内田さんのフェミニズム批判の意味を考える 1

「仮言命題そのものの真理性とその前件と後件の真理性」という古いエントリーに、瀬戸智子さんから「母親と保育所とおむつ」というトラックバックをもらった。

僕はおおむね内田さんの主張を肯定的に受け取っており、瀬戸さんは否定的に受け取っているように見える。その違いがどこにあるかを考えるのも興味深いことだ。瀬戸さんの言説には僕は信頼を置いているので、僕と全く正反対の主張であっても、その根拠を理解することは論理的に興味深いものだと思う。論理的な根拠なしに瀬戸さんがこのような主張をするとは思えないからだ。

ただ、この問題を論理として客観的に設定するには整理しなければならないことも多いように感じる。内田さんが主張している対象がどこにあるのか、その本質がどこにあるのか。そして僕がそれをどう受け取っているのか。また瀬戸さんが、僕の言説と内田さんの言説の意味をどこに本質があると見ているのか。瀬戸さんが主張していることが、僕や内田さんが語ることとどのように接点を持つのか。このような前提の問題を良く吟味しないと、この主張の違いは、単なる「見解の相違」ということになってしまうだろう。



そこで、この問題を考えるときの、長い前置きをまずは書いておきたいと思う。まだ本題には入らないが、長い前置きを考えることによって、主張の違いが鮮明になるように努力したいと思う。そして、その主張が、論理的な矛盾を引き起こすものであるのか(つまり両立し得ない、どちらかが否定されるものなのか)、論理的な矛盾ではなく対立を引き起こすだけ(視点の違いによって両立しうる主張)のものなのかを考えてみたいと思う。

僕のエントリーは、内田樹さんの「2006年07月23日 Take good care of my baby」というエントリーに対する感想のようなものとして書いたものだった。内田さんは、このエントリーで三砂ちづるさんの「おむつ研究」について書いていた。その研究の内容は、「日本ではいま「二歳までおむつをとる必要はありません」ということが育児書でいわれているそうだが、三砂先生によると、これはぜんぜん育児の方向として間違っている」ということを証明しようとするものだと書いていた。

この研究のポイントは、子どもが発するシグナル(排泄の前兆)を読みとることにある。おむつをしていれば、子どもが排泄をしても服が汚れることが防げるので、その点で便利になる。おむつをとると言うことは、シグナルを読めなければ服が汚れることになるから、シグナルを読むことを前提とすると言うことにもなる。

もし、「シグナル読解ができれば、子どもがまだことばができなくても、「おしっこするよ」「うんちするよ」というサインが母親には伝わる」ことになる。その時には「母親にシグナルが読めればおむつは要らない」ということが科学的に証明出来るだろうというものだ。

この研究自体については僕は問題は感じない。それは、ある仮説を設定して、その仮説が正しいかどうかを、科学的な手法を使って研究するものだろうと思う。だから、最初から結論が正しいことを無理やりに証明しようとするものではなく、研究の結果によっては仮説が否定されることもあり得るという前提で行うものだろうと思うので、そのような方向の研究であれば全く問題はないと思う。

この研究に対して、研究の内容そのものに関わってではなく、研究すること自体に反対するという立場が二つあることを内田さんは指摘していた。一つはおむつメーカーによる反対だが、これは資本主義的な経済利益の問題からいえば、理屈として理解出来る合理的な反対だ。反対そのものは理屈が通らないだろうが、反対する動機については合理的に理解出来る。この研究によって、「おむつが要らない」という仮説が証明されてしまったら、おむつメーカーとしては売り上げが落ちるだろうからだ。

おむつメーカーの反対の内容が正当かどうかは疑問だが、反対する動機が生まれてくるのはある意味では当然だと理解出来る。利益追求をする資本主義社会では、利益追求という前提があれば、この反対は論理的な帰結だとも言えるだろう。

もう一つの反対はフェミニズムの陣営から出されていると内田さんは語っている。それはこのような理由だ。


「「おむつはつけたままでいい」という主張がフェミニスト的にPC(Politically correct)とされるのは、「母親は子どもに縛りつけられるべきではない」からである。
「母親と子どもとのあいだには身体的でこまやかなコミュニケーションが必要だ」というのは、そのようにして女性から社会進出機会を奪い、すべての社会的リソースを男性が占有するための父権制のイデオロギーなのである(とほ)。」


これも、以前のエントリーで考察したように、「母親は子どもに縛りつけられるべきではない」ということを正しい前提として立てるなら、論理的には整合性を持った主張として立てることが出来る。

おむつメーカーの主張も、フェミニズムの陣営の主張も、ともに論理的な整合性はある。しかし、僕はどちらにも共感しない。そして、フェミニズム的な反対の方により大きな危険性を感じる。それはどうしてだろうか。

おむつメーカーの主張は、私企業の利益という、あくまでも私的な問題として設定されている。だから、それを主張することも自由だが、それの拘束力もそれほど大きなものではない。私企業が、いくらそのような研究が困るといっても、研究したいという人間にそれが圧力になることは少ないし、たとえ圧力がかかったとしても、それが不当であることは誰の目にも明らかだ。

しかし、フェミニズム的な反対の方向は、論理的な整合性があるだけに、私企業の主張とは違う、公的な圧力がかかる恐れがある。研究の自由を侵す恐れがある。研究内容そのものに関する批判なら問題はないと思う。それは、研究の内容が間違っているという主張になるので、より精密な研究を行うことで、研究の正しさを求めていけばいいことになるからだ。

「母親は子どものシグナルを読めない」とか、「子どものシグナルは一定の法則性がなく、実践的にはとても十分だと言えるほどの正確さを持って読むことが出来ない」とか、その研究の内容に関する批判であれば全く問題はないと思う。

だが、「母親と子どもとのあいだには身体的でこまやかなコミュニケーションが必要だ」という主張に対する批判は、研究そのものが駄目だといっているような印象を受ける。細やかなコミュニケーションの一つとして「おむつ」を研究しようとしているのが三砂さんだと思う。しかし、このようなコミュニケーションの必要性を説く言説は、「女性から社会進出機会を奪い、すべての社会的リソースを男性が占有するための父権制のイデオロギーなのである」と言ってしまうと、どのような結論が出ようとも、その研究の出発点がそもそもダメなのだと言っているのではないだろうか。

僕は、この批判はおかしいと思った。だからこそそれに反批判する内田さんに共感したのだった。そして、このような発想は、「イズム」という「主義」に共通する欠陥なのではないかと感じている。「フェミニズム」という言葉に「イズム」がついていることが、このような発想を生み出す元凶なのではないかと感じている。

次のエントリーでは、イズムの代表である「マルクシズム」と「フェミニズム」の似ているところを考えてみたいと思っているのだが、両者とも論理的には整合性を持ち、完結しているところに特徴があると思っている。上の反対理由についても、僕がおかしいと感じるのは「母親は子どもに縛りつけられるべきではない」という前提だ。この前提について、これを全称命題ではなく、特称命題として捉えれば問題はないと思うのだが、無条件にこのような主張をすると、これを全称命題として捉える間違いが生ずるように感じる。

この「母親」は、ある状況の下に置かれた母親であるべきで、「全て」の母親に関して言っているのではないと僕は思う。ある条件の下では、母親は「子どもに縛り付けられるべき」時もあるのではないだろうか。もちろん、母親ばかりでなく、父親だって「子どもに縛り付けられるのが正しい」時があるだろう。それは、時・所・条件によるのだと考えなければならないのではないか。

ある場合には「母親は子どもに縛りつけられるべきではない」だろう。そのことを内田さんは少しも否定していないと思う。だが、縛り付けられることが正しいときもあるという主張はしていると思う。これは、「全て」の母親が、子どもの成長期においては「縛り付けられるべきだ」という主張ではないと思う。

全てという全称命題に反対するときに、その反動として自分も全てを主張してしまうと、それは裏返しの間違いになってしまうだろう。「全て」というものの否定は、「そうでないものが存在する」というド・モルガンの法則が成立する。

  「<「全て」の母親>は子どもに縛りつけられるべきではない」
       否定↓
  「「子どもに縛り付けられない」と言うことのない<母親が存在する>」
       二重否定の除去↓
  「「子どもに縛り付けられている」という<母親が存在する>」

僕は内田さんの論理展開をこのように受け取った。つまり、おむつの研究をするということは、子どもとの深いコミュニケーションを望む母親にとって意義のあるものになるのではないかという受け取り方だ。そういう母親が存在すると言うことを前提とした研究として意義があるだろうというものだ。

全ての母親が、そのように深いコミュニケーションを望まなければいけないなどと言う道徳的な主張だとは僕は受け取らなかった。望んでも、様々な条件によってそれが出来ない母親もいるだろう。そのような母親にとっては、この研究は圧力になるだけで全く役に立たないものになるだろうか。

それは研究の受け取り方の問題になると思う。研究が、誰にでも読みとれるシグナルというものを「技術」として確定してくれれば、ちょっと訓練しただけで、今までよりも成果の上がる技術を身につけることが出来るだろう。技術というものは、心がけで身に付くものではなく、合理的な訓練によって身に付くものだ。科学的な研究は技術向上の方向へ進むのだと僕は思っている。素質や才能に頼るのではなく、技術を確立することが、忙しい母親にとっても役に立つものになると僕は思うのだが、それは、研究成果の受け取り方の違いではないかと思う。この問題に関しては、まだまだ考察するところがたくさんあると思うので、今後もいくつかのエントリーを続けたいと思う。
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by ksyuumei | 2006-11-12 08:46 | 内田樹


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