竹中大臣の議員辞職の直感的理解と論理的理解 その2

河野太郎衆議院議員の「ふざけるんじゃねえ」という文章では、竹中大臣の議員辞職について

・国会議員として選挙で選ばれたことと小泉総理に大臣として任命されたことには違いがある。
・6年の任期があることは最初から分かっていたのだから、任期を全うすべき。
・国会議員を辞することについて、小泉さんにそれを承認する権限はない。

ということを理由にそれを批判していた。これは論理的には整合性があるように感じる。一つ一つの主張は、事実においても間違いはないと思われるし、論理的な判断においても間違いはないと思われる。

竹中大臣を批判すると言うことの直感的理解としては、上のことを確認すればいいだろうと思う。だが、これをより論理的に深く理解しようとすれば、他の視点からもこの問題を捉えて、直感的理解の段階では「無視」していた視点を、「捨象」出来ると確認することで論理的理解の段階まで高める必要があるだろう。




直感的理解の段階では、その根拠となる論理は、自分にとって都合のいいものが選ばれる。他の可能性は、熟慮の上に捨てられたのではなく、考えの中に入ってこなかったので無視されているという状態だ。この場合に、たまたま無視した視点が、熟慮の末に捨てられたものと一致するなら、直感による判断が正しかったと言える。また、この捨象という判断が、熟慮を経ずに瞬間的に判断出来るように訓練されたとき、優れた直感のセンスを身につけたと言えるのではないかと思う。

論理的な訓練をした人間は、多様な視点を自分で思いつくことが出来るが、多くの人間がそのことについて様々な意見を提出しているときは、その視点を検討することが多様な視点を考えるのに都合がいいだろう。そこで、河野さんのブログのコメントの中で、河野さんに対する反対の意見を拾いながら、そこに見られる直感的理解の論理的根拠を検討してみたいと思う。そこに論理的な整合性がなければ、その視点は捨象していいものになるだろう。また、論理的な整合性があるのなら、反対の視点をどう総合して判断したらいいかという問題を考えなければならない。

まずは

「竹中さんは有能な方なので、単なる国会議員になるよりも、本来の能力を発揮できる場に送り出してあげた方がいいと思います。」

という視点を考察してみよう。この視点は「単なる国会議員」という言葉に見られるように、国会議員の仕事というものを軽く見る視点になるだろう。それは、竹中さんの有能さを表す他の仕事よりも低く見られる仕事になっている。これは、国会議員という仕事が公共性のあるものだという視点と対立する視点だ。

竹中さんの有能さを表す仕事が具体的には語られていないので、それがどういうものになるかは分からないが、国会議員をやめてこれから竹中さんが行うであろう仕事は公的なものではなく私的なものになると考えるのが妥当だろう。公的な仕事をするのであれば、わざわざ国会議員を辞める必然性を感じないからだ。

そうすると、この視点で考えると、公的な仕事よりも私的な仕事を優先してもいいという判断がここにあるように感じる。これは、選挙という過程を経て竹中さんを選んだ人々に対する裏切り行為ではないかと思う。この視点には論理的整合性を僕は感じない。

だが、「竹中さんの場合は特殊なケースとして認めてあげてもいいのでは」ということであれば、その特殊性が証明されれば論理としては整合性を持ちうる。しかし、このコメントではその証明には触れていない。つまり、この主張は、直感的理解の心情を述べただけのものであって、論理的な理解を語ったものではない。特殊なケースと言える根拠が見つかれば論理的な検討が出来るが、それが見つからない場合は捨象してもいい視点になるのではないだろうか。

「竹中さんの行動は理解できます。
べらんめえ口調の書き方に悪意を感じました。」

という視点はどうだろうか。これもなぜ理解出来るかという根拠が書かれていないので、この言葉だけでは直感的理解を語っただけとしか受け取れない。論理的な理解の対象にはならない。「悪意を感じました」という感想は、自らの感情を語ったものであり、これも論理的な検討の対象となるものではない。他のコメントでも、河野さんの書き方に反発したものが多かったが、これは河野さんの怒りの感情に対して反発したものだろう。感情に対して感情で応えることには理解が出来る。しかし、河野さんは論理的にも語っているのだから、論理的な理解をするためには、感情的な反応だけではなく、その論理に対してどのような論理を対置するかということを考えなければならないだろう。感情を対置した意見は、論理的な検討からは捨象してもいいもののように思われる。

「竹中さんとしては、「やむを得ず」立候補した事情がありますからね。。。」

これも、何がやむを得なかったことなのかが語られていないので、論理的な検討の対象にはならない。むしろ、このことが直感的な理解としては間違っていないのなら、論理的には批判につながってくるのではないかと思う。

やむを得ずということは、本当はやりたくなかったのだが仕方なく国会議員になったということになる。そのような人間が公的な仕事を全うしてくれると信じられるだろうか。それに、自分の都合で国会議員になるのだから、その都合が終了すればさっさとやめるのだというのが、最初から意図されていたとも想定されてしまう。

この判断は直感的なものだから間違えている可能性もあるが、それが正しいとしたら、かえってひどいことになるというのが論理的な理解になるのではないだろうか。なおこのコメントでは、最初に取り上げたものと同じように「自分本来がやるべき仕事をするために辞職した」ということを理解出来ると直感を述べている。しかし、この理解は、やはり公的な仕事よりも私的な仕事を優先させることに理解を示していることに、論理的にはなるのではないだろうか。

「いくら自分のHPとはいえそんな汚い言葉を平気で使うあなたには一国の総理は荷が重過ぎると感じました」

というコメントは、竹中大臣の辞職とは論理的には全く関係のない指摘である。竹中大臣の辞職を論理的に検討する際には、全く捨象してもかまわない意見だ。しかし、このような感情の吐露は、論理的には的はずれだが、感情的な共感を呼ぶ可能性はある。論理的な根拠のない直感的理解という側面では、典型的なものとして受け止めておくといいのではないかと思う。平たくいえば、本質的な面では反論が出来ないので、どこか文句をつけたいところを見つけたら、言葉の使い方にそれを見た、ということなのではないかと思う。

このコメントでは、

「それに竹中大臣が参議院議員になったのはあなたは違うかもしれませんが、「学者風情が・・・」と嫉妬だか恨みだか知りませんが陰に陽に攻め立てたからでしょう」

ということも語っているが、これは議員辞職に関する論理としてはやはり関係がないので捨象してもいいものになる。恨みや嫉妬に関して問題があるのなら、議員辞職と関係なく、その問題を語らなければ論理的ではないだろう。

「私は前回の参院選で竹中さんに投票した有権者ですが、今回の辞任に関して批判する気はまったくありません。ただ「お疲れ様」と労いたいです。」

という視点は、論理的には捨象してもいいものだと思うが、感情的にはこのように感じる日本人は多いのではないかと思う。一つの大きな仕事を成し遂げて、その仕事に一応のピリオドを打つめどがついたなら、その仕事から身を引くというのは論理的にはおかしくない。だから、大臣としての自分の仕事はこれで終わったというのであれば、大臣を辞することについては「お疲れ様」といって労をねぎらうのも理解出来るだろう。

しかし、議員としての仕事も同じだというのは、議員と大臣の違いをあまり深く考えていないのではないかという感じがする。この主張を論理的に理解するためには、議員辞職するという点において、「お疲れ様」と言えるような妥当性があることを論理的に説明しなければならないのではないかと思う。単に大変でしたねということでそれを承認してしまうと、苦労した仕事をしたら、その責任は内容的には問われないということになってしまう。これは論理的におかしいと思う。

河野さんの意見に反対する意見をいくつか見てきたが、それはいずれも論理的根拠が述べられていない。それは、論理的根拠のない、感情から生まれた直感的理解なのか、論理的根拠が見つかっていないだけのものなのか。自分の考えではないので、僕がそこに論理的根拠を見つけるのは困難だ。だが、河野さんが提出している論理的根拠に対しては、河野さんに反対するのなら、やはり論理を対置すべきだろうと思う。そういう意味では、論理を対置せず、直感的理解を述べただけの意見は、論理的理解の対象としては捨象してもいいもの、結果的には無視出来るものになるのではないかと思う。

まだコメントの全てを検討したわけではないので、反対意見の中に論理的な語り方をしているものがあるかも知れない。だから引き続きそれを見つける努力はしてみようと思う。
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by ksyuumei | 2006-09-22 09:18 | 論理


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