『大衆運動』(エリック・ホッファー・著、紀伊國屋書店)

大衆運動というものは、僕にとっては憧れでもあり、失望と反発を感じるものでもあった。初めてメーデーに参加したときの、大勢の人の連帯のエネルギーに高揚した気分は、それ以上の感動を味わうことが難しいと思ったくらいだ。自分がこの人たちの一員であると言うことを感じたときの喜びは、他の何ものにも代え難いと思ったものだ。

だが小さな活動の中では多くの失望を味わった。組合活動の中では、自分は一つの部品に過ぎないという思いを味わうことが多く、これでは組合にいるのも、資本に搾取される労働者でいるのも変わりはないんじゃないかという感じがしたものだ。組合は、なぜもっと大きな連帯感を感じさせてくれるような活動をさせてくれないんだろうかと思った。誰がやってもいい活動を、たまたま僕がそこにいたからやっているというような活動しかなかったように感じていた。

僕はいまでも組合員ではいるけれど、それは組合の活動に賛同して残っているのではない。組合という大組織にはあまり期待するところはない。大組織であるから、個人の利益を守っているという抽象論的な理解はしている。しかし、それは、どちらかというと個人的な利益という私益に関わる部分で組合の影響力が大きいと感じているようなものだ。公益のために働いているという喜びは、残念ながら今の組合活動には感じられない。



もちろん、平和のための活動や、直接我々の組合に関わることではない活動のための署名などが回ってくる。これは公益のために働くことになるはずなのであるが、それは機械的に習慣だから回って来るという感じで、そのことが我々の活動とも深い関わりがあるという意識を育てるような活動は見あたらない。それは、最初からそのことに関心を持っている人が、個人的に高い意識を持って活動するに過ぎない形になっている。そこに連帯意識を育てようという有効な働きかけを感じないのだ。

大衆運動的なものは、組合活動の他に、障害者教育運動や夜間中学校運動に関わってきたが、ここでも失望や反発を感じるものがあった。その活動に初めて飛び込んだときは、新鮮さから来る感動があるので、活動の意欲も高いものがある。しかし、少し長く関わってくると、その最初の感動が衰えてきて、新たな活動のためのエネルギーを絞り出すことがかなり難しくなってくる。

ところが、何か深刻な問題が持ち上がると、それまでの停滞した活動が嘘のように、大きなエネルギーで活動が広がるときがある。このとき、僕はなぜかその流れに乗り遅れることが多かった。そこにあるのは、何か高い志というよりも、単に熱に浮かされたような感情の流れがあるだけのような気がして、その熱に感染しないと自分だけが取り残されているような感じを受けた。

僕がこの熱に感染しなかったのは、大衆運動というものが、そのような一時的な感情の高ぶりで行われていいのかという疑問があったからだ。論理に拘る人間としては、感情的な高ぶりよりも、正しい論理だからこそ動くのだという意識をしたかった。

しかしエリック・ホッファーの『大衆運動』という本を見ると、この熱狂的な感情による活動こそが「大衆運動」の本質だと語っているような気がする。いや、このような熱狂的な動きという視点から「大衆運動」を分析しようとしているのがエリック・ホッファーだと言えようか。

それは、大衆の動きというもののメカニズムを解明しようとする醒めた視点だ。活動の正しさを論理的に考察するというのは、客観的な思考をしているように見えるが、その背後には、正しい論理が世の中で実現して欲しいという、論理に対する信頼と願いという自分の気持ちが込められているように思う。ある意味では主観を投影しているという、理想の実現を願うところがある。

しかし、現実には、個人の願いにもかかわらず、多くの人は論理的な正しさよりも、感情のロジックで雪崩のように一つの流れを作るということがある。それを外から眺めて、自分はその感情に流されず、人々が感情に流される事象の法則性を、一段高いところから眺めているのがエリック・ホッファーであるような感じがする。ホッファーは、大衆運動が感情に流されるのを良しとしているわけではない。だが、現実には感情に流される面があるからこそ、その面を正しく認識しようと考察しているように感じる。そのような視点を知ることは、自分の活動を反省するときにも役に立つのではないだろうか。

ホッファーは、大衆運動の例として、宗教運動・社会革命・民族運動などを挙げている。そして、それらが全く同じだとは言わないが、類似点があるという指摘をしている。ホッファーは、


「運動は全て、それらに家族的類似を与える一定の本質的な特徴を共有していると主張するのである。」


と語っている。「家族的類似」というのはどういうことだろう。家父長である父親が、もっとも知識や能力がある人間として家族を指導するような、パターナリズム的な面で類似していると言うことだろうか。これは、宗教運動に著しい現れが見られるのではないかと思う。宗教は気の迷いであると思っている人は、市民運動的な、ある意味では科学的な基礎を持っていると思われる運動に携わっていると、そこに宗教的な狂信があると指摘されるのは嫌な感じがするかも知れない。しかし、活動の内容や方向を十分に理解したのではなく、指導者に対する信頼感から活動を押し進めているとしたら、それは宗教的な活動とあまり変わらないような気もする。

指導者に対する信頼からの活動が、「家族的類似」と呼ばれるものの内容になるだろうか。このあとにホッファーは、さらに衝撃的な内容の言明を語っている。


「あらゆる大衆運動は、その支持者の内部に死の覚悟と統一行動への傾向を生み出す。あらゆる運動は、どのような主義を説こうと、どのような綱領を打ち出そうと、狂信、熱狂、熱烈な希望、憎悪、そして不寛容を育てる。運動は全て生活の一定の分野における活動の力強い流れを放出することが可能である。そして運動は全て、盲目的な信仰と一筋の忠誠を要求するのである。
 あらゆる運動は、異なった主義と熱望とを持っているのにもかかわらず、その初期の支持者を同じ類型の人間から引き出してくる。運動は全て、同じ類型の心の持ち主の興味をひくのである。」


運動から生じる連帯感は大きなインパクトを持ち、感動によって我々に働きかける。それは、最初は何らかの理解を基にしていても、そのうちに「狂信」に近いものに育つ可能性がある。そして、「狂信」に育った連帯感の方が、運動的には大きな力になるというのが皮肉だ。この大きな力は運動の勝利につながるだけに、とてもいいもののように感じてしまうことがある。

しかしホッファーが指摘するように、大きく育った運動には、「憎悪」と「不寛容」というマイナスの要素も見つけることが出来る。これは、反対者に対する「憎悪」が大きくなるという指摘ではないかと思う。そして「不寛容」に関しては、反対者に対するものもあるが、むしろ内部の異端に対する「不寛容」の方が問題としては大きいと思われる。

内部の異端は、直接的な反対者ではないが、全面的な賛成者ではないという点で、指導者のカリスマ性を貶めることになるだろう。場合によっては、この不寛容は、反対者に対する「憎悪」よりも強い「憎悪」を、内部の異端者に感じるものだ。大衆運動の間違いが末期的な症状を呈してきたときに、内部の異端者に対して残酷で非人間的な扱いをしたことがしばしば暴露されている。ホッファーの指摘では、これは大衆運動に本質的につながっている欠点であると語っているように感じる。

「運動は全て、盲目的な信仰と一筋の忠誠を要求する」という言葉も僕には気になるものだ。僕は、出来れば全ての判断において、自分の頭で考えて、自分で納得した上で選択・決定したいと思っている。そして、それは自分自身だけではなく、その運動に集う全ての人に、そのような自主性を持ってもらいたいと思っている。しかし、ホッファーによれば、運動はそれが発展すればするほど、そのような自主性を殺し、「盲目的な信仰と一筋の忠誠を要求する」という。

僕が、運動というものに全面的にコミットすることをためらう気分が生じてしまうのは、運動が自主性を殺すということを直感的に感じ取っているからだろうか。日本における組織の中で、自主性を殺さずに、自主的なままで組織運営がされていたのは、僕の経験では仮説実験授業研究会だけだった。その他に経験した全ての組織は、どこかで自主性を殺されるのを感じた。

自己主張を出し過ぎて、周りとの協調を壊すのは間違いだと思う。しかし、協調しすぎて自己をなくしてしまうのもまた間違いではないだろうか。そのバランスをどうとるかは難しい。自己を殺さず、しかも協調も壊さないということが出来るだろうか。自己を素直に押し出すことが、自動的に協調することにつながるような、そんなうまいやり方があるだろうか。もし、そのようなやり方を発見したら、新しい時代の組織論や運動論が生み出せるだろう。

長野県知事だった田中康夫さんは非常に有能な人だと思う。その有能さゆえに、自分の頭で考えるよりも、田中さんの指導に従っていた方が正しいことが出来ると思う人がいても仕方がない。この場合は、日常的な活動においては、田中さんの指導に従っていれば正しい活動が出来るだろう。しかし、田中さんが永久に知事としてとどまっているわけではないので、田中さんがいなくても、同じように正しい判断が出来るようにしなければならないだろう。

その時は、小さな失敗を繰り返すことで、それを教訓として成長していくという道を取るしかないだろう。小さい失敗を避ける人間は、なかなか成長出来ないだろう。有能である人間は、その有能さゆえに周りの成長を妨げるというのは皮肉なパラドックスだ。カリスマ的な大衆運動の指導者も、そのような面を持っているだろう。大衆運動の指導者と、大衆教育の教育者の面との調和というのも、大衆運動を考える上で大切なことではないだろうか。

運動についての素晴らしい言葉を残している仮説実験授業研究会の牧衷さんは、運動はその開始の時に、どう終わらせるかを考えていなければならないといっていた。終わり方を用意していない運動は、狂信の段階にまで至ってしまうのではないだろうか。そうなるともはや教育ということも効果がなくなる。終わらせ方を正しく行うことが、運動を通じた大衆教育というものかも知れない。
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by ksyuumei | 2006-09-03 16:45 | 読書


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