教育基本法改正のメンタリティ

教育基本法改正案が衆院本会議を通過した。衆議院は与党が圧倒的多数を占めているのだから、どのような法案であろうと、与党がそれを通したいと思えば通る状態にはなっている。だから、これはある意味では予想されたものなのであるが、各種新聞社説やインターネットの主張などを見ているとこれに反対する意見も多いように感じる。

一つは野党抜きの単独採決に対する批判だ。これはまだ議論が尽くされていないと言う、民主主義的な観点からの批判だ。これに対しては与党自民党などは、その時間をあげてすでに十分議論はなされたと解釈しているようだ。これは、何時間議論したからもういいという量的な問題で誰もが納得するような事柄ではないから、双方が違う見解を持っても仕方がないものになる。

もう一つの反対意見は、今改正することにそもそも意味があるのかという疑問から来るものだ。それをストレートに表現しているのは、「信濃毎日新聞 10月29日(日)社説=教育基本法 やはり改正すべきでない」という記事だ。ここでは冒頭で





「教育基本法の改正法案の国会審議が30日から本格化する。戦後教育の根幹をなす重要な法律である。なぜ今変えるのかという基本的な疑問に、いまだ納得できる説明はない。教育をめぐる問題は、基本法の改正で解決するものではない。改正は慎むべきだ。」


と語られている。この感覚は僕も共感するもので、今噴出している「いじめ」や「必修科目未履修」の問題などが、教育基本法の改正で解決すると言うことが論理的には理解出来ないので大いに疑問を感じるものだ。

基本法というのはある意味では理念を語るものだろうと思う。具体的な処方箋を語るものではない。その意味では現実と乖離した理想を語ることにもなるのではないかと思う。教育の理念が「人格の完成」を目指すと言いながら、これは実際には実現は難しい。だいたい人格が完成していないのは大人でも子どもでもあまり変わりがない。その人格が完成していないだろう大人の教師が、人格の完成を目指して実践すると言うことはかなりの無理がある。

現実的に考えれば、これはあまり実効性のない理想論だと言えるだろう。だが、基本法の基本たる所以は、たとえ実効性がなかろうとも理想を掲げることにあると考えるなら、それは意味のあることだと考えられる。ここには「基本」とは何かという解釈の問題があるだろう。

このほか信濃毎日の批判には共感するところが多く、僕自身の感覚ではやはり教育基本法の「改正」には疑問を感じる。これはよい方向への「改正」ではなく、将来的には害をもたらす「改悪」になるのではないかという思いを感じる。ただ、それは信濃毎日の社説にも見られるように、あちらこちらで論じられていることなので、それに付け加えるものはあまり見つからない。

むしろどうして「改正」に賛成する人々の方が、形式的には多数を占めるのだろうと言うことを理解することが大事なことではないかとも思う。論理的に考えれば、「改正」に反対する方に理があるように感じる。しかし現実的には、衆議院を「改正」案が通過したように、形式的には「改正」賛成が多数だ。議員の多数と世論の多数は違うのだという考えもあるかも知れないが、議員は形式的には世論の多数によって選ばれたのだから、圧倒的多数ではないにしても、かなりの多数派がやはり「改正」賛成に回っていると受け取った方がいいのではないだろうか。

「改正」賛成のメンタリティというのはどうやって理解したらいいだろうか。これに反対することが正しいと思っている心情ではこの理解は難しい。間違ったものをあえて選択すると言うことは気の迷いにしか見えないからだ。言葉のロジックとしての論理においては間違っていても、感情のロジックにおいては「改正」が正しいと思えるような可能性があるのではないだろうか。それを理解することは、「改正」に反対する人にとっても大事なことではないかと思う。

そのヒントになるようなものを今週のマル激の対論の中で見つけた。今週のマル激では内藤朝雄さんを招いて「いじめ問題」を論じていた。その中で、学校というものが、制度としていじめの温床になっているという指摘があった。

内藤さんによれば、「いじめ問題」の解決が難しいのは、その行為の結果が明らかに犯罪的(実際の暴力や、心理的な暴力など)なものであっても、教育の現場である学校に法制度が持ち込めずに、犯罪抑止が出来なくなっているところにあるという指摘があった。「いじめ」が教育の問題になってしまうと、その犯罪性をさばくことが出来なくなる。

この指摘は妥当だと僕は思った。明らかな犯罪性を持ったものは法によって裁かれるべきであるという市民性を学校も持たなければならないという指摘は正当だと思う。それは具体的には、犯罪の現場には警察権力を介入させるべきだと言うことになり、学校に警察を入れろという提言になる。

学校に警察を介入させることには躊躇する教育関係者は多いだろう。しかし、教師には生徒を裁く権利はない。教師が出来ることは、教育行為としての指導だけだ。警察を介入させない限り、犯罪的な行為があったとしてもそれを裁くと言うことは、学校にとって原理的に出来ないのではないかと思う。

学校に警察権力を導入することに躊躇するのは、学校が聖域となっているからであるという指摘もあった。聖域となっているところでは、市民社会では常識になっていることが常識として通用しなくなる。内藤さんはアイルランドの例を語っていた。そこではキリスト教の「マザー」と呼ばれる人々が聖なる存在となっていて、現実にその「マザー」が孤児を虐待していても、「マザー」という聖なる存在がそのようなことをするはずがないと言うことで現実が否定される。犯罪的な行為も裁かれることがない。

学校という聖域でも、そこでは犯罪は起こってはならないという観念があるように感じる。だから、実際に起こった犯罪的な事実も、それは教育として処理され、単なる心の迷い・あるいはちょっと行きすぎただけと考えられることが多いのではないかと思う。教師の体罰の問題なども、それが暴力的で犯罪的なものであれば、その暴力に対して警察権力を介入させれば一掃出来ると言うことを宮台氏が語っていた。これは多分その通りになるだろうと僕も思う。

とにかく学校の聖域性を破壊することが「いじめ問題」の解決にとって重要だという主張はとても納得の行くものだった。学校が子どもの教育のほぼ全域を背負う時代は終わったという認識が必要だろう。聖域性を破壊すれば、共同体としての圧力が下がり、そのことによって「いじめ」は劇的に減るはずだという内藤さんの主張は納得のいくものだった。

さて、この話と教育基本法「改正」のメンタリティとの関係だが、内藤さんの指摘によれば、学校の聖域化に大きな貢献をしたのが、「左翼」と呼ばれる勢力だったという。この「左翼」は主に教職員組合(日教組)を指すのだろうと思う。それは、マルクス主義イデオロギーの下に行動していた組織的なものではないかと思う。

「左翼」的な教育論は、戦前・戦中の軍国主義的な教育を否定するには大きな貢献をしたと思う。だが、学校の聖域化を止めることは出来ず、逆の方向での聖域化を進めてしまったと僕も感じる。これが、現在の様々の学校の弊害につながっていることは客観的にも見て取れるのではないだろうか。

「新しい歴史教科書をつくる会」などから「自虐史観」と言われたような歴史教育なども、ごく一部の右翼的な傾向を持った人々から批判されているだけでなく、ごく普通の市民として育った人からでさえも、日本がいかに悪い国であるかを言われているようで暗い気持ちになったという感想を聞いたことがある。

「左翼」的な人々の善意は疑いえないと思うが、その善意が学校の聖域化と、イデオロギーの押しつけというような共同体的な圧力を強めたと言うことは、単にそう感じる方が悪いとばかりは言えないのではないかと感じる。戦後教育をおかしくしたのは、学校における「左翼」(=日教組)だという言い方は、感情的な反発だけですますことの出来ない事実性があるのではないかと思う。

その「左翼」イデオロギーを支えるものの一つが教育基本法だったという解釈をすれば、間違った教育の元凶である教育基本法を変えるべきだという考えが生まれてくるのは、ある意味では必然的なもののようにも感じる。僕は、教育基本法が全ての元凶で、これを変えなければならないと言う結論には疑問を感じるが、この結論だけを取り上げて批判しても、「改正」賛成の人々にはあまり説得力を持たないのではないかと感じる。

それは、その人々が前提として考えている、戦後教育をゆがめたのは、学校における「左翼」であるという判断に一面の正しさがあるからではないかと思うからだ。この正しさを認め、これを本当の意味で論理的に批判して、教育基本法の「改正」ではこのゆがみが矯正出来ないという論理の展開をしなければならないのではないかと思う。

戦後「左翼」が持っていた功罪というものを正しく評価することが必要なのではないかと思う。功罪の罪の方を大きく感じる人々が教育基本法の「改正」という方向に感情のロジックを働かせるのではないだろうか。内藤朝雄さんは、「左翼」でもない「右翼」でもないリベラル勢力を確立する必要性を主張していた。おそらく、そのようなリベラルでなければ、戦後「左翼」を正しく評価することは出来ないのだろう。

自民党の河野太郎衆議院議員は、自身のブログの「本会議」というエントリーの中で、「オレは教育基本法の改正には賛成だ」と語っている。

僕は、河野さんは優秀な政治家だと思っている。その河野さんが「改正」に賛成しているというのは、賛成の考え方にも正当な論理的根拠があるのだということを考えさせてくれるものになる。「改正」に疑問を持ち、それに反対する人々も、一度は「改正」の正当性を考えて、その上で反対の論理を構築することが必要なのではないだろうか。「改正」賛成派が多数を占める状況の中で、そのことが大事なのではないかと僕は感じている。
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by ksyuumei | 2006-11-17 09:37 | 教育


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