竹中大臣の議員辞職の直感的理解と論理的理解 その3

河野太郎衆議院議員の「ふざけるんじゃねえ」という文章の論理的理解というものを考えている。論理的理解というのは、前提と結論の間に論理の飛躍が感じられず、その結びつきに納得出来るような理解をしようというものだ。

竹中大臣の議員辞職には何かおかしいというような直感を感じる。その直感が、よく考えた上でもやはりおかしいと思えるのか、それともおかしいと感じたのは自分の勘違いであり、ある種の思い込みから生まれた間違った判断であるのか、それを確かめるために論理的な理解というものを考える。

河野さんが提出する批判の論理的な理解は、任期途中で仕事を離れるのは、竹中大臣に一票を投じた人々の期待を裏切ることであり、責任を放棄するものだということだ。これは、論理的にはそのようなことが成立すると思う。仕事を全うしないことに対する責任は免れないだろうと思う。




河野さんの説明には一定の論理的理解が出来る。だが、論理的理解が出来るということでそれが全面的に正しいとは限らない。視点が違えば全く正反対の主張が正しいという場合があるのが現実の弁証法性だ。そこで、河野さんの視点以外の視点から、竹中大臣の議員辞職の理由に論理的な理解が出来るかどうかをまた考えてみた。

それをするには多様な視点を一人で持つことが出来るような能力を必要とするのだが、これはなかなか難しい。そこで、自分では持ち得ない視点を、河野さんのブログのコメント欄からヒントを得て、その視点で論理の鎖が構築出来ないかどうかを考えてみた。

前回のエントリーではいずれの視点からも論理の構築が出来なかった。竹中さんは有能な人だから、議員であるよりもそれを離れた方がさらに公共に資する可能性があるから、その辞職を理解出来ると語る直感もあったので、それが論理的に整合性があるかを考えてみたが肯定出来なかった。これは逆ならば論理的整合性があると感じた。

能力がないという判断があれば、議員の仕事を遂行することに無理が生じる恐れがあるので、それが理由であれば議員を辞職する整合的な理由になる。だが、能力があるという判断をしているのであれば、それがどうして議員辞職に結びつくかが分からない。能力があるかないかの判断が正しいかどうかに問題はあるだろうが、それを前提にしたときは、次のように結論するのが論理的ではないのだろうか。

 ・能力がある → 議員の仕事をこなすことが出来るので議員を続ける
 ・能力がない → 議員の仕事こなすことが出来ないので議員を辞職する

これが反対になるということの論理的整合性が見つからない。論理的なつじつまを合わせるなら、「大臣としての能力はあるが、議員としての能力はない」ということが証明されれば、辞職の理由としては納得出来る。そうなると、なぜ議員に立候補したかという別の問題は生じてくるけれど。

またmechaさんからのコメントで、竹中大臣が選挙当時に、小泉政権の終了とともに議員を辞職するつもりがあったかどうかを語っていたかという問題を調べてみた。「続・竹中大臣の議員辞職表明」というエントリーに、


「2001年4月に民間人として小泉内閣に入閣。2004年の参議院選挙では、自民党の比例代表候補として初当選。
「選挙に出て当選させて頂いたとしたら、その途中で辞めるということなどあり得ないと思います」(竹中平蔵 総務相・2004年7月)」


という記述があった。このブログでは、「竹中大臣の議員辞職表明」でも竹中大臣のことに触れており、「せめて選挙戦において「私は小泉総理をより力強く支えるため議員になりたいのです。小泉総理が退陣する際には議員を辞めます」と明言した上で当選したというなら、なんとか正当化は可能かもしれません」と語っている。これはmechaさんが語ったこととほぼ一致する。

論理的に正当であることというのは、全く無関係に考えたことであっても一致するということの現れではないかと思う。さて、直感的には僕には竹中大臣の議員辞職の正当性は理解出来ないのだが、論理的にそれが理解出来るような示唆を与えてくれるコメントがあるかどうか、河野さんのブログから探してみたい。

「竹中さんは、元来政治家じゃないんですよ」という言い方には論理的な正当性があるだろうか。元来政治家じゃないから、辞職する方が元来のあり方にふさわしいという意味では論理的になるかも知れない。しかし、そうならば、なぜ元来政治家じゃない人間が政治家になったのかということの責任がどうなるかという問題が生じる。

これに対しては、政治家にした小泉さんが悪い・小泉さんの責任だという考えがあるようだ。これは開き直りの放言としては、言っている内容はメチャクチャだと思うが、一応論理的にはつじつまが合う。つまり、自分で自分の適正も判断出来ないほど竹中さんは、議員としての能力が低いのだという論理的帰結なら、能力が低いゆえに議員を辞めるということで論理的なつじつまが合う。

河野さんに対しても、それを見抜けなかったあなたが悪いというようなことになるのだろうか。開き直りとしては勝手な放言だと思うが、論理的には理解出来る。

「そもそも竹中氏は無理矢理議員にさせられた経緯があるでしょ。」という言い方も、似たような構造を持っているだろうか。論理的な整合性を持つ理由としては、元々議員になるべき人間じゃなかったから、やめることに正当性があるということになるだろうか。元々議員になるべきではなかった人間を議員に選んでしまったのは、選挙民の間違いだと言うことにもなるのだろうか。

これは一応の整合性のある論理だとは思うが、不思議なのは、このような考えを提出している人が、議員の間にあった竹中さんを、議員にふさわしくなかった人、ある意味では議員としての能力では劣ると、必ずしも評価していないように見える点だ。無理やり議員にさせられた、議員としては「元来政治家じゃない」と言われる人が、議員としても平均的な仕事が出来ると評価出来るのだろうか。竹中さんへの議員としての評価が低いものであれば論理的にすっきりするのだが、どうもそうでないようなので、そこが論理的にはまだ理解が難しいところだ。

大臣としての竹中さんの仕事を高く評価して、苦労する仕事をしてきたので、それが一段落したのだから「お疲れ様」と言って、労をねぎらうという意見もかなりあるようだ。これは、大臣を辞めるときに語るのなら論理的には理解出来る。これを議員を辞めるときにも同じロジックで語れると言うところに、僕は論理的理解の難しさを感じるところだ。

竹中さんが議員にならずに、大臣としての仕事を全うしたのであれば、「お疲れ様」という言葉は何の問題もなかっただろう。僕自身は、その大臣としての仕事にもある種の疑問は抱いているものの、それを高く評価する人が「お疲れ様」という心情も・論理的な理解も納得出来るものではある。大臣としての仕事をする上で、どうして議員になる必要があったのかということが論理的に理解出来ないところに違和感が生まれるのかも知れない。

竹中大臣が、大臣としての仕事を全うするために、どうして議員になることが必要だったのだろうか。国会議員でなければ大臣になれないというわけではなかったはずなのだが。議員になることで、大臣の仕事のどの面にプラスになったのだろうか。それは、議員にならなければいけない必然性を伴ったものだったのだろうか。そして、大臣を辞するに当たって、議員であることの必然性が失われた理由は、それに関係があることなのだろうか。

このあたりの論理的な結びつきが理解出来れば、大臣を辞めるときに議員も辞めるというつながりが論理的に理解出来るのかも知れない。しかし、大臣の仕事をするために議員になる必要があると一般的に語れるなら、元々大臣の資格として議員であることが定められているはずだ。ということは、最初の段階で竹中さんは大臣になれないことになる。それが、最初は議員でなくても大臣としてスタートしたのだから、最初の段階では議員になる必然性はなかったと考えられる。

大臣の仕事をするために議員になるというのは、一般的に語れるものではなく、竹中大臣に特殊に関わるものではないかと思う。どのような特別の事情がそこにあったのか。今のところ思いつくものがないが、ちょっと考えてみたいものだと思う。この解答が見つかれば、竹中大臣が議員を辞めるというのも、その必然性を支える条件がなくなったからだと論理的に判断出来るかも知れない。

「親分が辞めるんだから、子分もそれに付いていくっていうのは、理にかなってると思う」という意見は、意見としては勝手な言い分に見えるが、総理と総理に指名された大臣の関係を、親分・子分の関係で捉えることが出来るのなら、論理的な整合性はあるだろう。「理にかなっている」のではないかと僕も思う。

ただ、竹中さんの辞職理由がこの通りであれば、国会議員や大臣という仕事が、国の全体を配慮するというパブリックマインドを基にした仕事ではなく、親分の意向を受けて働く子分という、私益追求の仕事であると判断していることにならないだろうか。まあ、権力者というのが、そういう売国奴的な人間ばかりだという見識も一つの見識だろうが、あまり一般化出来る考えのようには思えない。

議員にならなければならない理由はいくつかコメントされていた。次のようなものだ。


「それでも選挙に出馬せざるを得なかったのは「バッジのない奴がいつまで大臣をやっているんだ」という党内からの当てこすりをかわすためでしょう。」
「竹中氏の場合、参議院議員となったのは、ある意味党内のバッシングに対して応える必要性があったことと、選挙における広告塔としての役割をも担わされた結果だった。」
「竹中さんは最初は政治家になるつもりなどなかったのでしょうが、あまりにも本質的でない批判が多かったので、閣僚の仕事を続けるには選挙に出ざるを得なかった」
「議員になるような空気を作った(有言でも無言でも)のは、現職の国会議員のセンセイ方の常識でしょ?」
「「小泉内閣下の経済政策をお願いしたい」
と竹中氏を登用した所、
「民間人の癖に出しゃばり過ぎる」
「選挙で民意の選択を経て無いのに」と
 自 民 党 内 から非難された為に
非難打破の為その気のない竹中氏を参院選に
立候補「させた」という経緯だったと思います。」


残念なことに、ここに書かれている種類のもの以外は見つからなかった。この理由は、要するに、文句を言うやつが多かったから仕方なく立候補したのだと言うことになる。つまり、大臣の仕事を遂行するために、ぜひとも議員になる必要があったとは積極的には言えないと言うことだ。本当に、これ以外の理由はないのだろうか。

たとえ文句を言われようとも、自分がやっていることが正しいのなら、文句を言う方が間違っていると批判出来るはずなのに、竹中さんはなぜそう言う方向を取らずに、議員に立候補するという道を選んだのだろうか。大臣をやっている間だけ議員になる必要があったというのは、論理的に理解するにはかなり無理があるように感じる。

この程度の理由で議員になったとしたら、それは公人としての見識がないことを示しているのではないだろうか。改めて、竹中さんが行った経済政策そのものも評価がどうなのかを考えなければならないのではないかと思う。竹中さんは、大臣としても優れた政策をやったのかどうか。考える材料を探したいと思う。
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by ksyuumei | 2006-09-23 12:52 | 論理


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