「仮言命題の限界」というエントリーに関する雑感 1

瀬戸智子さんからライブドアのブログエントリーに「仮言命題の限界」というトラックバックをもらった。ここで論じられていることは多岐に渡り、その一つ一つに独立のエントリーが立てられるくらい論理的な問題が多く含まれている。それをすぐに論じるよりも、どこに問題があるかをまとめておいた方が自分でも理解しやすいと感じたので、「雑感」というような題で思いつくことを書き留めておきたいと思う。

まずは、僕が問題があると感じた部分は次のようなものだ。なお、これは瀬戸さんが主張していることが問題だと感じたのではなく、瀬戸さんの文章に触発されて生まれてきた僕の中の問題意識から考えた問題だと言うことを断っておこう。

1 演繹論理と帰納論理の違いとその本質は何か。
2 科学は帰納論理一般の中に含まれるものか。
  科学はあくまでも仮説にとどまるのか、普遍的真理としての資格を獲得するのか。
3 因果関係は仮言命題の中でどのように解釈されるか。
4 仮言命題の真理性
5 仮言命題(推論)に限界があるのか。
  限界があるのは真理を規定する「領域」の方ではないのか。




論理という言葉は、演繹のようにある命題から次の命題が引き出されていくものを論理と呼び、帰納のように多くの事実をまとめて結論を出すものを論理と呼ぶのをためらう人もいるだろう。だが論理というものを、現実が持っている法則性というものを抽象した結果として語られるものという認識を僕はしているので、帰納というのも法則性を語っているものと理解する限りで論理という言葉で呼ぼうと思う。

現実の持っている法則性で個別の対象を持っているものは個別科学として成立する。個別の対象を持たず、いわば認識の中にある、ものの考え方の法則として成立するものが論理というものだと僕は捉えている。これは、個別の対象の間に成立する法則を導く方法として、メタ的な法則と言えるだろう。さて、帰納によって得られる法則というのはどういうものだろう。

それは本質的には有限の対象に対して経験から得られる法則と言えるだろう。これは、数学でさえも有限の対象に対する法則を求めるなら、演繹は必要が無く、全ての有限の対象に対して実際に試してみるという経験で法則を求めることが出来る。つまり、帰納論理で真理が求められるのは、対象の「領域」が有限の場合に限ると言えるわけだ。

対象の「領域」が有限を越える、つまり無限の「領域」に踏み込むときは、その無限を捉えるために演繹論理が必要になる。帰納による法則が、対象「領域」として無限を含むと考えられる場合は、経験していない未知の事象によって帰納によって得られた法則が否定される場合が出てくるので、帰納論理によっては真理が確定しない。

帰納論理の場合、無限をうまく扱えないとそこには普遍的真理は見出せないことになる。ご都合主義的に真理の「領域」を狭めてしまえば、帰納論理はあまり信用出来ないものとなる。しかし現実を対象「領域」にした場合、そこでの法則性の認識は帰納論理にならざるを得ない。それでは、数学以外の自然科学は、帰納論理として不完全な真理を語っているのだろうか。

数学が演繹論理だけでやっていけるのは、その対象「領域」が、公理として設定した範囲以外は全て捨象してしまうからである。つまり、未知の事象が現れないと想定出来るので、それはある種の論理法則に従うと決めることが出来る。現実の事象では、都合の悪いものを全て排除することは出来ないので、そのままでは演繹論理が成り立たない。

だが、自然科学を始めとする「科学」と呼ばれる認識は、実は現実の対象をそのままで対象「領域」にしているのではない。そこには抽象(=捨象)という過程が間に挟まれている。科学の対象「領域」は、現実の中から、いわば都合の悪いものを排除したもので構成されている。都合が悪いものを排除しているのだから、法則を脅かす恐れがないものを対象としている。

だから、科学が現実に対して有効性を持ちうるとしたら、この抽象(=捨象)が、現実をよく反映するものとなっているときになる。仮説実験授業の「ものとその重さ」という授業では、「物質的存在は、それを構成する原子が増えたり減ったりしなければ重さは変わらない」という法則が正しいことを認識することを目的とする。これは、無限の対象に関して正しいことを言いたいので帰納論理で証明することは出来ない。

仮説実験授業では、この法則が正しいことを示す実験として、一見重さが変わりそうに思える様々な実験を行い、それでも重さが変わらないと言うことを確かめる過程で、この法則の普遍性を認識していく。このとき、この法則がいつでも成り立つのだという認識は、対象が抽象(=捨象)される過程とともに成立していく。

実験の一つに、体重計の上に立って、<両足で立ったとき><片足で立ったとき><力を込めて踏ん張ったとき>のいずれがもっとも重い目盛りを示すか、というものがある。これは、重さが分散したり集中したりすることが目盛りに影響を与えるかとか、人間が力を込めることが目盛りに影響を与えるかと言うことを問うものだ。そしていずれも目盛りには影響を与えないという結果が出る。つまり、原子として増えたり減ったりしなければ、他の要素はこの法則には関係ないのだという認識が作られていく。

もちろん、この実験だけではなく、他にも様々な実験をすることで、だんだんと原子の考え方というものが抽象(=捨象)されていくことによって、この科学法則が普遍的真理として認識されていくようになる。これが抽象(=捨象)の過程を経ていると言うことは、個別の実験がたまたまそのような結果を出したという受け取り方ではなく、その個別の実験が普遍を代表しているという受け取り方になる。

科学というのは、抽象(=捨象)という過程を経ることによって、帰納一般とは違う論理を持っている。つまり、有限の経験の範囲に対しては正しいことが分かるが、未知の対象に対しては何も言えないと言うような、あくまでも仮説にとどまるという帰納一般の特徴を超えるものを科学は持っている、と僕は思っている。科学は仮説に解消されるものではないという認識だ。

科学というものが抽象(=捨象)の過程を経ていると言うことは、その反例に対してもその過程を経たものとして考えなければならない。例えば、上の仮説実験授業の実験に対して、普通の体重計を使えば、どのような姿勢をとっても体重計は同じ目盛りを指す。しかし、これを0.1グラムまで計れるような精密な秤で計ってしまえば、正確に同じ目盛りを指すようにはならない。それではこれは法則の反例となるかといえば、そうはならないと考えるのが科学の抽象(=捨象)の考え方だ。

人間というのは、常に新陳代謝によって原子の出し入れが行われているという抽象(=捨象)の下に対象を捉えれば、その程度のものは「誤差」として処理される。むしろ「誤差」という認識をする方が正しいと言える。これを「誤差」ではなく、状況によって人間の体重は変わりうるのだという法則にしてしまえば、抽象(=捨象)を無視した、現実ベッタリの帰納的推論の誤りとなるだろう。科学を仮説に解消してしまう論理はたいていがそのような誤りを犯しているものと思われる。

三砂さんのおむつ研究に関してもそれが「母親にシグナルが読めればおむつは要らない。ということを科学的に論証しようとする研究だそうである」と言うことであれば、僕は科学として受け取って、そこにはもちろん抽象(=捨象)の過程が存在するのだと理解している。単なる評論や感想であれば、ある特殊な状況に対して感じたことを語っているだけだと受け止めるだろうが、科学として研究するのであれば、そのような前提があると受け止めるのが当然ではないかと思う。

だから、提出された反例に対しても、それが捨象されたものとして、ある意味での「誤差」になっているのではないかということが気になる。それが「誤差」であるかどうかは、三砂さんの研究を詳しく知らなければ判断は出来ないだろうが、「母親にシグナルが読めればおむつは要らない」という法則が、一つの反例によって簡単に反駁されるようであったら、そのような研究は、まともな研究者であればやらないと僕は思う。

僕は内田さんという人を高く評価しているので、その内田さんが評価する三砂さんがまともな研究者でないとは考えにくい。だから、そのような簡単に反駁されるような反例は、おそらく「誤差」として処理されるのだろうと判断しているのだ。実際にwitigさんが提出している反例として


「本当に内田樹がいうように「「ほい」と身体から離して、排便させちゃえばいい」のであろうか。自分のうちでそんなことした日には嫁になに言われるかわかったものではない。

街中や電車の中、店の中で「「ほい」と身体から離して、排便させ」ている親子がいたとして、「ああ、あの親は子供の細やかなコミュニケーションができていていい親子だな」と笑ってられるだろうか?」


の中で語られているのは、家の中で所かまわず排泄させたり、電車や店の中での状況を語っている。これらの場合は、「子どものシグナル」が読めてもおむつが必要な場合だという反例だ。しかしこれらは、子育ての日常の中で現れてくるありふれた状況だろうか。もし、おしめを早くとろうとして、排泄のシグナルを読もうという意志を持っていたら、家の中で所かまわず排泄させざるを得ないような状況の中でそれをするだろうか。また、子どもが排泄の意志を伝えることが難しい状況にあるような年の時に、頻繁に電車に乗せて店に連れて行くと言うことが日常的な状況として設定出来るだろうか。

これは特殊な状況ではないかと僕には感じられる。だから、おむつの必要性を科学的に研究する対象からは捨象されるのではないだろうか。研究の対象としてはあくまでも日常的な育児の場面が選ばれるのではないかと思う。しかも、子どものシグナルを読めるかどうかを研究するのであるから、読もうと意図する親を研究する必要があるだろう。読もうとしない親が読めなくても、これは科学以前の当然の認識になるのではないかと思う。読もうと意図しても読むのが難しいという結果が出れば、三砂さんの研究はその方向性を間違ったと言うことになるのだと思う。

最後に仮言命題に関する難しい点を一つだけ書き加えておこう。仮言命題

  A →(ならば) B

において、Aが成立しないとき、すなわちAが偽の時は、この仮言命題全体はBの真偽にかかわらず真になるというのが論理法則だ。これは直感的には非常に分かりにくいので、次のエントリーで詳しく考えてみたいと思う。
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by ksyuumei | 2006-12-05 10:30 | 論理


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