発想法としての弁証法と真理の判断としての形式論理学

「小泉純一郎氏は日本国総理大臣である」という命題は正しい(真)だろうか。何をそんな当たり前のことを聞くのか、といぶかしく思う人がいるかもしれないが、この命題が明らかに正しい(真)と思う人は、その正しさはいつまでも続くだろうか、という問いに直して、この問題を考えてもらいたいと思う。

正しい(真)命題がいつまでも正しい(真)かどうかで、実はそれは形式論理の範囲で考えているのか、弁証法論理の範囲で考えているのかが決まってくる。形式論理の範囲で正しい(真)と認めた命題は、それはいつまでも正しい(真)命題として存在させなければならない。正しい(真)命題が、どこかで間違った(偽)命題になってはいけないのである。それが形式論理的思考だ。

それが弁証法論理では、正しい(真)命題が、いつの間にか間違った(偽)命題になることがある。弁証法論理では、常に対立を背負った矛盾が問題になる。だからどの命題においても、正しい(真)と同時に間違っている(偽)と考えなければならなくなる。それはどうしてだろう。




弁証法論理というのは、現実を対象とした考察で常に使われる論理だ。それは、現実の考察をしているので、その現実をどこから見ているかという視点が常に問題になる。違う視点から対象を眺めると、まったく違う面を見ることも出来る。それが真が偽になるきっかけを与える。

「小泉純一郎氏は日本国総理大臣である」という命題についても、弁証法論理では、それをどのような視点で語っているかを問題にする。これが正しくなるのは、もちろん現時点での日本での話という視点でのことである。これを視点を変える、つまり条件を変えて眺めると、この命題が偽になる可能性が見えてくる。

小泉さんは5年ほど前に総理大臣になったのだが、それ以前の時点でこの命題を考えれば、この命題は間違いだと言うことになる。また、これから行われる総理大臣指名選挙で新たな総理大臣が選ばれれば、その時点でもこの命題は間違いということになる。時間という視点で考えた場合にこの命題は間違いになる可能性を持っている。このように考えるのが弁証法的論理だと言えるだろう。

また時間的な問題の他にも、条件を変えればこの命題は偽になる可能性を持っている。「小泉純一郎」という名前の日本人が他に一人もいなければ、この名前で呼ばれる人物は、今の時点では総理大臣である小泉氏ただ一人になる。しかし、どこかに同姓同名の人物がいた場合は、その人物に関する言明として「小泉純一郎氏は日本国総理大臣である」という命題は偽になる。空間的な条件が違うと、またこの命題は偽になる可能性を持っている。

さらに、フィクションの世界という、時間・空間が別の世界の要素を考えれば、その世界では「小泉純一郎氏は日本国総理大臣である」と言うことを否定することも出来るだろう。フィクションの世界というのはそういうものだ。

弁証法論理の世界では、このように一つの命題はいくらでも真にも偽にもなりうる可能性を持っている。それは、どこに視点を設定するかという問題に関わっている。このとき、ある視点を固定して、他の視点を全て排除してしまえば、それは形式論理の範囲の考察に入ったことを意味する。数学が形式論理的だと言われるのは、数学の視点がただ一つであり、他の視点を全て排除して捨象しているからである。

数学で自然数を扱うときは、誰が考えても同じ視点で同じ対象を見ているのでなければならない。そうでなければ、数学が主張する真理が、視点を変えたときに真理でなくなってしまい、数学の持っている信頼性が損なわれるからだ。

「1+1=2」という足し算の命題が数学的に真であるというのは、誰が計算しても、この答以外には出せないという視点が固定されているからである。もし、視点を固定させずにこの計算を考えれば、様々な視点から、様々な答が生じてくる。

・1+1=0 …… 仲の悪い動物を一緒にしたら、ケンカをして2匹ともどこかへ行ってしまった。

・1+1=1 …… 一方の動物がもう一方の動物の餌になっていたので、食われたあとに一匹だけ残った。

・1+1=3 …… つがいの動物がいて、そこに子供が一匹生まれたので、合計して3匹になった。

足し算の計算を、何かを合わせて合計するという過程の結果起こるものと解釈すると、現実のいくつかの解釈に対して上のような計算が答として出てくる。この答は数学的には全て間違っている。数学では、上のような条件を全て排除して、そこに存在しているという条件以外は捨象してしまった対象に対して、その存在を合わせた結果がどうなるかを考えているからだ。

存在以外を捨象しているので、それが仲が悪いとか、動きがあるとか、子供を産む能力があるなどという属性は、全て足し算の計算においては想定しない事柄になる。数学は、ある固定された条件のみで考察を進めるので形式論理的になる。固定された条件以外は全てを無視して考察する。

だから、現実の対象を数学的に扱うことは出来ない。数学を現実に応用するのは、現実の一面を固定化して見たときに、他の面での誤差が小さいと判断されるときだけである。現実の対象を扱うときは、その対象を一面からだけ見るのではなく、横から見たり下から見たり、あるいは分解して中から見たりという、可能な限りあらゆる視点を想定しなければならない。

そうすると、ある視点からはこう見えたけれど、他の視点からは全く別のように見えると言うことが起こるのが現実の対象だ。ここに、現実の対象は、弁証法的に考察しなければ間違えると言うことが起きてくる。現実の対象は、無限に多様な条件を持っている。

だから、原理的に考えれば、現実の対象は、断定的に判断を下すことは不可能だということになる。いつでも、まだ発見されていない視点がある可能性をはらんでおり、その視点は、今までの判断を覆す可能性をまた持っているからである。哲学が、徹底的に対象を考察すれば、その対象は最終的には「わからない」としか言えなくなる。

全てを徹底的に考えれば、それは不可知論にならざるを得ない。全ては不確かであり、人間には真理は知られ得ないのだと言うことになる。華厳の滝に飛び込んだ明治の藤村少年のような絶望を味わうことになるわけだ。この絶望から逃れるには、どこかで徹底的に考えることをやめて、形式論理的な考察に切り替えなければならないだろう。形式論理的な考察なら、それは正しいか正しくないか、断定的な判断を下せるからだ。

これは、そのバランスをとるのが大変難しいだろうと思う。考察の条件を、どこまで固定化することが、現実の世界に対しても妥当性を持つかを考えるのは難しい。形式論理としての展開が、論理として正しくても、条件の固定化ということで妥当性を欠くならば、その結論が論理的には正しいにもかかわらず現実には少しも有効性がないと言うことになりかねない。

現実に対して有効性がない場合には、条件の固定化を間違えているのだが、この判断も難しいものがある。形式論理の展開そのものを間違えたという可能性もあるからだ。形式論理の展開も、かなり複雑なものになると、日常言語で展開することにはかなりの無理が出てくる。複雑怪奇な形式論理の展開は、記号論理の助けを借りなければとても出来ないのではないかと思う。

現実の条件の固定と、形式論理の展開と両方が正しければ、そこからの帰結は正しいものと受け止めることが出来る。それは、現実とよく一致するような解釈になるだろう。もし現実と帰結とが一致しなかった場合は、解釈が難しくなる。その不一致の原因は複数考えられるからだ。条件の固定化を間違えたのか、形式論理の展開を間違えたのか。あるいは、帰結は正しいのだが、その現実の解釈を間違えているという可能性もある。

難しい対象を考察しているときは、おそらく数々の間違いを犯すだろう。その時に、その間違いをどう評価するかというのはまた難しい。その時に、大きな的はずれにならないようにするには、弁証法論理を発想法として利用することがいいのではないかと思う。それが真理を表しているという勘違いをしない方がいいのではないかと思う。

弁証法論理は、多様な視点を全て考え抜くことになるので、対象を深く捉えることになる。しかし、いくら深く捉えても、それで全ての多様な面を捉えたと言うことは、原理的に出来ない。だから、常に結論をひっくり返される恐れがあるという考えで考察を捉えることが大切なのではないかと思う。

正しいかどうかを断定出来るのは形式論理だけである。つまり、ある条件の下での狭い範囲での命題のみが断定的に語ることの出来るものである。そういう基本的な考え方が僕の中にあるので、あまりにも広範囲に渡る事柄で断定的に語る言明には、直感的にうさんくささを感じる。

「進化論」に対して疑問が払拭されないのは、それが「進化」という広範囲の現象に対して断定的に語っていることに原因がある。ある現象が「進化」と呼べるかどうかは、視点に寄るだろうと思われるのに、時間の経過さえあれば全てが「進化」と呼ばれてしまうような感じが「進化論」にはあるように感じる。

「フェミニズム」に対する疑問も、現実の条件というのは数限りなくあるはずなのに、ある種の現象は、全て「男の優位性」と言うことに結びつけられてしまい、この条件を固定化することに大いなる疑問を感じてしまう。

そんなものは、本当の「進化論」ではないし、本当の「フェミニズム」ではないという反論があるかもしれないと思ったので、両者にわざわざカッコ(「」)をつけておいた。何が本物かという論争は不毛なのでやりたくないと思うからだ。

問題は、弁証法的な発想を、発想という不安定なものとして受け止めないで、形式論理的に固定化することに、何か考察の展開として間違ったものを感じると言うことだ。現実を対象にした主張には、おそらくそのようなものが多いのではないかと思う。具体的に考察出来そうな例を探して、具体的な論理を展開してみたいと思う。
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by ksyuumei | 2006-09-09 12:56 | 論理


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