われている。つまりここには、仮言命題として

  異常プリオンが発生する → 狂牛病を発症する

が成立していると考えられている。だが、マル激ではこれに疑問を投げかけていた。それは、この仮言命題を証明する方法がないからではないかと僕は感じる。狂牛病というのは、それが発症する前に発見されたことはないのではないか。それが発症して、牛の行動がおかしいと言うことが明らかになって初めて、その牛が狂牛病であると判断されるのではないだろうか。

上の仮言命題が証明されるには、狂牛病が発症する前に異常プリオンが発見される牛がなければならない。つまり、狂牛病にかかる前に牛の検査をしなければならないだろう。その中で、発症をしていないが異常プリオンが発見された牛に必ず狂牛病が現れるなら、この仮言命題の正しさが証明される。前件が成立するときに必ず後件が成立するならば、その仮言命題は正しいものとなるからだ。

これは現実には難しいと思われる。現実にはむしろ次のような仮言命題が確認されているのではないか。

  狂牛病が発症した → 異常プリオンが見つけられる

つまり、異常プリオンの原因として狂牛病の発症が確認出来るという因果関係は見られるということが言えるのではないかと思う。狂牛病発症の原因というような因果関係は求められていないのではないかと感じる。それでも実践的には何らかの対策をしなければならないので、

  異常プリオンが餌として与えられる → 食べた牛が狂牛病にかかる

という仮言命題が確認された後に、牛に牛を食べさせると言うことが禁止されたのだろうと思う。狂牛病の本当の因果関係は分からないが、感染の因果関係はつかめたので、それが広がらないような対策が出来たと言えるのではないかと思う。これは「因果関係」という認識がなければ出来ない対策ではないかと思う。だから、認識の中には確かに「因果関係」は存在するのだと思う。

この因果関係というのを仮言命題と結びつけて考えると、個別の事実に関しては因果関係の成立は言えないと言うことになる。仮言命題というのは、

  A → B

という形をしていて、Aが成立するときは必ず、Bの成立が言えるというものだ。これがただ一つの対象「領域」しか持っていなかったら、「必ず」と言うことの意味が分からなくなる。これが複数の対象を持っている「領域」なら、どの対象に関してもという「任意性」が「必ず」という言葉の意味になる。だが、対象がたった一つしかなければ、それがたまたま成立している偶然のことなのか、いつも成立する必然のことなのかの区別がつかない。

因果関係は、いつでも仮言命題と結びつけられているのではなく、場合によって感情的に納得するかということとも結びつけられているだろうが、個別の場合には、論理的には因果関係は主張出来ないと捉えると、世の中の見方が変わってくる。

例えば、いじめが原因で自殺が起きると言うことも、これは個別の場合には論理的には言えないことになる。むしろ、これは「ひどいいじめを受けた子どもたちは、自殺をしたくなるほど追いつめられる」と言うことが、一般的に仮言命題として主張出来るかどうかを考えることが正しい判断をもたらすのではないかと考えることが出来る。

もしこのことが一般的に確かめられたなら、この仮言命題が語る必然性において、「いじめが原因だ」という因果関係の判断が出来ると思う。つまり、ひどいいじめを受けていた子どもは、よほどの特殊な事情がない限り、自殺という事態に至ったのなら、それはいじめが原因なのだと言うことが原則的な了解になる。いじめが原因かどうかを証明するという発想ではなく、特殊な事情があればいじめが原因でないと言えるという発想になるわけだ。

因果関係を仮言命題と結びつけて認識するというのは、何が原則的な判断なのかと言うことをもたらすのではないだろうか。仮説実験授業の「ものとその重さ」の授業では、「ものには全て重さがある」と言うことを原則とする。すなわち

  物質として存在する → その存在には重さがある

という仮言命題が成立することを前提として、物質としての存在が確認出来るという原因が求められれば重さがあるという結果が導かれるという因果関係の認識が存在する。このような原則の下に思考すると、空気中を上昇していくようなヘリウムガスを入れた風船は、この原則を否定するのではなく、原則を守るためにそれは特殊な存在だと考えることになる。普通の物はみな空気より重いから「重さ」が見えるが、空気より軽い特殊な存在は「重さ」が見えなくなるだけだと考える。どのような仮言命題が成立するかを考えるのは、自分がどのような原則を持っているかを知ることになるだろう。

僕は、国家権力というのは民衆を弾圧する存在であるという仮言命題が正しいと考えている。自分が知っている国家という存在は、たいていが民衆を弾圧する姿を発見出来る。そうでない国家はよほど特殊な存在であるか、民衆を騙しているかどちらかだと考える。しかしそういう認識をしない人もいるだろう。

そういう人と僕との間にある違いは、原則的な認識としての仮言命題にあるのだろうと思う。そして、それが成立するかどうかの現実的な分かれ目は、そこで主張されている事柄がどのように抽象(=捨象)されているかということに関係している。国家という存在の抽象過程の違いによって、国家が常に民衆にとって危険な存在になるかどうかが決まる。抽象過程の違いによっては、国家は民衆にとって役立つ存在だと抽象出来ることもあるだろう。このときに、どちらが正しいかと言うことを論理的に決定することはおそらく出来ない。抽象の過程が正当なものであれば、それはどちらも正当性を主張出来るものになるだろう。因果関係というのも、抽象の過程に正当性があるなら、それは現実に正当性を主張しうる命題になるのではないかと思う。
[PR]
by ksyuumei | 2006-12-11 08:47 | 論理


<< 「仮言命題」には限界があるか? 方法論批判の危うさ >>