方法論批判の危うさ

『バックラッシュ』(双風舎)の中の斉藤環さんの「バックラッシュの精神分析」という言説における内田樹批判の部分には「方法論批判」というものが含まれている。この方法論批判というのはある種の使いやすさがあるが、方法論というのは全ての言説に適用出来るという面があるので、敵を切った刃が自らをも斬りつけるという危うさを持っている。

斉藤さんは、内田さんに対する批判の前に八木秀次批判も語っているが、これは八木秀次氏の言い方に対する「方法論批判」ではなく、語ったことという客観対象に対する批判になっている。その内容は次のように語られている。


「たとえば同書の共著者である八木秀次がひところ女帝容認論批判に当たって、男系でなければ神武天皇以来の「Y染色体」の系統が絶えてしまうと言う、ほとんど失笑ものの疑似科学的論法を展開した経緯を見れば十分だろう。」


ここで指摘しているのは「Y染色体」というものに関する知識に対してで、その間違いを批判している。内容を十分確かめることが出来ないが、この指摘はおそらく科学的な知識の間違いとして正しいのだろうと思う。調べればどちらが正しいかは決定出来るものだと思う。そして、「バックラッシュ」言説のほとんどは、このように間違いの指摘が比較的簡単に出来るものが多いのだろうと思う。



「方法論批判」ではなく、具体的な言説の内容に対する批判であれば、それを客観的に正しいかどうか判定することが出来る場合が多いだろうと思う。問題は、内容的な批判が難しいときだ。内容的になかなか間違いを指摘することが難しければ、その批判の仕方という「方法論」を批判したくなる誘惑が出てくるのではないかと思う。だが、これはかなり慎重にしなければ失敗する恐れがあるのではないかと思う。

斉藤さんは、内田さんの「私がフェミニズムを嫌いな訳」という文章を批判的に取り上げている。しかし、その内容そのものの批判は見あたらない。語っていることのここが間違っているという指摘による批判ではない。斉藤さんの批判は次のようなものだ。


・(内田さんは)「正義の人」を批判している。(内容的にはフェミニズム批判ではない)
・「そうであるなら何も「正義の人」の代表に、フェミニストやマルキストを持ち出す必然性はない。」
・「内田がほぼ田嶋陽子一人をフェミニスト代表であるかのごとく例示しつつ行」っている。(これは「為にする議論」である)


これは内容に対する批判ではなく、方法に対する批判となっている。そしてこの「方法論批判」は斉藤さんの言説にもそのまま適用出来てしまう。斉藤さんは「バックラッシュ」の批判をしている。「バックラッシュ」する人々=反フェミニストではない。そうであるなら、「バックラッシュ」の代表に内田さんを持ち出す必然性はない。内田さんの「正義の人」批判にフェミニストが登場することがおかしいのなら、同じような理由で「バックラッシュ」批判に内田さんが登場するのはおかしいように見える。

ここにも「必然性」というものは無い。ここには一般的(抽象的)な意味での必然性はないが、個人的な意味での必然性はあるだろうと僕は感じる。内田さんはフェミニストが嫌いなのであるから、そのような個人的な理由から「正義の人」批判にフェミニストが登場してくる個人的な必然性はあると思う。僕なら「差別糾弾主義者」を「正義の人」の代表にするだろう。内田さんの言説にフェミニストが登場するのは、一般的な意味では偶然だが、個人的な意味では必然性があるだろうと思う。

同じように斉藤さんの「バックラッシュ」批判に内田さんが登場するのは、一般的な意味での必然性はないが、個人的な意味での必然性は存在するだろうと思う。斉藤さんが内田さんを嫌いなのかどうかは聞いてみなければ分からないが、気にかかる人間だからこそ批判の対象として登場してくるのだろうと思う。

ここで内田さんの言説の内容に批判すべき内容が含まれているかどうかは、

・「正義の人」に批判されるべき点が存在するかどうか。
・「正義の人」と「フェミニスト」に共通点が存在するかどうか。
・「フェミニスト」の一人として取り上げられている田嶋陽子という人物は「フェミニスト」と呼べるかどうか。

ということが肯定的に言えるかどうかにかかっている。そして、この2番目の判断においては、内田さんが定義する「フェミニスト」という言葉に従ってこの言説を受け取らなければならないとしたら、これらは肯定的に判断せざるを得なくなる。

つまり、内田さんの言い方は、ここが内容的には完全に間違っているという指摘が難しい言説になっているように感じる。だから、その方法論を批判したくなるのだが、これは批判することそのものが、また同じような方法を使っての批判になるというジレンマのような問題を引き起こすのでやっかいだ。相手を切る刀で自分も切れてしまうという結果を招きやすい。

斉藤さんは、村上春樹の小説の中で戯画的に表現されたフェミニストに対しては、文学作品・それも小説の中での姿と言うことで一定の理解を示す。そしてそれとの比較で、思想家としての内田さんの表現は、戯画的に語っていたとしても小説家のそれとは違って批判されなければならないという指摘もしている。

これは、小説の中であれば、それが戯画的に描かれていることがそこまでのストーリーの展開という文脈で誤解無く伝わるからという理由で理解を示しているように感じる。そのような文脈なしで、戯画的な姿だけをさらすことに対しては、思想家の文章としては批判されるべきだという指摘だ。

しかしその指摘も、内田さんがあえてそのような戦略で、戯画的な表現を使っているとしたら、この批判も弱いのではないかと思わざるを得ない。内田さんは、「うほほいブックレビュー」の中で『フェミニズムの害毒』(林道義、草思社、1999)について書いた文章の中で次のように語っている。


「私は林とおおすじでは意見を同じくするが、戦略はだいぶ違う。

私はくやしい思いをするのがいやだし、感情的になるのもいやだし、自分が「よくない」と思う人の本を批判のためにがりがり読み込むというのも気が進まない。

私は論争しない。フェミニストが論争をしかけに寄って来たら裸足で逃げ出す。フェミニストに言い込められたらくやしいし、私がフェミニストを説得して彼女たちの理論的過ちをみとめさせる可能性はゼロだからだ。無駄なことはしない。」


つまり、内田さんは、「フェミニズム批判」というものを、実は「批判」という形の論理では書いていないのである。エッセイとして、いわば文学の範疇で感想を語るという形で皮肉っぽく書いているに過ぎない。内田さんの基本姿勢は、「私はフェミニズムが社会を活性化する対抗イデオロギーにとどまる限りその有用性を認め、それがある程度以上の社会的影響力を行使することに対しては反対する」というものだ。

斉藤さんが批判の対象としていた内田さんの文章にしても、そこでは「フェミニズムが嫌い」と言うことを書いているのであって、「フェミニズムが間違っている」という批判としては一言も書いていない。だから、この言説を批判の対象にするのは極めて難しいのだ。そこには批判すべき主張が語られているのではなく、「嫌い」という感情が語られているだけだからだ。

「嫌い」という感情が間違っていると指摘してもそれは仕方がない。何の意味もないものになってしまう。斉藤さんは、内田さんは「自分に対する批判には一切回答しないと公言している」つまり、批判を受け付けないものとして捉えている。これは、戦略的にも、批判が出来ないような言説を書いていると言うこともあるのではないかと思う。

このような戦略はやり方として卑怯だとか言う感想はあるかも知れないが、戦略としては存在は否定されないだろう。内田さんは、「私がフェミニストを説得して彼女たちの理論的過ちをみとめさせる可能性はゼロだ」と自覚している。だから、この戦略はこれからも変わらないだろう。内田さんは「フェミニスト」の間違いを指摘することはない。しかし、ここは嫌いだということはきっと言い続けるだろうと思う。

内田さんは、自分の感情を皮肉っぽくネタで語っているに過ぎない。それをベタに受け取って「フェミニズム批判」だといきり立って反論してしまえば、それは内田さんの戦略にはまってしまっているのではないだろうか。内田さんは、書評を書いた林さんに対しては、ベタに「フェミニズム」と対決している人と感じているようだ。「フェミニズム」とベタに対決してしまうと、林さんの方が戯画的にピエロのように見えてきてしまう。その姿を見ても、内田さんが、戦略的にベタに「フェミニズム」と対決することはないのではないかと思う。

内田さんのこのような姿は、「フェミニズム」に対する偏見を助長し、反動に利するものだという批判は成立するかも知れない。斉藤さんの主張にもそのようなものが見られる。だが、内田さんが戯画的な対象にしているものが、本物の「フェミニズム」でないのなら、むしろ困った「フェミニズム」の馬鹿さ加減を知らせて、それを駆逐しているとも受け取れるのではないだろうか。困った「フェミニズム」はむしろ駆逐された方が、「フェミニズム」の陣営にとってもいいのではないか。

内藤朝雄さんは、マル激の中でいじめを発生させる学校の持つ全体主義を批判していた。そしてそれを改善出来ない、学校における「バカ左翼」の存在を駆逐すべき存在として批判していた。このときに、ただでさえ右翼的な言説が強い現状にあって、左翼攻撃をするのは敵を利する行為だという批判が内藤さんには来るらしい。

だが、学校の全体主義の改革にとって邪魔なのは本質的には「バカ左翼」の存在だと主張する内藤さんにとっては、「バカ左翼」が駆逐されることは、「本物の左翼」にとってもいいことのはずだという確信があるようだ。「本物の左翼」というものを内藤さん自身は「リベラル」と呼んでいたが。「バカ左翼」の駆逐と、「バカフェミニスト」の駆逐は、「バックラッシュ」ではなく正しい一歩なのではないかと僕には感じられるのだが。そのあたりの認識の違いには大きいものがあるようだ。
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by ksyuumei | 2006-12-09 23:36 | 論理


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