数学における初等幾何において、最初の証明といわれているのが二等辺三角形の二つの底角が等しいというものだ。これは三角形の合同を用いて証明する。二等辺三角形は、裏返しても同じものになるのでもとの三角形に重なる。これを合同というのだが、重なるので二つの底角は等しいと言うことが論理的に証明されると考えるわけだ。
これは、証明としてはごく簡単なものだが、なぜ証明が必要なのかと言うことを理解するのは難しい。両底角が等しいことなど、ちょっと正確に作図してしまえば、見て分かるじゃないかと感じるからだ。見て分かるというのは、直感的にそれが分かると言うことだが、直感的に分かるものをなぜわざわざ論理的に証明するかというのは、問題を難しくするだけで面倒だと感じるのではないだろうか。 なぜ証明が必要なのかということに対する一つの解答は、直感は間違えるときがあるからだと言うことだ。真理としての信頼性を高めるために証明をするということだ。これは実際に直感が間違えているときには有効な発想になる。例えば、地球が平らに見えるのは直感から来る理解だが、これは人間の視覚の範囲に対して地球があまりにも大きいために、それが球体であることが直感では見えないということが原因している。 そこで地球が球体であることを理解するには、直感に反して証明をしてそれを信じることになる。しかし、地球が球体であるという事実は、我々はすでに知っているので直感に反する証明を考えることが出来ると考えられる。ところがそれを知らなかった昔の人々は、どうして地球が平らでないこと・球体であることを証明しようという発想が生まれてきたのだろうか。それは論理だけでは生まれてこない発想であるように感じる。 実際には地球が球体であることもある種の直感から得られたもののようだ。一つは、月や太陽の観測などから、天体が球体であることを直感していただろうと思う。目に見える天体はみな球体なのに、地球だけが平らなのはどうしてだろうという疑問が直感として浮かんでくるのではないだろうか。 さらに月食などの際に、月が欠けたように見えるのは、地球の影が月に映っているのだという理解が出来る。そうすると、その影を見ると地球は球体ではないかと直感出来る。地上の景色を見ているだけなら、地球は平らであるという直感にとらわれてしまうだろうが、もっと大きな天体間の出来事を見ることによって、地球は球体かも知れないと言う直感が生まれてくる。 地球が平らであるか球体であるかというのは、相反する矛盾する直感である。このような直感のどちらが正しいのかということを考えるために証明というような考えが生まれてくるのではないだろうか。アリストテレスは、沖から陸地へ向かう船から山を見るときのことを語っていた。もし地球が平らであれば、山の姿が見えるだけの距離に来たとき、山の全体がいっぺんに見えるようになるはずだ。しかし、経験が教えるその姿は、まず頂上の方から先に見えてくるというものだった。 これは地球が球体であるという一つの証明になる。この証明は、直感として地球が球体かも知れないと言うものがあって初めて発想出来るものではないだろうか。そのような証明の意図がない限り、このようなことに注目する人はいないのではないだろうか。アリストテレスの話は板倉さんが紹介していたものだが、これは、沖の船から山を見るという設定が大事なことだ。陸地の方から船を見たときに、マストのてっぺんから見えると言うことはない。 それは、地球の大きさに比べると船の大きさがあまりにも小さすぎるので、実際には船の姿はいっぺんに全体が見えてくるのだ。だから、船を眺めているだけでは地球が球体であることを証明することは出来ない。山という大きな対象を見ることによって、その証明が得られるのであって、山を証明に利用すると言うことは、それを証明しようという発想を持たなければ生まれてこないだろう。 直感における矛盾が生じたときに証明をしようという動機が生まれて来るというのは、かなりありそうなことだと思う。証明が出来れば、どちらの直感が正しいのかが決定出来る。これは我々の日常生活でも多く現れる現象ではないかと思う。例えば小泉総理の「靖国参拝」問題にしても、直感的に、「戦争の犠牲者の追悼だ」という理解をすればそれに賛成することだろう。しかし、「日本が被害を与えた国に対する責任を無視するものだ」と直感すればそれに反対することになる。 どちらの直感が正しいかは単純な問題ではない。二等辺三角形の底角のように、誰が見てもそう見えるというものではないからだ。この問題は論理的な検討をして証明出来れば、どちらの直感が正しいかが分かる。この場合は、条件付きの命題としての証明になって、ある条件下ではどちらも正しいという証明になるかも知れないが。 直感において反対のものが出てきたときに、我々は証明の必要性を感じる。どちらが正しいかを確立したいと思うからだ。そういう問題を深く考えたいからこそ論理というものの重要性を感じる。それでは、誰もが直感的に正しいと考える単純な事柄にも証明をしようとする数学は、どのような動機で証明をしようとするのだろうか。 一つには哲学的な完全な知を求めるという動機が働いているのではないかと言うことを感じる。直感で99%正しいと感じても、残りの1%をも間違える可能性がないように完全なものにしようという動機で証明を考えると言うことがあるだろう。だから、このような完全性を求める必要がないところでは、証明という動機も生まれなかったのではないかと思う。 エジプトでは、3辺の長さが3:4:5の比率を持つ三角形は直角を作ることが知られていた。ピラミッドの建設などに利用されたらしい。これは経験的な事実であって証明はされなかった。しかし、これは建築などで利用される範囲で間違いを犯さなければ、直感的理解で十分だと思われるような知識だった。このようなところでは、自明に見える事実は証明の必要は出てこないだろう。 自明に見える事実に対しては証明の動機が生まれないと言うことは重要なことではないかと思う。本当は自明ではない事柄なのに、それが自明のように見えてしまうと、「世界はそういうものだ」という受け止め方をして、それ以上深く考えないようになってしまうのではないかと思う。 例えば天災としての災害は、人知の及ばない被害と言うことで、被害を受けた人々もあきらめることが多い。しかし、その被害は、よく考えてみれば政府の災害対策によって避けられる可能性があったと証明出来れば、運命としてあきらめるというのではなく、正しい対策をとらなかった政府の責任を追及するという方向に行くだろう。何を自明と捉えるかで人々の態度が変わってくる。 権力の側の政府としては、都合の悪い出来事はみんな自明な直感の下に捉えてもらいたいと思うだろう。しかし、それを直感的に理解するのではなく、本当にそうだろうかと疑ってみるという発想は、自然には他に対立する直感が出てこない限りは生まれてこない。その直感は、災害の場合で言えば、外国の場合などはちゃんと対策がされていて、同じような災害は被害を食い止められるというようなものを見たりすることだ。 他に相反する直感がないときでも、この直感を証明しようという意識が生まれると、その直感が本当に正しいのだろうかという疑問が生まれてくる。これは、証明というものがそもそもそういう疑問から生まれてきたと考えられるのだが、いったん証明という技術が確立すると、何でもまずは証明しようとすることで、逆に懐疑を生じさせるという反作用が生じる。これが学問の進歩をもたらしたのではないかと思う。 ある直感が、感覚的に自明のことであって証明の必要がないと思われても、あえてそれを証明しようと試みることで、全ての出来事に対する懐疑精神というものが生まれてくる。自明なものを証明しようとする動機は、そのような直感に対する懐疑というものとつながってくるのではないかと思う。 これは複雑化した現代社会を深く理解しようと思えば、そのような動機を持った方が確実に役に立つ。社会の出来事をあるがままに受け取ったのでは、その本質を理解することが出来なくなるだろう。どんな出来事でも、自分が関心を持ったものは、全て証明可能かどうかを考えることは、本当に確かなことは何かと言うことを教えてくれるだろう。 植草さんがゲストで出たマル激では、小泉政権の経済政策における、株価の回復について語っていた。小泉政権では、その初期の段階で株価の暴落が起こった。しかし、それがある時期に回復してまた元の水準近くに回復している。これは、暴落したのがやむを得ない偶然だったと直感すれば、回復は小泉政権の成果だと評価されることになる。この直感は、マスコミの宣伝などもあってかなり自明なことと受け取られているように感じる。そのために小泉政権の評価も高くなり、支持率も上がったと思われる。 しかし、この直感は果たして証明出来るものなのか。これと全く正反対の直感もあるのではないか。植草さんは、その反対の直感を、最初の株価の暴落は小泉政権の経済政策の失敗であると語っていた。そして、あとの株価の回復こそが、偶然から起こるものであって、小泉政権の成果ではないと語っていた。この直感は、マスコミの宣伝を見ている限りでは生まれてこない直感ではないだろうか。直感が証明可能かという論理をたどらないと生まれてこないのではないかと感じる。 植草さんは、自らの直感に対する証明を語りながら説明をしている。この証明がどのくらいの妥当性を持っているのかを考えてみたいと思う。小泉政権の経済政策は、果たしてどの程度成功したのか。それはどの程度評価出来るものなのか。植草さんだけでなく、経済的な評価をする人々の、それぞれの証明を論理的に検討してみたいものだと思う。直感の妥当性がどれほど論理的な整合性を持っているものかを見てみたい。
by ksyuumei
| 2006-09-19 09:24
| 論理
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