内田樹さんが『私家版・ユダヤ文化論』で語っていた、反ユダヤ主義者の善意というのは考えさせられることの多い大切な事柄のように見える。その善意は、内田さんが指摘するように、私利私欲を離れたある種の敬意を感じるようなものになっている。この問題の難しさは、だからといって、善意があるから彼らの主張を受け入れるという論理にはならない点だ。
主張を受け入れるには、あくまでもその論理に正しさがなければならない。しかし、多くの人はしばしば論理の正しさよりも、それを主張する人の善意という倫理的な正しさの方を重く見る。論理的に正しい冷たい感情の持ち主より、たとえ論理的には間違っていようとも熱い熱情を持った人の方が大衆的な支持を得る。ひどいときには、正しい論理を提出する人間が、その冷静さゆえに反感を抱かれることもある。 バックラッシュ言説の中心にいるような人物は、現状認識において事実の取り違いをしていたり、論理展開において結果ありきというような強引な論理があったりすることが多い。それは、第三者的に冷静に眺めればよく見えてくることだ。しかしそれでもなお、それらの人々が多くの支持を集めているとしたら、その原因がどこにあるかを突き止めるのは価値があることだろう。 バックラッシュ言説を語る人間は、反対の側にいると、極めて反動的でひどい人間に見えてくるので嫌悪感が先に立ってしまうだろう。自分が嫌悪感を感じている人間に対して、どこに魅力があるかを探るかは難しい。しかし大衆的支持を得ていると言うことは、そこに魅力が存在することは否定出来ない事実ではないかと思う。 僕は天皇という存在に対してある種の拒否感を抱いていた。それは、左翼的な戦争責任論の観念から来るもので、中国で残虐な行為をした戦争を開始した責任がある人物に対して、漠然とした嫌悪感を抱いていたのだろうと思う。だがその天皇の代がかわり、現在の天皇に対して第三者的に眺められるようになると、その発言に、平和や民主主義に対する深い理解を感じるものが多々あった。学校での君が代や日の丸に関して「強制でない方が望ましい」というようなことを語れると言うことにそれを感じた。 今では今上天皇に対しては尊敬感さえ抱くような気持ちになった。そういう気持ちの変化で昭和天皇を振り返ると、昭和天皇自身は平和主義者であったというのを信じたくなる気持ちも生まれてくる。そして、昭和天皇の人間的な魅力がどこにあったかというのを受け入れられそうな感じもしてくる。宮台氏は個人的に昭和天皇をリスペクトする感情を持っていると言うが、それも理解出来そうな感じがしてくる。 反ユダヤ主義者の善意に魅力があるということがわかると、その人間的な魅力と論理的な正しさをどう区別するかという問題を考えることが出来るようになる。この区別が難しいところに、不当な差別や偏見が、論理的には間違っているにもかかわらず人々の間に蔓延するという、現実の存在の根拠があるのではないかと思う。 内田さんがここで紹介している反ユダヤ主義者は二人いるが、まずエドゥアール・ドリュモンという人物について考えてみよう。この人物が語った反ユダヤ主義言説は陰謀論そのものである。当時のフランスの民衆が苦しみを背負っているのは、全てユダヤ人が、自らの繁栄のためにフランス人民を犠牲にしているという、ユダヤ人が陰謀を巡らせていることが原因だとするものだ。 これは論理的には「ペニー・ガム法」という推論に基づくものだと内田さんは指摘している。これは、ガムの自動販売機で、ペニー硬貨を入れるとガムが出てくる現象を見て、ガムが出てくる原因はペニーだとする推論だ。これは、本来は、ペニーを入れたことが、様々な過程を経て最終的にガムが出てくることにつながる。だから、その過程を細かく見ていかなければ、最初と最後だけを直結して短絡的に推論すれば、解釈において間違える。ペニー硬貨が途中で姿を変えてガムになるのではないが、そのように受け取りかねない。 陰謀論における「ペニー・ガム法」は、現在の状況で誰がもっとも利益を受けているかという結果から、利益を受けている人間が利益のために不当なことをしていると原因を短絡的に直結する考え方だ。当時のフランスにおいて、もっとも利益を得ているのはユダヤ人だから、そのユダヤ人の陰謀でフランスの民衆はひどく搾り取られているのだと考えることが陰謀論になるだろうか。 「ペニー・ガム法」が間違った推論であることは、「風が吹けば桶屋が儲かる」ということわざの非論理性と同じものであることを内田さんは語っている。たまたま風が吹いたときに桶屋が儲かったとしても、儲かった桶屋が風を起こしたのではない。風が起こったのは偶然のことであって、それが結果的に儲けをもたらしたのであって、風が吹けば必ず桶屋が儲かるのではない。 もし、必ず結果がそうなると見通せるだけの能力を持った人間が、原因を作り得るだけの権力を持っていたら、それは陰謀論に値するものが見出せるだろう。しかし、そのような条件がないときに陰謀論を持ち出せば、それは強引すぎる論理になる。ドリュモンの陰謀論は間違いだったのだが、それはなぜ多くの人に支持される魅力があったのだろうか。 一つの要素は、当時のフランスの大衆が、自分たちが苦しんでいるという不満の中にあり、しかもその不満の原因がどこにあるかわからないという不安の中にもいたということがあげられるだろう。この不安を代弁し、その原因を指し示すことが出来たという点で、多くの人が感情的に納得するロジックとしてそれが出てきたと考えられる。 しかしこれは事後的に確認出来ることであって、ドリュモンがその反ユダヤ主義の言説を書いた本を出版しようとしたときは、それが大衆に受け入れられるかどうかはわからなかったようだ。内田さんは、「売れそうもなかったので、初版の出版費用の一部を自費負担することを出版社は求めたのである」と書いている。問題は、この言説が、多くの人々が自分が感じていたことだと受け止められる素地はどこにあったのかということだ。 それこそがドリュモンの善意に求められるのではないかと僕は感じる。ドリュモンは、この本を売って金儲けをしようとしたのではない。むしろ出版の費用を自分で出さなければならないような状況だった。損をしてでも人々に真実を伝えなければならないという善意がここには感じられる。しかも、ドリュモンは、ただいいかげんに思いつきで文章を書いたのではなかった。内田さんは次のように書いている。 「エドゥアール・ドリュモンは硬骨のジャーナリストで、はじめ『自由』紙によって第三共和制のブルジョワ政治家たちに仮借ない筆誅を加えていた。そして、あまりにも政治家たちの出来が悪く、あまりにビジネスマンたちのやり方が不道徳なので(実際、第三共和政期というのは、パナマ事件を始めとする疑獄事件が続発したフランス史でもまれな「モラル・ハザードの時代」であった)、これは個人の水準の問題ではなく、システムそのものが腐敗を生み出す構造になっているからだと推論するに至った(この推論は間違っていない)。そして、この構造的破綻の多様な形態(ブルジョワの腐敗、王党派の惰弱、軍人の弛緩、労働階級の未成熟)の全ては単一の有責者による陰謀のせいだと考えた(この推論は間違っている)。 ドリュモンはその「単一の有責者」を探り当てるべく、様々な出版物を読み、街のうわさ話を収拾し始めた。彼が精査したデータの中には、おそらくバリュエルの書物や、先駆的な反ユダヤ主義者であったアルフォンス・トゥースネルの『ユダヤ人、時代の王』やアンリ=ロジェ・グージュノデ・ムーソーの『ユダヤ人、ユダヤ教及びキリスト教国民のユダヤ化』などの書物が含まれていたと思われる。それらの先駆的研究を通読した後、ドリュモンは「社会が腐敗堕落するのはその事実から受益している単一の張本人の陰謀によるものである」という手荒な陰謀史観に近代的なファクターを一つだけ付け加えた(そのせいで、彼の著書は膨大なページ数になってしまったのだが)。それは、特定の受益者がいくつかの事例において繰り返し現れる場合、その受益者は全ての出来事から受益していると推論出来るというものである。」 ドリュモンは公正な人間であり勤勉で、ただ一つの推論を除けば、正しい論理を展開する人間だった。高い能力と、高い倫理観を持っている人間が善意を持っていないはずはない。しかも、内田さんが指摘する推論の間違いも、「帰納法的推論」の間違いではあるものの、この当時はそれがまだ解明されていなかった時代だったので、ドリュモン自身の善意を少しも損なうものではなかった。 ドリュモンは『ユダヤ的フランス』という大著を書いたが、これを内田さんは「週刊誌的スキャンダルの列挙であり」と語っている。内容的にはあまり見るべきものは無いと言うことだ。しかし、それを記述する人物の善意が感じられるものであると、それは本当のことのように感じられてしまうだろう。自分のかわりに、難しい問題に解答してくれたものと大衆は受け取るかも知れない。しかも週刊誌的な記述なら、分かりやすく受け入れやすいとも言えるかも知れない。 しかし、ドリュモンのような、高い能力と高い倫理観を持ち、あらゆることを調べて書物を書くような人間が、何故に論理的にはひどいと思えるようなことを書いてしまうのだろうか。いくら時代的な制約があるとはいえ、善意の感情のロジックだけでは理解しがたいものがある。 その解答として内田さんは、「ドリュモンが恐れ、嫌悪をしていたのは、ユダヤ人ではなく、近代化=都市化の趨勢そのものであった」と書いている。これこそが、たとえ強引な論理であろうとも、ドリュモンに陰謀論を展開させた根源的な原因なのではないかと思われる。 近代化は、時代そのものが変化することを指す。それは、その時代にとどまる限りでは分析・批判が出来ないものになるだろう。その時代にとどまって、なおそれを批判したいときは、強引な論理展開になり、陰謀論的な誰かのせいにするという発想が生まれてくるのかも知れない。 内田さんの指摘が正しいと思われるのは、大衆の多くも時代の変化に不安と危機感を抱いていただろうと思うからだ。大衆は時代の変化が自分たちに利益をもたらすのか損害をもたらすのかが正しくはつかめないだろう。情報から隔離されているからだ。古い権益を守ろうとする人々は、時代の変化が悪いものであるかのように宣伝もするだろう。 その時、ちょうどその不安をぶつける対象が存在していれば、不安な大衆はそれに飛びつくという感情のロジックが働くだろう。これはドリュモンの時代で終わったのではなく、現代日本のバックラッシュ現象でも見られているのではないかと思う。善意の人間が、根源的な不安を具体化する対象を見つけて、その対象に全ての原因を持っていくとき、不当な差別や偏見というバックラッシュ現象が拡大されていくのではないだろうか。 ドリュモンのことを読んでいて、僕には、反フェミニズムを掲げる善意の人である林道義さんのことが浮かんできた。林さんはドリュモンと多くの点で重なってくるような感じがする。フェミニズムを攻撃するその陰謀論は間違いであると思われる。しかし、林さんの善意は疑えない感じがする。その善意を深く分析しないと、単に陰謀論の間違いを論理的に指摘するだけでは、林さんに共感している人たちは説得されないのではないかと思う。小林よしのり氏に対する若者の共感というものも、小林氏の善意を考えに入れなければならないのではないかとも感じる。改めて考えてみたい問題だと思う。
by ksyuumei
| 2006-09-14 10:01
| 雑文
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