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内田さんのフェミニズム批判の意味を考える 4

瀬戸さんの「母親と保育所とおむつ」というエントリーの中の、内田さんの文章に関する部分の記述の理解を図ろうと思う。前回と同様に、まずはその判断の部分を拾い出し、次にその判断の根拠になった事実の方を探そうと思う。まずは判断として見つけられるのが次の部分だ。


「シグナル発見を、いざ社会科学の分野にまで広げていこうと言うことは拙速・勇み足ではと考えます。」


この判断は、「拙速・勇み足」というものにポイントがあるので、シグナル発見の正しさについてのものではない。その点では、その根拠に同意するのがなかなか難しい判断と言えるだろう。「拙速・勇み足」というのは、今の時点では弊害の方が大きく、それから得られるプラス面との相殺で考えればマイナスの結果をもたらすという判断になる。これは未来に対する判断なので、ある意味ではやってみなければ分からないと言う面を持っている。それをやりたいという動機が強いかどうかで判断が違ってくるだろう。



さて瀬戸さんが弊害として危惧するものには次のものが語られている。


・「母親は子どものシグナルを発見、認識するためにピリピリになることはないのだろうか?」
・「度重なるシグナル発見失敗は母親に自己撞着と自信喪失、やがては子育て放棄へと拡大することはないのだろうか???」
・「いつも子どもの顔、つまり排便シグナルを見逃さないでおこうと躍起になっている母親に育てられた子が、どれほどの「余裕」と、「お気楽さ」と、「笑顔」と、「好奇心」をもたらされるのだろう???」
・「おむつシグナルを関知できないだけで「母親失格」は辛い。
確かに大らかな母親や優秀な母親は、この関門をラクラクに乗り越えることができるだろうが、
そうでない母親たちは今後の子育てをどの様に対応すればいいのか?」
・「仮にシグナル発見が可能となれば、その間母親は子どもに拘束されると言うことになるのではないだろうか?昼となく夜となくである。
たとえ専業主婦であったとしても、子どもに並々ならぬ愛情を持っている母親であっても子どもに掛かりきりと言うことは、実際問題として困難ではないだろうか?」


これらの危惧をここで一つずつ考察することは控えるが、この危惧に共感する人は、瀬戸さんの「拙速・勇み足」ではないかという主張に共感するのではないかと思う。僕自身は、この危惧は克服出来るだろうと思っている。そして、このような危惧があってもなお建設的な意味のプラス面が大きいだろうと言うことを感じているので、内田さんの言説の方に共感するという気持ちの方が生まれてくる。

それはすでに書いたことであるが、おむつの問題を技術の問題として捉えればいいと思っているからだ。これは仮説実験授業という教育技術の問題を僕が知っているのでそのこととの類比でそう思うのだ。

教育という営みはとても難しいもので、特に学校と言うところは社会のゆがみが子どもを通じて現れるという複雑な面を持っている。現在問題になっている「いじめ」の問題なども、日本社会が持っているゆがみ(マル激のゲストの内藤さんによれば「中間集団全体主義」というゆがみ)が、ある意味での治外法権的な学校という閉鎖的な環境の中でシャープに出ているとも言えるだろう。

このような難しさを持っている教育において、一定の成果をもたらそうとする場合、今までの教育論では、教師に過大な要求を置いて、修行僧的な精進を経たスーパーマン的な教師、あるいは天才的な才能を持った教師が、優れた実践をすることで解決をするというものがほとんどだった。僕も若い頃に感動した林竹二さんや齋藤喜博さんの教育論は、そのように教師に深い研鑽を要求するものだった。

このような教育論は、瀬戸さんがおむつの問題で母親にかかる圧力を危惧したのと同じようなプレッシャーを教員に与える。深い修行に没頭出来ない教師、素質と才能に恵まれていない教師は、林さんや齋藤さんが要求する水準に達することが出来ない。教師は絶望の中で自信を失っていく。真面目で誠実な教師であればあるほどそのようになる。この教育論は、むしろ弊害の方が多かったのではないかと思う。そのような同じものを内田さんの言説に感じたとしたら、その受け取り方は理解出来る。

しかし仮説実験授業というものを知ったときに、ここには違う教育論があるというのを感じた。仮説実験授業では、教師の発問や授業の構成というものが、子どもたちにどのような影響を与えるかを一般論で考察することを可能にした。つまり、授業という対象を科学的に扱えるように設定することに成功したのだ。

これは科学であるから、対象をある程度抽象(=捨象)して捉えることになる。様々な個別的な要素は例外的なものとして排除して、一般的な条件の下に生徒を捉えて、その生徒に対する法則として現実的にも90%以上の確率で法則性が成り立つと言うことを証明しながら研究を進めてきた。

一番の目的はその授業を生徒が「楽しい」と感じられるかどうかと言うことだが、これは一定の手順を踏んで進めていけば、日本全国どのクラスでも、一般的だと思えるようなクラスでは90%以上の成功を収めてきた。科学として確立されたと僕は思っている。仮説実験授業が科学として確立されたと言うことは、これは技術として、一定レベルの水準にある教師なら誰でも身につけられるものになったということを意味する。

林さんや齋藤さん的な職人芸的な高い能力を持った教師でなくとも、仮説実験授業のメカニズムを理解した教師なら誰でも仮説実験授業を行うことが出来るのだ。これが技術というものだと僕は思っている。そして、この技術というものは、科学として確立されたところにしか見出せないのではないかとも思っている。

科学として確立していない、技術として見出されていない分野では、その分野で優れた能力を発揮するのは大きな努力と深い修行を必要とする。その分野が、そのような優れた人間だけが集まる人気のあるものであればあまり問題はないかも知れない。しかし、社会的な職業として設定されたものなどは、優れた人間だけが生き残れるとしたのでは、社会的に成立しなくなってしまうだろう。普通のレベルというのを設定して、それをクリアしていれば勤まると言うことが必要だ。

教員の資質の向上などが叫ばれているが、それがあまりにも過大な要求であった場合は、教員という職業は社会的に成立しなくなるだろう。むしろ教育技術を確立して一定の水準を、普通のレベルの教員が身につけられるようにすべきだし、過大な要求をしなくてもすむように学校制度の方を変えていく方が実践的には効果があるだろう。宮台氏が指摘しているように、新しい都立高校の単位制制度というのは、今までの学校制度の弊害を、教員の資質向上に頼ることなく解決した、優れた制度変革の例だと思う。

そこで母親の問題に帰るのだが、母親というのも、子育てに優れた能力を発揮出来るものでなければ母親になれないとしたら、母親になりたいと思う人が減ってきても仕方がないのではないだろうか。母親という役割においても、その技術が自然に身に付くような社会環境がなければ、過大な要求に押しつぶされる人が出てくる可能性がある。今の教師の状況にように。

おむつの問題を科学として確立すると言うことは、子どもとのつきあいの技術を確立すると言うことで僕は積極的な意味を感じている。そんなものは愛情で行うべきだという人がいるかもしれない。しかし、愛情だけでうまくいかなくなっているのが現在の日本の状況ではないだろうか。愛情を持って接すれば子どもは判ってくれるというのは、抽象的には言えるのかも知れない。しかし、どのような愛情を持って、どのように接すればいいのかが分からない人にとっては、それは永久に解決出来ない謎になってしまう。

音楽の教師が、歌を歌うときに「声をおなかから出す」とか「頭から出す」とか言う説明をすることがあるが、あれは素人には何を言っているか分からない説明だ。声は実際には声帯を使って出すものであり、口を通じて音が聞こえてくるものだ。腹や頭がスピーカーになっているのではない。これを技術として伝えるのだったら、その感覚が全くつかめない人間にも理解出来るように理論を構成し直さなければならない。そうでなければ、そんなことは最初から出来る人間にしかできない、素質と才能の問題になってしまい、教育の問題にはならない。

かつて数学教育協議会の遠山啓先生は、誰にでも計算が出来るような教育をしたいと思って「水道方式」という教育方法を編み出した。これは、計算というものを単なる機械的な記憶にするのではなく、手順を踏んで訓練すれば誰でも一定の水準に達する技術として確立したものだった。遠山先生が、計算というものを科学の対象として初めて確立したとも言えるのではないかと思う。

瀬戸さんの抱いている危惧は、僕にはむしろ、科学として確立していない子育てというものが、かつては自然に誰でも出来た部分が今ではそう簡単にいかなくなってしまったのでそう言うことが起きているように見える。だから、その解決にはむしろ科学として解決することが有効なのではないかとも思えるのだ。そのような観点で僕は見るので、瀬戸さんが抱いている危惧を補って、三砂さんのおむつ研究はプラス面があるのではないかと思える。だから内田さんの言い方に共感出来ると言うことがあるのだろう。おむつ研究は、瀬戸さんの抱いている危惧を増すものではなく、むしろ軽減していくものだというふうに僕は受け取っている。

瀬戸さんの文章の最後に書かれている「内田さんの現実とは乖離した理想論」「その非を唱える者を「フェミニストたち」と十把一からげに論じていくのは、果たして学者として正しい論理の構築なのか」「内田さんは結局「母親よ家に帰れ」と言う結論に行き着くのだろうかと思えば」という3点については、簡単に触れられているだけだが、問題としては重要だと思う。この3点については、僕はまったく違う受け取り方をしているだけに、その違いを考察してみたいと思う。ただ、瀬戸さんは、この3点については詳しくは触れていないので、瀬戸さんがどのように考えているかは僕の想像で探っていくことになる。「現実と乖離した理想論」という面が、内田さんの言説のどの部分に見られるのか、それを僕の解釈で追うことになる。もしそれが見当違いのものであれば、指摘してもらえるとありがたいと思う。次回はそれを考察してみたい。
by ksyuumei | 2006-11-15 10:12 | 内田樹


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