ナショナリズムはなぜポピュラーになるか

マル激を聞いていると、宮台氏がナショナリズムについて発言することが多いのだが、現代社会においてポピュリズムを獲得するにはナショナリストでなければならないという発言をよく聞く。この意味が僕にはあまりよく分からない。

確かに現象としてみれば、小林よしのり氏の一連の著作がベストセラーになるのを見ると、ナショナリストが人気を博するというのが事実としてあるのかも知れないとは思える。だが小林氏の著作を読んでいるのは圧倒的に若者が多く、それを社会全体の現象として受け止めるには躊躇を感じる。

教育基本法に「愛国心」の記述を入れることに反対する人の数もかなり多いように見える。だから、ナショナリズムが必ずしも圧倒的多数派をなしているようには見えない。だが、結果として安倍内閣が高い支持率を持ち、高い人気を持っているということは、ナショナリズムの人気のあらわれのようにも感じる。

ナショナリズムに関しては、それに深く共感する人と、それを敬遠する人が存在し、僕がどちらかというと敬遠したい側の人間に属しているので、その人気性というものを理解出来ないのではないかと思う。ナショナリズムが人を惹きつけるという魅力の部分が僕には良く理解出来ないので、人々がそれに共感するという気持ちを実感として受け止められない。



ナショナリズムの魅力というのは、論理的に理解出来るものだろうか。僕が魅力を感じられないナショナリズムというのは、元々があまり程度の高いものではないのかも知れない。そういう低レベルのものしかナショナリズムに見つけられないとしたら、なかなかナショナリズムに魅力を感じることは出来ないだろう。

例えば「日の丸」「君が代」をリスペクトする気持ちをナショナリズムと呼ぶとしたら、僕にはそれを論理的に理解出来なくなる。「日の丸」「君が代」は象徴には違いないが、それは結局は単なる「物」ではないのか。「物」をリスペクトするというのは、僕には宗教的な偶像崇拝のようなものに見える。これは擬似的な嘘のリスペクトのように感じてしまうので、あまり魅力を感じなくなる。

本当の意味での愛国心につながるナショナリズムというのはどういうものになるだろうか。宮台氏が語るパトリオティズム(愛郷心)というものに関しては、論理的に理解出来る。自分が過ごした町という実感を伴った存在は、愛情を持って思い出す対象になることは実感として分かる。

その町で過ごした子ども時代が幸せなものだったら、町に対する愛着も深くなり、幸せを感じさせてくれる町のイメージを守りたいという気持ちも強くなっていくだろう。それはパトリオティズムと呼ぶのがふさわしく、この気持ちなら自然に生まれてくる感情として論理的に理解出来る。

だが国家に対する愛情とでも呼ぶべき「愛国心」は、自然な感情として生まれるというのは感じない。国家は具体的な、何かを感じられる対象ではないからだ。その国家に対する思いを抱くナショナリズムは、論理的にはかなり不自然なものに感じるのだが、現代社会ではなぜそれがポピュラーなものになるのだろうか。

宮台氏は、パトリオティズムとナショナリズムの両立しがたさというものも語っていた。かつての日本では、それぞれの藩が郷土であり、愛藩精神というものはあった(パトリオティズムとして)が、日本という国家のために尽くす気持ちを持った人間はいなかったという。それは、藩というものが身近な存在であり、実感として愛情を感じる対象として存在していたからだ。

藩に愛情を感じていれば、実感のない国家に愛情を抱くことは難しくなる。これは論理的にそう考えることが出来るだろう。日本という国家のために尽くすという気持ちは、それが公の精神で、藩を愛するという私の精神よりも尊いものだという観念が人々に必要になるのではないかと感じる。

宮台氏がアリストテレスについて語ったときに、フィリア(友愛)とエロス(利己的な愛)の違いを語ったことがあったが、この考えは面白いと思った。エロスに従えば、死の危険があるときに恋人と手を取り合って逃げるのが自然だという。それに対して、恋人を守るために死地に赴くというのは、利己的な考えを越える、自分が所属する共同体を大事に思うという公共心から来るフィリアに従うことによってそのような行為が出来るという。

国家に対する愛情というのは、結果的には「公」というものをどう捉えるかということから生まれてくるもののようにも感じる。小林氏の著作が売れるというのは、「公」というものを捉えたい人間が多いということを意味するものなのかも知れない。

パトリオティズムにおいては、「公」というものが郷土であるということはほとんど自明の前提として人々の間にあるのではないだろうか。それは自分の幸せを保障してくれるものであり、それなしには自分にとっての生き甲斐もなくなってしまうので、その存続を願う気持ちが生まれるのは自然だ。そして、存続のためには、意識的に努力をしなくても、郷土に尽くす気持ちが自然に生まれてくるのではないかと思う。

この郷土愛というものが、もし失われてしまったとしたらどうなるだろうか。人々にとって幸せの基盤というものが見えなくなったら、人々はどのように感じ、どのように行動するだろうか。それがなくなっても、なお気分的な安定を保って自分にとっての幸せを論理的に追求していけるものだろうか。むしろ、現実に絶望して刹那的な生き方になったりしないだろうか。

明治政府は、ナショナリズムを育てるために天皇制を使ったということも宮台氏がよく語ることだ。それは、郷土愛的なパトリオティズムに頼っていたら、強大な力を持った西欧列強に対抗出来ないという危機感からのものだったという。エリートたちは国家をまとめる必要性というものを強く感じ、郷土愛よりももっと吸引力の強い存在として天皇という象徴を持ち出したというのがその解釈だった。これは論理的に納得がいく解釈だ。

明治初期の日本ではまだ郷土愛が強く残っていただろう。それを否定することは難しかったに違いない。しかし、それを否定しなければなかなかナショナリズムを感じることは出来ず、国家のために尽くすという気持ちは生まれない。そのような気持ちが生まれるのは、世界的視野で日本を考えることが出来るエリート層だけだ。宮台氏が語る「田吾作」の日本人ではそのような大きな視野を持つことが出来ず、国家は忘れられてしまう。「田吾作」を「国民」にするために天皇制が利用されたという解釈は、論理的に納得出来るものだ。

日本の「愛国心」は、長い間このような作られたものだったように感じる。アリストテレスがいうところのフィリア(友愛)に基礎づけられたものではない。それは論理的な思考の結果もたらされたものではないのだ。だから、長い間「田吾作」性も失われずに生き続けただろうと思う。しかし、今現在の状況は、愛情を注ぐ対象の郷土が壊されてしまったという現状があるのではないだろうか。これは、ある意味では「田吾作」性を完全に否定するきっかけでもあると思うのだが、果たしてどうだろうか。

愛すべき郷土を失った人間が、抽象的対象である「国家」を愛情の対象にするには、論理的な反省によってフィリアの精神を獲得するしかないだろうと思うのだが、愛情の対象を失った人が、とりあえずは具体的な対象が欲しいと望んだら、論理的な反省を省略して物神崇拝のような「愛国心」を抱く方向が生まれるかも知れない。それが今の日本のナショナリズムの方向ではないだろうか。

宮台氏の言説には、崇高な存在との一体感を感じることで精神の安定を感じるというような表現もあった。愛情の対象は、それが何もないと人間的な幸せは得られないだろう。それが自然に愛情を感じられる存在であることが望ましいが、何もなければ幸せ感を失うということであれば、何かをとにかく愛情の対象にしたいという気持ちが生まれてくるのは論理的に納得出来る。

ナショナリズムがポピュリズムを獲得するということの論理的な解釈は、愛情の対象を失った人々が、とにかく具体的に愛を注げる対象が欲しいという願いが生むものではないかと思えてきた。それが人間が幸せを感じるには必要なものだからではないだろうか。

ナショナリズムを欲する人々の心性はこのようなものではないかと僕は想像するのだが、これはかなり歪んだ愛情になるのではないだろうか。ナショナリズムが愛の対象にする「国家」というものは、社会的な存在であり、個人で愛していればいいという存在ではない。「国家」を愛していない人間が存在すると、それに愛を注いでいる人たちは、そのような人間が「国家」を貶めていると受け取るだろう。社会的な価値を落とす行為だと受け止めるのではないかと思う。

ナショナリズムという愛情に僕が魅力を感じないのは、それが歪んだ愛情のように見えるからだろう。そのゆがみは、愛することを他人に強要するという要素が論理的に見られるからだ。「日の丸」「君が代」を強制したいという思いは、ナショナリズムというものに付属する必然性のように見える。これは自由を重んじる人間の進歩には反するのではないかと僕は感じる。

ナショナリズムが人気を博する理由の一端は何とか理解出来たものの、そこには間違いが含まれているように感じる。これを何とか健全な愛情として、ゆがみを訂正することは出来ないものだろうかと思う。ゆがみのない「公」の精神というものを発見しなければならないと思う。それは、具体的な「物」を神にするような物神崇拝的な愛情であってはならない。今ある日本政府が愛情の対象になるような、具体的な対象ではなく、理想的な「国家」の理念というようなものに愛情を注げるようなものでなければならないだろう。

今の歪んだナショナリズムの下に「愛国心」教育がやられるのは弊害が多いと思う。「愛国心」を否定はしないが、歪んだナショナリズムは否定しなければならないと思う。本当の意味での「公」とは何かということを論理的に反省しなければならないのではないか。今のナショナリズムがポピュラーになるということには、僕は違和感を感じ、共感を持つことが出来ない。だが、それは「愛国心」そのものを否定する方向へ行くのではなく、本当の意味での「愛国心」を求める方向へいきたいものだと思う。郷土愛を失った人間が、どのようにして生き甲斐としての「愛国心」を獲得出来るかという問題として考えたいものだと思う。
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by ksyuumei | 2006-11-09 09:53 | 論理


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