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自分の素質と才能を知る--夢とその断念について

休みの日は、youtubeで見つけた押尾コータローという人のギター演奏に聴き入っていた。なかなか見事なテクニックと楽しそうに演奏するその姿に好感を持って見入っていた。そして彼が自分について語った番組のクリップを見て、ますます好感の度が強まったのを感じた。

彼は非常に優れた技術と才能を持っていたが、売れ始めたのは最近のことのようだ。若い頃は音楽を職業にすることを断念したことがあるようだ。いくら優れた技術を持っていても、それを発揮する場がなければ職業としては成立しない。彼もそのような不運に見舞われ、ある意味では夢を断念するという苦い体験をしたようだ。

しかし、彼に言わせると、何をやってもうまくいかず、つくずく他の職業に関しては自分に才能がないことを痛感したようだ。それならばとまた戻ってきた音楽の世界で、音楽を仕事にすることが出来れば、それだけで幸せではないかと思ったとき、幸運にもその音楽が広く受け入れられ人気を博して彼は仕事でも成功をするという、いい方向への転回が始まって現在に至っているようだ。




彼くらい優れた才能があれば、チャンスさえあればこのような幸運をつかむだろうと言うことは予想出来る。しかし、それだからといって、夢をあきらめずに頑張った方がいいのだとは一般的には言えない。どんなに優れた才能があっても、それだけでは仕事には恵まれないというのは、死後有名になった人のエピソードを見るといくらでもあることが分かる。

そんなときに、自分の素質や才能をある意味で見切りをつけて夢をあきらめるのと、あくまでも夢を追って生きるのとでは、どちらが幸せかは分からない。押尾コータローという人は、幸運に恵まれて、夢を達成するチャンスを手に入れて夢を成就したと言えるだろう。彼の成功は、本当に幸運なものだと思う。だからこそ、その成功を一般化することが出来ないので、判断が難しくなると思う。

『希望格差社会』を書いた山田昌弘さんは、夢を追い続けてフリーター化する若者の問題を深刻な社会問題と捉えていた。この問題が、一個人の、ある青年の問題であればその青年にとって選んだ道が、たとえ茨の道であろうとも自ら望んでその道を行ったということで、その青年自身の個別の問題として考えられるかも知れない。しかし、社会的にそのような青年が一定の数で増加した場合に、これが社会全体に関わってくる問題となる場合がある。

山田さんが指摘する問題は、フリーター化した青年が一定の数で増えることで、フリーター問題が抱えている雇用問題が覆い隠されてしまうのではないかということだった。彼らは、自らが望んでフリーターという不安定な雇用形態を選んでいるようにも見えるからだ。

夢を追い続ける青年は、その夢が実現可能になるようなチャンスに巡り会ったら、それまでは仮に従事していた生活のための仕事というものをすぐに捨てる用意がなければならない。そのような条件の下でする仕事は、どうしてもフリーター的な仕事に限られてくるだろう。フリーター的な仕事を望む人が多くなれば、雇用主の側がそれが都合がいいからとごり押しすることなく、自由競争の下でいくらでもフリーターを募集することが出来る。

フリーターを、それが必要なときにいくらでも募集出来るようになれば、正規雇用という形態で人を雇う必要がなく、不定期に必要になるような部門の雇用は、大部分がフリーター化するのではないかと思う。フリーターがいつでも調達出来るような社会になると、雇用形態が不安定な人が普通になり、社会全体としてはそれが様々なところに影響を与えるのではないかという恐れがある。

年金問題なども、今の制度が続くのであれば、正規雇用が少なくなった場合には年金として入ってくるお金は少なくなるだろう。正規雇用が少なくなれば、税収も減るのではないだろうか。逆に、福祉のための費用は増してくるだろう。

山田さんは、夢を断念するためのカウンセリングが必要になってくるのではないかとも語っていた。これは、あくまでも職業として夢を追い続けることを断念するというためのカウンセリングだ。職業として成立させるためには、一定のレベルの技術が必要になる。その水準にも達していないのに夢だけが肥大しているとすれば、それは断念する方が正しいのではないかとも思う。

押尾コータローさんのように、夢を成功させるための水準は、他の人をかなり凌駕するような高い水準の技術が必要だろうと思う。夢を成就出来る人は一握りのごくわずかな人だけなのだ。自分がその水準の素質や才能があるものなのか、客観的に見極めることが必要なのではないだろうか。もし、職業として成立させるだけの水準にないのなら、その夢は「趣味」として持ち続けるのだという、ある意味では挫折と言えるような断念が必要なのではないかと思う。

この挫折は苦い体験ではあるだろうが、挫折したからといって人間的に駄目になるわけではない。「趣味」として楽しむという道は、人生を楽しいものにするには悪くない。そして、自分を遙かに超えた水準の持ち主としてプロをリスペクトするという気持ちを持てばいいのだと思う。

自分の素質や才能を客観的に受け止めるというのはかなり難しいことには違いないだろうが、技術という点においてはかなり客観的に見つめることが出来るのではないかと思う。技術というのは、練習量に比例してうまくなっていくように思われるからだ。素質や才能と関係なく、人の何倍も練習した人は、その量の多さの分だけ技術は人よりもうまくなるだろうと思う。

芸術の分野においては、その技術だけで売れるようにはならないところが難しいところだが、人の何倍も練習が続けられるという点においては、そこに素質や才能が関係しているのではないかと僕は感じる。素質や才能がない人は、練習がつらくなってしまうのではないかと感じるのだ。

一握りのエリートがその才能を独占していた時代だったら、普通の素質や才能であっても、それを他の誰も練習していなければ自分が第一人者になれる。だが、誰でもやろうと思えばなんとかその練習だけはやれるという、豊かになった現在の状況では、単に好きだというだけではなかなか練習を楽しむことはできない。スポーツなどでも基礎練習よりも、試合をした方が、たとえ技術的には未熟でも楽しみは数倍になる。

技術を向上させる基礎練習の中にさえも楽しみや喜びを見出すことが出来るなら、それは素質と才能の芽生えだと言えるのではないだろうか。僕が自分の数学の素質や才能に芽生えを感じたのは中学生の時だった。それを自分で自覚出来たのは、他の人がつまらないと思うだろうような単純な計算にでさえ僕は楽しさを見つけることが出来たからだった。

平方根の開平計算を知ったときは、夢中になっているうちに100ケタくらいまで計算していたことを覚えている。そして、その誤差がどれくらいになるかなどをまた計算したりしたものだった。円周率の計算を知ったときも、自分でどれくらい計算出来るかを確かめて見ようと思ったものだった。

計算でさえ楽しさが見つけられるというのは、計算の背景になっている論理の段階もちゃんと理解して計算に進むことが出来たということが大きいのだろうと思う。これが、論理の段階を抜いて、単なるアルゴリズムの記憶で同じ手順を繰り返し、手順の記憶の練習をするという基礎練習だったら、記憶するまでは我慢して練習するが、記憶したらそのようなつまらない練習は早くやめたいと思うだろう。

どうして論理の段階までも理解出来たのかということは自分には分からない。計算のアルゴリズムよりも、そちらの方にこそ大きな関心が向いていたからだというしかない。それが素質と才能というものではないかと今では思う。

野球の練習の時のキャッチボールなども、単に体を温めるために動かしているのではなく、身体をどのように有効に使うことが、ボールを投げるときに身体の力を無駄なく最適にボールに伝えることが出来るのか、それを実感出来るように意識して練習すれば、単なるキャッチボールがいろいろな発見をもたらしてくれるだろう。それはとても楽しいものになるに違いない。

技術を向上させるための基礎練習にも楽しみを見出して、何時間練習をしても飽きないという気分の持ち方が出来たとき、そのことに対する素質と才能があると言ってもいいのではないだろうか。夢を持ち続けるか断念するかということに対して、この判断は役に立つのではないかと思っている。

素質と才能があれば、夢を持ち続けて人生を楽しむことができると思う。しかし、その夢は必ずしも職業に結びつかなくてもいいだろうと思う。それを仕事にしなくても、人生においての楽しみの一つとして持ち続けていればいいのではないかと僕は思う。夢と職業が結びついていればある意味で幸せだろうけれど、結びついていないから不幸だと言うことにはならないだろう。問題は、下手の横好きではなく、本当に素質と才能があることに夢を持っているのかどうかということではないかと思う。

職業というのは、夢を実現するというよりも、一定のレベルの技術を持っているから勤まると考えた方がいいのではないかと思う。技術は練習量に比例するから、一定の教育期間を経て技術を身につけた人間であれば、その職業に関しては資格があるというのは合理的だと思う。そして、社会的に成立している職業というのは、そのようなものである方が望ましいのではないかと思う。むしろ夢とは関係のないものであった方が、現代社会では職業としてはふさわしいのではないかと思う。

三浦つとむさんは、自身の夢は、社会の謎を解く科学者というものであったが、生活の糧を得る職業は、鉄筆を握る技術者だった。その技術の高さには定評があって仕事は十分だったという。一日のうちの半分を生活のための仕事に割いて、残りの半分を自分の夢である学問に使うことが出来たという。

大学の先生になると、一日の全てを学問に使えるような感じもするが、むしろ雑用が多くて学問に割ける時間が三浦さんよりも少ないかも知れない。夢を職業にするということは非常に難しいのではないかと思う。むしろ職業にしたとたんに、夢として抱いていた気持ちがくじけてしまうかも知れない。

僕も教員の仕事には夢を持っていない。あまりにも制約が多すぎて、例えば人間はどのような道筋で論理的な理解を深めていくかというような教育は、今の学校ではほとんど行うことが出来ない。だから、職業としての教育では、僕は社会が要求する一定レベルの技術を身につけて、その技術の範囲内で仕事をしようとしている。夢を実現するための教育は、そのチャンスはないかも知れないが、どこかで実現出来る日が来るのを夢見て基礎訓練に励んでいるという感じだろうか。論理に関しては、僕は基礎訓練にさえも楽しみを見出すことが出来ると、自分の素質と才能を信じている。
by ksyuumei | 2006-11-06 09:58 | 雑文


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