抽象理論の現実への応用の論理的構造を考える

数学というのは、それ自体は抽象化された世界を記述する理論になっている。ある意味では現実とは全く関係のない世界を独自に創造しうる。しかしそれは、ある条件の下に現実に適用され応用される。応用を考えられていない、理論のための理論という抽象論はあまり価値を置かれていないようにさえ思われる。

抽象というものが、現実を基礎にして、現実の属性を捨象する過程を経て抽象されるということを考えれば、捨象に適応した条件を設定することにより応用が可能だと言うことは論理的に理解出来る。この応用の論理構造を考えることで、抽象論の意義を再確認してみようと思う。

数学は高度に抽象化された理論であるが、それが現実とかけ離れて展開されているので、応用の側面を取り出して考えるにはかえって考えやすいと思う。その違いが際立っているからだ。また、数学の理論は抽象の程度に従っても、易しい段階から難しい段階へと発展していくことが見えやすい。易しい段階の応用というものも考えやすい。



考察の最終目標は、宮台真司氏が提出している社会学の難解な理論を応用することを考えたいと思っているのだが、これは理論そのものが難解なので、応用の前に理論を理解することが難しい。易しい段階の理論をどう応用するかを数学で確認しておいて、その類推でこの難解な理論の応用も考えてみたいと思う。

まずは方程式の応用というもので抽象理論の応用というものの論理構造を考えてみようと思う。方程式というのは、数量関係が等しいと言うことから、最初は未知であった量が、手順を踏んだ数式の展開によって既知の量として求められるという構造を持っている。方程式において重要なのは、それが等式という関係で表現されると言うことがまずある。つまり均衡しているという現象を記述するのにふさわしいと言うことがある。

簡単な例として、一定の速度a㎞/時で直進運動をしている物体が、b㎞進むに要する時間xを求める方程式を考えてみよう。この場合等しい量として想定されるものは、一つには距離が考えられる。計算された距離の量と、測定された距離の量が均衡していると考えて

   ax=b

という方程式が得られ、その解としてx=b/aというものが得られる。この応用の場合に捨象されている現実の属性にどのようなものがあるかを考えてみよう。それは次のようなものが浮かんでくる。

・現実には一定の速度というものはあり得ないが、数学では常に同じ速度であるという等速運動として抽象化している。
・現実には正確にb㎞だという測定は出来ないが、数学ではこれはぴったりb㎞だという抽象化をする。
・現実には完全な直進運動というものは無いが、数学では完全にまっすぐな運動として抽象されている。

これらの捨象された属性は、「誤差」という言葉でひとくくりに出来るのではないかと思う。「誤差」として無視しうると判断された属性は捨象され、対象は抽象化された完全なものと同一視されて、抽象理論の応用として現実への適用が妥当なものと判断される。

方程式の応用においては、現実の属性としての「誤差」が重要であるという感じがする。それと同時に重要なものに、方程式そのものが持っている性質と現実との対応で、均衡の表現に関わるものがある。方程式の場合

    ax=ax

という「A=A」という形のものは解が決定しない。「A=B」という形の

    ax=b

という方程式でないと解が求まらない。つまり、均衡状態の表現において二種類の違う表現が見つからないと方程式にならないのだ。「A=A」というのは、論理的にはトートロジーと呼ばれるもので、Aが何であろうとこの命題は真になる。ということは、現実とは無関係に真になる命題だと言うことだ。現実とは無関係なのだから、現実については何も言えない命題になる。

現実とのつながりを持つためには、トートロジーでない命題を基にして考察しなければならない。「A=B」という命題は、正しい場合もあるし、正しくない場合もある。現実を反映して正しい場合に、正しく解が求められるという対応をしている。方程式の現実への応用に対しては、トートロジーでない命題が、現実的に正しい場合があるということが確かめられている必要があるだろう。

「誤差」の問題と「トートロジーでない命題」という観点で、宮台真司氏が語る社会学講座の一部の応用を考えてみたいと思う。宮台氏は「連載第三回:システムとは何か?」の中で定常システムについて語っている。これは全く抽象的な理論として提出されているのだが、現実に存在するある対象を、定常システムとして捉えられるかどうかと言うことでその応用を考えてみたい。

定常とは、辞書的な意味では「一定していて変わらないこと」を意味するのだが、定常システムの場合は、「変化するにもかかわらず変わらない」というシステムが対象になっている。これは、形容矛盾という感じもするのだが、変化の側面は部分であり、変化しないという側面は全体を指す。つまり、変化の判断の視点が違うので、これは矛盾する主張のように見えながら両立するという弁証法的な性質になっている。

方程式の応用の場合は、未知なる量が既知になるという利得があり、それを目的として応用すると言うことが分かりやすかった。ある現実の存在を定常システムであるかどうかという判断をするという応用は、どのような利得があるだろうか。何を目的としてそのような応用を考えるのだろうか。

ある対象が定常システムであると判断されると、そこには「秩序」が維持されていると考えることが出来る。この「秩序」という言葉も、抽象理論では、日常用語としての秩序と少し意味が違うのでまた応用が難しいところがある。これは日常用語とは違う意味で使っている。つまり「秩序があるから価値がある」というような価値観とは無関係に、事実として「秩序」という現象が見られるという程度の使い方で理解しておく。

その上で、定常システムというものを考えると、その「秩序」の維持や限界というものが、定常システムという考えを使うことで見えてくる。つまり「部分として変化しているだけで、全体としては変化していない」と判断出来るのか、「部分の変化が全体にも及んで、システム自体が変化してしまった」と判断されるのかという問題が生じる。これは現実理解のためには役に立つものになるのではないかと思う。

学校というシステムにおいて、日の丸・君が代の強制と言うことが、システムの変化に対してどのような影響を与えているかを考察することは意味のある結論を導き出せるだろうか。これは、明らかにシステムの一部に変化をもたらす。それが一部の変化であって、学校全体のシステムにとっては変化をもたらさない、秩序を維持するものであるのか。学校というシステムそのものが、ある理念とは違うものになってしまうという根本を変えるものなのか。その判断はかなり深刻なものになるのではないだろうか。

「選択的夫婦別姓」の問題でも、法的に別姓(別氏)が認められた場合、この部分的な変化は、全体システムとしての「家族」あるいは「国家」にどのような影響を与えるのか。それは秩序を保つ部分的な変化にとどまるのか、秩序を破壊して「家族」や「国家」をまったく違うシステムにしてしまうのか。こちらも、どう理解するかというのはかなり深刻かも知れない。

ただシステムの応用の考察においてはかなりの難しさを感じる。方程式の応用であれば、初歩的な段階から高度な段階へのレベルの違いを意識して学ぶことが出来るのだが、システムの応用に関しては、どのようなレベルで理解していくことが理解を深めるかと言うことが見当がつかない。

問題を意識出来る対象はかなり難しい困難なレベルであるように見える。しかし、易しい段階の対象には、問題意識を感じることが難しい。このギャップをどう埋めることが出来るだろう。難しいレベルの対象は、システムの初歩を応用するだけではすまず、システムに関するかなり多岐に渡る考察をして初めて、それをシステムとして理解出来るようになる感じがする。

学校というシステムを捉える際の、「誤差」に相当する部分はどのようになっているだろうか。学校というのは、具体的に存在する対象にはそれぞれに個性的な違いがある。その個性の差がありながらも、その差を捨象して、学校という対象で抽象的に語ることが出来るのは、何が「誤差」として捨てられているのだろうか。それを考察することが、システムの初歩の理解としては妥当なものになるだろうか。

また、システムの抽象論においてトートロジーに当たる部分はあるのだろうか。必ずしもいつも成立するとは限らないような言説によって、その理解が進むというような部分があるだろうか。

学校というシステムは、システムの初歩を理解するにはあまりふさわしい対象ではないかも知れない。ちょっと複雑すぎるシステムかも知れないが、とりあえずよく知っている対象ではあるので、これで何とか初歩の段階を乗り越えられないかを考えてみたいと思う。システムという考えを学校という対象に応用することによってどのような帰結が得られるのか。新しい発見がもたらされれば、応用の意義も深まるのではないかと思う。
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by ksyuumei | 2006-10-16 09:26 | 論理


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