正義と真理とは重なるようなイメージがあるものの、それはまったく違うものだと僕は感じる。正義であることが必ずしも真理ではないし、真理を認識したからといって、そこから正義の行動が出てくるわけではない。むしろ正義と真理はしばしばその結論が対立する場合さえある。正義を主張したい事柄の真理性は証明されないことが多い。
何かが「正義である」という判断と「真理である」という判断は、その基準に違いがあると思う。僕の判断基準は、正義に対しては「利害関係」であり、真理に対しては「論理関係」というものになる。ある立場にとって利益になることは、その立場にとっては正義であるというのが僕の判断だ。 真理については仮言命題の論理的整合性がまずは必要条件になる。ある前提を立てたときに、その前提から導かれる結論の間に正当な論理関係があるということが必要条件だ。そして、その前提が現実存在との整合性を持っていることが確認出来たとき、その命題は真理としての資格を確認する。 利害関係というのは、当事者意識というものを強く持って、ある事柄から生まれてくる利害を強く感じる感受性を持たなければそれを判断することは出来ない。本来は損害であるはずなのに、それを損害と認識出来なければ利害関係の正しい判断は出来ない。僕は、当事者意識を持つのが苦手なので、正義の判断に対しては、どちらの立場の正義も理解出来てしまうので自分自身は正義の立場に立つことが出来ない。 反米主義のテロリストにとってニューヨークのビルを破壊するのは正義である。同じように、その報復として、たとえ民間人がいようともイラクにミサイルの雨を降らせるのはアメリカにとっては正義である。僕はどちらの正義も否定しないが、どちらも理解出来るからどちらの立場にも立つことが出来ない。こういう人間にとって関心があるのは、正義に関係のない真理は何かと言うことだけになる。 正義に関してこのようなイメージを持っている僕は、内田樹さんが『ためらいの倫理学』で語る「私は「正義の人」が嫌いである」という言葉に深く共感する。正義は、単に利害関係に絡む立場からの考えに過ぎないのに、「正義の人」はそれがあたかも普遍的な真理であるかのような語り方をする。そういう人間は僕も嫌いだ。真理と正義は違うという認識を持たなければならない。 内田さんはまず「怒り」について次のように語る。 「「正義の人」はすぐに怒る。「正義の人」の怒りは私憤ではなく、公憤であるから、歯止めがなく「正義の人」は起こる。」 私憤であればやりすぎたという反省をすることが出来るが、正義の怒りは必ず行き過ぎる。板倉聖宣さんは、「戦争は正義から始まる」と言っているが、正義から始まることの怖さは、それに歯止めがきかないと言うことだろう。板倉さんは、「いじめも正義から生まれる」と言っているが、これもいじめに歯止めがきかないことの原因となっているだろう。 僕は正義の立場に立てないので、公憤がわいてこない。怒りよりも理解の方を欲してしまう。そういう人間は、運動には向いていないなとつくづく感じる。「批判」について語る次の内田さんの言葉は、「怒り」についてのもの以上に共感するものである。 「「正義の人」は他人の批判を受け入れない。「正義の人」を批判すると言うことは、直ちに、「批判者」が無知であり、場合によっては邪悪であることの証である。」 批判を受け入れない「正義の人」として、具体的に僕にイメージされてくるのは「差別糾弾主義者」たちだ。これは、人間の中にある「差別性」を暴き出して、その反省を強く迫る人間たちだ。差別が不当なものであることはよく分かる。しかし、それは社会で生活している人間には誰にでも見つけられるものである。だから、糾弾しようと思えば誰でも糾弾出来る種類の対象だ。 だからそれはしばしば行きすぎるので「行き過ぎだ」という批判をしたくなる。本当に深刻な不当性のある差別は糾弾しなければならないだろうが、すぐに訂正出来る程度の無知から来る差別は、糾弾するよりもむしろ教育の方が大事なのではないかと思う。しかし、「正義の人」はそのような批判は受け入れない。たいていは、その深刻さを理解しない批判者が逆に批判される。ひどいときには、批判者が邪悪な差別者にされてしまう。 このときに、差別糾弾主義者の中にある差別性を見つけて、おまえにも差別性があるのだからという批判をして、その論理の有効性を疑うという戦略は残念なことにあまり効果はない。それは、差別性は糾弾されるべきだという前提を認めることにもなりかねないので、それが行き過ぎだという批判につながりにくいからだ。 「正義の人」とはなかなか議論が成立しにくい。こちらはその前提に疑問を持っているのだが、「正義の人」にとっての正義の前提は、それなしには思考が出来ないほどの絶対性を持っているからだ。それを物語るのが、次の内田さんの言葉だろう。 「「正義の人」はまた「世の中のからくりの全てを知っている人」でもある。「正義の人」に理解出来ないことはない。」 このような「正義の人」は、「論理の人」の正反対の特徴を持っているのではないかと思う。論理的に考えた世界は、論理的に深く考えれば考えるほど単純性が消滅して複雑な様相を見せてくる。つまり簡単に判断出来ることがなくなってくる。論理的には、世の中の現象というものは「わからない」と言うことが基本であり、どこからがわからないかを明らかにすることによって、ここまでがようやく分かっているのだと確認出来る。 しかし「正義の人」にとっては、世界は明確に正義の面を見せているようにしか見えない。その正義が実現されないのは、それが理解出来ないからである。「論理の人」は、正義が実現されないことに、現実的な根拠を見て、実現されないことにも論理的な整合性があるという理解をする。しかし、「正義の人」にとって正義が実現されないことは全て不合理であり、間違いを正すことで正義は実現されると考えているように見える。 「正義の人」は運動する人にはふさわしい人になるのではないかと思う。その決断力と、毅然とした態度は大衆を惹きつける魅力となるのではないかと思う。しかし、優れた運動の資質を持っている人は、しばしば狂信的なカルト宗教の教祖となる資質も持っているように見える。「正義の人」は、一歩間違えれば社会的には害悪をもたらす危険性を持っている。 僕は、「正義の人」よりも「論理の人」が多い世の中だったらいいのにと思う。「論理の人」は、物事の解決には時間がかかる。いろいろな要素を考えたくなるからだ。しかし、「正義の人」のように、これが正しいという、物事を早く正しい方向に進めようというような性急性がない分、極端にひどいことは起きないと思う。「正義の人」が多数を占めれば、多数の立場での正義の実現を急ぐあまり、きっとひどいことが起こるだろうと思う。 内田さんは、「正義の人」の具体例としてマルクス主義者とフェミニストを挙げている。両方ともにイズムという「主義」を信奉する人々と言うことで一致している。この正義の人々は、反対の側の立場にいる人たちの無知蒙昧について指摘をする。これは、その立場からは見えない事実があるのだという主張に関する限りでは論理的に正しい。視点が違えば見えるものが違ってくるのだから、世界の判断において違うものが出てくる。だから、見えていないものによって間違えているという指摘は論理的に正しいだろう。 ブルジョアジーの立場にいる人間が、プロレタリアートの立場がわからずに間違えるのも、男が女の立場がわからずに間違えるのも、事実としてそこら中にたくさんあることだろう。差別される側の立場がわからずに、無意識の差別をしている間違いもたくさんあることだろう。立場の違いから誤謬が生まれるという指摘は正しい。 だが、これが論理的に正しいのだったら、「正義の人」の立場にも同じようにこの論理が適用されなければならないだろう。「正義の人」は、反対の立場を知らないのだから、反対の立場から見たら正しいかも知れないことを間違っている可能性もあるはずだ。しかし、「正義の人」は自分たちの間違いを認めない。 内田さんは、マルクスがなぜ正しい思考が出来たのかを知りたくてマルクス主義の文献を読んだそうだが、それはどこにも書いていなかったらしい。最後に発見したのは、マルクスが時代を超えた思考が出来たのは、マルクスが天才だったからだというエンゲルスの言葉だったらしい。つまり、なぜマルクスが正しい思考が出来たのかと言うことは誰も証明出来なかったということだ。 そこで内田さんは、マルクスから疑わなければならないと感じたそうだが、それは内田さんがプチブル的であることの証拠だと言われてしまったそうだ。マルクス主義者にとっては、マルクスの正しさは正義であって疑ってはいけないことだったのである。そういわれたとき、内田さんはマルクス主義に別れを告げたらしい。その判断は正しかったと思う。 僕の尊敬する三浦つとむさんは『レーニンから疑え』という本を書いたが、マルクスまでは疑えなかったと板倉さんは批判していた。三浦さんのように優れた人であってもマルクスを疑うことは難しかったようだ。それが「主義」というものの怖さなのだろうと思う。内田さんは「正義」に毒されなかったので、「主義」にも毒されなかったのだろうと思う。 マルクス主義は、反対の立場を批判する際には有効な武器になったが、反対の側が批判出来るからといって、自分の立場からの主張が正しいとは限らない。正しいかどうかという真理性は、正義の問題ではなく論理の問題だからだ。それを、マルクス主義だから正しいと短絡的に考えるなら、これは論理的な間違いになる。 「正義の人」が、自分たちに正義があるがゆえにそれは真理という意味でも正しいと思い込むのは、論理的な間違いである。この内田さんの指摘は、「マルクス主義」「フェミニズム」「差別糾弾主義」という様々な「主義」を批判するときに有効な方向性を提供してくれるのではないかと思う。これらの「主義」を抽象的に批判出来るかどうかに迷っていたが、内田さんの視点にはその有効性があるのではないかと感じた。
by ksyuumei
| 2006-09-16 10:58
| 論理
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