パターナリズムの問題点

「夫婦別姓」の問題と「日の丸・君が代強制」の問題は、全く別の問題のように見えるが、そこには共通した構造も見ることが出来る。それは、どちらも選択の自由がなく、自己責任による自己決定権を持たないと言うところだ。

法的に認められた結婚をしたいと思えば、今の日本では同氏にしなければならず、戸籍上の氏を旧姓のまま夫婦で別々にして婚姻届を出すことが出来ない。そこで、戸籍上の姓(法的に認められた姓)において、選択の自由の幅を広げるために民法の改正を提案しているというのが現在の状況だ。

これに対する反対は、民法の改正によって直接的な被害を受ける人々から出されているのではない。家族の絆が壊れるという論理も、それは姓を変えた家族について言われていることで、反対者自身は姓を変えていないのだから、反対者の家族の絆が壊れるわけではない。自分の責任で選択した夫婦別姓で、その選択をした家族が絆を壊しても、それは自己責任なのではないだろうか。




それに家族の絆が壊れるというのは、必ずそうなるという科学法則のようなものではなく、反対者からはそう見えるという予期に過ぎない。そうなるかどうかは、夫婦別姓にしてみなければ分からないことだ。夫婦別姓にしても家族の絆が壊れることなく、むしろ温かい思いやりによって結びついた家族も存在する可能性は大いにあると思う。家族の絆を結びつけるのは、具体的な関係性であり愛情だからだ。姓だけが絆を決定する要因ではない。

絆が壊れる恐れがあるからという理由で、それを望む人の要求をはねつけるとしたら、それはパターナリズムの弊害になるのではないだろうか。なぜ自己責任による、自己決定権というのを認めないのだろうか。「夫婦別姓」を認めない方が社会的には正しいのだと言うことは、100%正しいと証明されることではない。それなのに、その要求を持たない、それを必要としない人々の反対でその願いが潰されると言うことに僕は違和感を感じる。それは、単純に、自分が気に入らないからそのことの邪魔をしているように映らないだろうか。

パターナリズムというのは、ものをよく知っている大人が、経験の浅い子どもに対して、深い知識と洞察の下に正しい判断をアドバイス出来るときに正当性を発揮する。しかしどんなときでも大人の判断の方が正しいとしてしまえば、パターナリズムの弊害が生まれるのではないかと思う。

大人は知識も経験もあるが、それでもなお世の中というのは複雑なもので、全く経験したことがない新しい局面というものに遭遇することがある。そんなときには、大人の判断も子どもの判断も、どちらも不確かという点では変わりがない。子どもの判断にあまりにも無謀な点が含まれているなら、それは拒否される理由になるだろうが、結果的にどうなるか分からないが、たとえ失敗したとしても自己責任でその失敗を引き受けられると判断出来るなら、自由を望む人々の願いを実現する方向へ行くことが、民主主義社会としては望ましいのではないかと思う。

「選択的夫婦別姓」の提案は、別姓を望む人にそれを選択する自由を与えて欲しいというものだ。望まない人に押しつけるというものではない。だから、このことによって被害を受ける人が出てくることは想像しにくい。「夫婦別姓」を選択したことによって、結果的に不都合に遭遇したとしても、それは自分で選択したことなのだから、自分でその不都合を引き受けるという自己責任の原則を持てばいいのではないかとも思える。どうして願いを潰してまで反対するのかという理由がすっきりとは分からない。

民主主義の発展は自由の拡大とともにあると僕は思っている。だから、自由を制限するには、制限するだけの確かな理由が必要だと僕は思っている。この確かな理由というのが、「選択的夫婦別姓」という民法改正に反対する人からはどうもすっきりした論理が提出されていないように感じる。パターナリズムの弊害を強く感じるものだ。

「日の丸・君が代強制」の問題の本質にも、パターナリズムというものを僕は強く感じる。日の丸・君が代に敬意を表すと言うことが無条件に大事なことであると言うことが前提とされて、それを拒否するという態度などあってはならないものだと考える人がいるようだ。しかし、それが正しいというのは、論理的にも現実的にも証明出来ることではない。無条件にそう信じる人が圧倒的多数を占めたときに、社会的な雰囲気として、「日の丸・君が代に敬意を払わないことはケシカラン」という道徳が成立するのである。

「日の丸・君が代に対する敬意」というものに疑念を感じて、それを拒否しようとするものに対して、その判断が間違っていて、敬意を表す方こそが正しいというのは、よく考えてみればどちらが正しいか分からない問題だ。それを自分の方が正しいとして押しつけようとするのは、悪しきパターナリズムであり、その弊害だと言えるだろう。

パターナリズムが、反発を感じるような押しつけになるのではなく、素直にしたがっていけるようなものになるには、アドバイスを受ける方がそのことを正しいと感じ取って、むしろ自らの選択でパターナリズムによるアドバイスを受け入れることが必要だろう。仮説実験授業研究会などでは、子どもが押しつけだと感じないことはどんどん押しつけてしまえ、ということを言っている。自己決定でパターナリズムを受け入れるときは、パターナリズムの弊害が出てこないと言うことだ。

しかし、それを不当な押しつけだと感じる心情が生まれるようなら、そこにはパターナリズムの弊害が生まれてくる。不当な押しつけだと感じることは、自己責任を感じる心情もなくなるだろう。まずい結果が起これば、それは押しつけた方が悪いのであると恨みを持つようになるのは自然な感情だ。受験勉強の圧力だけを感じていた子どもたちが、勉強で挫折したときに、「人生を返せ」と叫ぶのは、人生を壊した原因はパターナリズムの押しつけをした方にあるのだという主張だろう。

日の丸・君が代に敬意を払うということは自明な前提ではない。「敬意を払わない」という選択肢も存在しうる、選択肢の分かれたものなのだ。もし「敬意を払う」と言うこと以外に選択肢がないものなら、それは選択肢になるのではなく、「選択前提」として決定しているものになる。ほとんど全ての人がそう合意しているのであれば、敬意を押しつけても、それを押しつけと感じる人はほとんどいない。押しつけは問題にもならないだろう。「選択前提」というのはそういうものだ。

しかし、それを押しつけだと感じる人が一定の数を占めるなら、それは単に変人だと言うことで無視(捨象)出来る存在ではなくなる。その時は、「選択前提」が選択肢の一つになるという、再帰的な思考が必要になる。この再帰的思考は、「選択前提」を当たり前だと信じている度合いが強ければ強いほど難しくなる。

しかし、かつてはみんな同じ感情を有していたという前近代的社会から、個が確立して、個人が個性を持った存在になってきたことが民主主義の発展であると理解するなら、再帰的思考によって「選択前提」が壊れて選択肢が増えることは、自由の拡大だとして歓迎することが出来るのではないだろうか。この自由の拡大の論理展開に間違いが含まれる場合もあるだろうが、それは論理展開を批判すればいいのであって、自由の拡大自体が間違っているとは言えないだろう。それは歴史を逆に戻すことになりかねない。

日の丸・君が代に対して敬意を払うと言うことは、必ずしも「選択前提」ではなく、そうでない場合も考えうると言うことは、「選択前提」を自明だと思っている人にとっては感情的反発を感じるだろうが、それは感情だけで拒否するのなら論理的には間違いになる。日の丸・君が代が戦後の豊かさと平和だけを象徴しているのなら、それに敬意を払うと言うことの現実的な理由があるので、信念ではなく論理で敬意を感じることも出来る。

しかし、それが戦前の存在と変わらない姿を持っていることから、戦後だけの豊かさと平和を象徴しているのではなく、戦争の暗い歴史をも象徴していると考えることが出来る。戦争中に軍国主義的教育がされて、思想的な弾圧があったことは確かだから、それに対して憤りを感じる人は、日の丸・君が代を拒否する心情が出てきても仕方がないだろう。

また、戦争の遂行というものが、心情的にはどれほど崇高な理念を持っていようとも、具体的な展開においては悲惨で残虐な行為を伴うものであるかは、かつても今も変わらない。この戦争に対する拒否感から、それを象徴すると考えられる日の丸・君が代を拒否する心情も出てくるだろう。

日の丸・君が代が、戦後全く別のものになっていたら、それが象徴するものは全く別のものになったので、式典での国旗・国歌の問題も、思想・良心の自由に関わらなかったかも知れない。だから、これは日の丸・君が代だからこそ起こっている特殊な事情でもあると言えるだろう。

日の丸・君が代が連続した存在であることは、天皇制が連続したものであることとも関係していると思う。天皇制が、存在としては連続しているものであるにもかかわらず、その意味が戦前と戦後では全く変わっているのだと、日本国民が深く理解したとき、連続した存在である日の丸・君が代も、戦前の歴史から断ち切られるときが来るのかも知れない。

なお、君が代・日の丸を、さらに抽象化した「国旗・国歌」の問題にして、これに敬意を払うべきかと言うことも僕は再帰的な問題だと思う。無条件に「選択前提」として「敬意を払うのが当然」とは思わない。これは、国家という存在をどう認識するかという問題と関わって現れてくる問題だろうと思う。

国家によって弾圧されるマイノリティという存在であるときは、「国旗・国歌に敬意を払わない」という選択肢は正当なものとなりうる。むしろ、「国旗・国歌」が象徴する国家というものの欺瞞を暴くために拒否する態度を鮮明にすると言うことも許されるだろう。それをもっとも鮮やかに感じたのは、1968年のメキシコオリンピックの際の星条旗に拳を突き上げる拒否の行為だ。これは、オリンピックの場に政治性を持ち込まないという建前によって処分はされたものの、国家の欺瞞を暴くものとして幅広い支持を集めた。

「国旗・国歌」を思想・良心の自由から拒否すると言うことはいくらでもあり得る。それに対して、お互いに敬意を示し合うというのは、両者に拒否する理由が存在しないからである。拒否する理由が存在しないのに、それに対して失礼な態度をとればマナーが悪いと言うことになるだろう。しかし、拒否する理由が存在し、その理由に正当性があると理解出来れば、拒否をすることはマナー違反ではない。むしろ、その理由を理解することに努めることが、民主主義者としての正しい態度だろうと思う。

理由の如何を問わず、それをケシカランと思うのは、「選択前提」を再帰的に考えることが出来ないからだと自覚した方がいい。「選択前提」を再帰的に捉えられない人間は、そのことによって「アノミー」というパニック状態に陥る。そうなれば、ますます論理的な判断は難しくなるだろう。そのような面からも、「夫婦別姓」と「日の丸・君が代強制」の問題を考えてみたいとも思う。
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by ksyuumei | 2006-10-14 11:44 | 雑文


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