命題の真偽の判断における二つの要素(定義の問題と事実情報の確認)

命題の真偽を判断すると言うことは、その主張が正しいか正しくないかを判断すると言うことである。普通は、両方の判断が両立すると言うことはない。ある命題が正しいと判断されれば、それは同時に正しくないということは言えない。肯定と否定が同時に成り立つと言うことは論理法則では認められない。例えば

1 高市早苗氏は「夫婦別姓」である。
2 高市早苗氏は「夫婦別姓」でない。

という二つの命題は、互いに否定になっており、これが両方とも正しいと言うことは論理的にはあり得ない。しかし、1と2の「夫婦別姓」の意味が違っている場合は、この二つの命題は互いの否定にならない。そうであれば、この二つの命題は形式論理的な意味での矛盾ではないから両立する命題になり、両方ともに正しいと言うことが出来る。

実際に、次のような意味で「夫婦別姓」という言葉を理解すると、両方の命題はともに正しいものとなる。

1 世間で流通している名前として夫婦の姓が違っている。
2 民法改正案としての「選択的夫婦別姓」という意味で、戸籍上の姓(つまり氏)が夫婦別のものになっている。



言葉というのは、同じ形式(同じ文字・発音)であっても、それが使われる関係性の違いで意味が違う場合があり得る。文脈によって意味が変わりうる。その時は、意味が違えば形式が同じでも違う命題だという解釈をして、形の上では「A」と「Aの否定」のように見えても、実は「A」と「B」という二つの命題であると判断されることがある。

上の二つの命題をこのように解釈すれば、それは定義の違いによって真偽が違うものになるという命題になる。普通は「夫婦別姓」という言葉の意味を、現象的に世間で通用している夫婦の姓が違うという意味に受け取るので、現実の事実と照らし合わせると、1が正しくて2が間違えているという判断がされるだろう。

このような紛らわしい表現の命題の場合は、意味をよりハッキリさせるためには次のように書き換えた方がいいだろう。

1 高市早苗氏は「夫婦別姓」である。
2 高市早苗氏は「夫婦別氏」でない。
 (高市早苗氏は「夫婦同氏」である。)

こうすれば1と2の意味の違いがはっきりするし、互いに矛盾しないので両立する命題となる。この命題の場合は、定義そのものに妥当性があるのか、まだ民法改正が行われていない状況では、法的な婚姻が成立していれば2の主張は常に正しいものになるので、それをわざわざ主張することに意味があるのか、という他の問題もあるが、定義との関係で言えば、定義を明確にすれば論理の曖昧さは消える。

命題の真偽の判断において、定義そのものを明確にするのが難しいケースというのもあるだろう。「南京大虐殺」の存在に関して、「大虐殺」という言葉の定義などはそのようなものではないかと感じる。「大虐殺」という言葉の定義が難しいのは、「虐殺」というやや情緒的なニュアンスのある現象を客観的に定義することの難しさをまず感じる。誰もが「虐殺」だと判断するような客観的な定義が出来るかという問題だ。

さらに「大」という判断についても、量的なある限界を超えれば「大」なのかという定義の難しさがある。「大」という判断は、相対的・比較的なもので、あるものと比べて「大」だと感じるときにそう判断されるように思う。だから、これも客観的に定義することが難しい。

「南京大虐殺」という言葉に関しては、客観的な定義が難しいのを感じる。客観性を持たない概念は、それを使って命題の真偽という判断をするのは原理的に不可能ではないかというのを感じる。南京で何らかの事件が起きたと言うことは同意出来ても、それが「大虐殺だ」という判断においては異論が出てきてしまうのは、本質的には言葉の定義の曖昧さにあるように思う。そして、その曖昧さは原理的に取り除くことが出来ない曖昧さではないかと僕は感じる。

命題の真偽を決定するのに、定義の問題と並んでもう一つ気にかかるのは事実情報の問題だ。現実の記述をした命題においては、事実情報が曖昧なときも命題の真偽が決定出来ないように感じる。

和歌山毒カレー事件と呼ばれるもので死刑判決が出された林被告に対して、僕は事実情報だけでは、彼女が犯人であるという命題の真偽が決定出来ないのではないかと感じる。事実情報としてもっと確実なものがなければ、「犯人だ」という積極的な肯定判断は出来ないのではないだろうか。その事実情報は、いずれも「犯人らしい」「犯人の可能性がある」と言うことを示しているだけのことではないだろうか。

このような場合、近代社会では、「疑わしきは被告人の利益に」という推定無罪の原則をとる。これには感情的に反発する人が多いようだが、感情的な反発でこの論理を拒否するとしたら、その人は自らを、近代的な人間ではないと宣言しているようなものではないかと思う。たとえ感情的な反発を感じようとも、犯人と断定出来なければ被告人は「無罪」にするべきだというのが近代的な原則ではないかと思う。

現実を記述した命題の真偽を考えるとき、定義の問題と事実情報の確認の問題は複雑に絡み合っている。ある命題が正しいか正しくないかという判断が、対立するものが出されているときは、両者の問題を解きほぐして考え直してみることが必要だろうと思う。

都教委が、都立高校の教員に対して、卒業式等で君が代斉唱の時に歌わなかったら処分するという通達を出した問題で、これが「思想・良心の自由」を侵害するという憲法違反だという判断に対しては異論が存在する。都教委が、この裁判所の判断に対して控訴をするということは、判断が間違いだという否定が正しいと考えていることを意味する。

同じ命題の肯定と否定は同時に成立しないから、これはどちらかが間違っているのだと普通は考えるだろう。しかし、定義の問題が食い違っていたら、その判断が違ってもそれは定義の違いを反映しただけのものだと言えるかも知れない。「思想・良心の自由」に対して、裁判所の定義と、都教委が考える定義は果たして一致しているのだろうか。

また、君が代斉唱の強制については、具体的には、歌っているかどうかをいちいちそばまで行って確認して、歌っていなかったときには処分をするという、何とも行き過ぎた行為のもとに行われていたと言うことも聞いている。これなどは、事実情報において、そこまでやって強制することに、「思想・良心の自由」を侵害するという判断が含まれているのだと思う。だから、定義の問題とともに、具体的にどのように強制されていたかという事実情報の確認も判断においては重要だろうと思う。

定義の問題が一致していないときは、ある命題の真偽を議論していても、それは水掛け論になるだけで議論は無駄になる。議論の前提として定義が一致するというのは、論理的な展開をするには最重要とも言える前提になるだろう。普通は常識的な範囲がその前提としての一致をもたらすのだが、残念なことに世間の常識というものがだんだんと崩れてきているようにも感じるので、異論を戦わせるときには、特にこの定義の一致という前提は拘って議論しなければならないだろう。

定義の一致で議論をして、そこで合意出来ないときは、それ以上の議論は一切無駄になるので、後の主張は全て見解の相違と言うことで理解した方がいいだろう。そういう人は、相手に議論をふっかけるよりも、自分で自分のブログを作って自分の主張を発信した方がいいだろう。僕自身も、定義の違いが理解出来た段階で、それ以上の議論はしても仕方がないと思うので終わりにするだろうと思う。自分の主張を発信している人間は、定義の問題を考察することで、何らかのコメントに答えるかどうかを判断すると良いのではないかと思う。

事実情報の確認の問題は、情報源を持たない人間は、それを正確にすると言うことには限界がある。そういう状況にいるときは、判断というものを、常に仮言命題の形で考えておくことがいいのではないかと思う。もしあることが事実であるとしたら、論理的にはこのように考えることが出来る、という形で判断しておくことがいいのではないかと思う。

「北朝鮮」という国については、国が疲弊しているとか、国民生活は飢えで大変なので権力者は支持を失っているとか、放っておいても崩壊するのだというような言説が言われる。圧力をかけて追い込めば音を上げて降参するのだというような意見もある。しかし、これは本当だろうかという疑いもある。これは事実情報をつかめていないので断定することは出来ない。

最新のマル激では武貞秀士氏(防衛研究所主任研究官)をゲストに招いているが、武貞氏によれば、「北朝鮮」が大変な状況にあるということにはかなりの嘘があるということだった。それは、「北朝鮮」自身がそう宣伝することによって援助を手に入れられるという利益があって、大げさに言っているような所があるということだ。これは僕もそう感じるが、事実情報としては確かめようがない。

だが、放っておいても崩壊するのだと言われているのに、なかなか崩壊の兆しさえ見せないと言うような所はぼんやりとではあるが事実情報としてつかめる。そうすると、大変だという状況とはどうもつじつまが合わないと言う論理的な疑問を感じる。武貞氏の情報の方が正しいのではないだろうかという思いもわいてくる。そこで、この情報がもし正しいのなら、という思考を進めてみようかとも考えたりする。事実情報を確認することが難しいときは、このように仮言命題として考察を進めることがいいのではないかと思う。

純粋に論理の問題だけであれば、論理法則に従う人間は、誰が考えても同じ結論に達する。しかし、現実の問題を考察するときは、論理だけの判断ではなく、定義の妥当性や事実情報の確認という問題が出てくる。現実の問題に対しては、このような視点からその命題の真偽を考えてみようかと思う。関心を持っているのは次のような命題だ。

・愛国心の教育は人間の倫理性を育てるか。
・いじめという行為を社会から駆逐することは可能か。
・いじめの駆逐が不可能であるなら、それの告発が簡単に出来るメカニズムを作ることは可能か。
・「北朝鮮」は、追い込まれて思考停止状態になって非常識な行為をしているのか、それとも、優れた戦略的思考によって挑発行為を繰り返しているのかどちらなのか。
・教育基本法の改正をすることで荒廃した教育が立ち直れるか。
・家族の絆はすでに壊れているのかどうか。
・もし家族の絆が壊れているとしたら、そのもっとも大きな要因はどこにあるか。
・「夫婦別姓」にすることで家族の崩壊はますます拍車がかかるのかどうか。
・アメリカに対する依存と追従は今後も日本に幸せをもたらすかどうか。
・アジアにおいて日本は信頼を築いているのか、あるいは今後築いていけるのか。
・民主主義的に優れたリーダーを選出することと、そのリーダーに依存しすぎないようにすることは両立するか。
・神のような超越的絶対者を立てることは、自己を失って依存的になるのか、自己を肥大化させずに謙虚になるのか。
・世界の全体像を(抽象的に)把握することは可能か。
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by ksyuumei | 2006-10-22 10:14 | 論理


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