大阪・門真市議の戸田ひさよしさんは、先の長野知事選での田中さんのやり方を「田中流理想選挙」と呼んでいた。しかしこの理想は実現されず、現実化はしなかった。理想は簡単に実現しないからこそ理想と呼ばれることもあるのだが、理想というのは一応正しい理屈だと思われている。その正しい理屈が実際には実現されないと言う、この理想と現実との乖離は、元々理想と現実という概念そのものがはらんでいるのだろうか。それとも、それが乖離するのは、我々の思考にどこか間違いがあるのだろうか。
田中さんは、感情のロジックを刺激して大衆動員する道を取らずに、一人一人の判断を信頼して、主体的な判断から自分を支持してくれることを願ったようだ。感情のロジックで判断したことは必ずしも正しい結果とは限らない。それは、自分にとって気持ちのいいものが選ばれるからだ。基準は正しさではないのだ。 政治的判断を、気持ちの良さよりも、客観的正しさに基準を置くというのは正しいだろう。少なくとも論理的判断という面では正しいに違いないと思う。だから、そのような方向で選挙を戦い、政治の方向を指し示そうとした田中さんは正しかったと思う。しかし、その正しさが選挙の勝利というものにはつながらなかった。ここに理想と現実は違うという認識が生まれてくる。 しかし、ここで理想として語られていることは、必ずしも選挙の勝利を意味しているのではない。それは政治のあり方として、民主主義を左右する多数派の形成において、主体的な判断をする個人が集まってこそ多数決の決定に意味があると考えることが理想なのではないだろうか。多数派を形成する人々が、自分の頭で考えることなく、気持ちの良さという感情のロジックで選択をするとすれば、それは本来の民主政治からは、ずれてしまうという考えがそこにはある。 この場合は理想と現実の対比は、対比すること自体が的はずれのようにも感じる。現実には、理想的な状態がまだ実現されていなかったという現状が示されただけで、理想と現実は違うという言葉で表されるようなニュアンスで現実を理解するのは間違いではないかと思う。理想と現実は違うという言葉のニュアンスは、理想などは机上の空論であって、それは現実には何一つ有効性を持たないという感じが含まれているように思う。 確かに、理想として語られていることが空理空論であるように見えることがある。非武装中立ということが揶揄されるのは、一切の武器を持たず中立を宣言しさえすれば安全だと語っているようにそれを理解したから、それが現実に対して何の有効性も持たないという、理想と現実は違うのだという言い方が正しいように感じていた。 しかし、このような非武装中立は、最初から空理空論であることがわかっているような言い方なので、そんなものは理想ではなく、間違った理論だといえばすむことだ。理想と現実は違う、という、理想の無力さを証明するような内容ではない。同じ非武装中立であっても、コスタリカのように、外交面での国家間のトラブルの調整役に徹するという努力の上での非武装中立なら、これは空理空論ではなく現実を見据えた非武装中立論になるだろう。実際に非武装であっても平和を保つという成果を上げている。 非武装中立論は一つの理想論だと思う。それは戦争をしないための理屈であり、殺したり殺されたりしないことを理想とする一つの考え方だ。しかし、現実には戦争が存在し、今でもどこかで毎日人が殺されている。現実にはまだこの理想は実現されていない。理想と現実との乖離がある。では、だからこの理想は現実には無力だといっていいだろうか。 この理想が単なる願いに過ぎないものだったらそれは無力だと言ってもいいだろうと思う。平和であって欲しいと願う信仰のようなものだったとしたら、その願いに神は沈黙するしかないのではないだろうか。この場合の神とは、客観的な現実世界の流れを司る偶然とでもいったらいいだろうか。願いは偶然の僥倖にかけるものだが、それは偶然であるがゆえに現実化する確率は極めて低い。 理想というものが単なる願いではなく、その実現化に向けた手順がある場合は、理想と現実の乖離ということを起こさないのだろうと思う。もっとも、そのような理想は理想とは呼ばれなくなるかも知れないが。 仮説実験授業では、子どもたちが喜んで勉強したくなるということを理想として掲げていたように感じる。喜んで勉強したくなるような内容は、それを覚えるのに努力する必要がない。印象が強いので知らないうちに記憶に残る。しかも、その楽しさがよく分かるということは、内容的な理解もよくできるということにつながり、単に機械的に記憶するのではなく、主体的に「考える」という学習になる。こんなことは、普通の学校の授業ではまず起こりえない理想だと思われていた。 しかし、仮説実験授業は、その理想を起こさせる手順を、科学史の中の科学者の新発見の歴史の中に見出した。科学者と同じ認識の筋道をたどることによって、楽しく面白い科学の授業が実現するという、理想へ至る道を発見したのである。これは、かなりひいき目に見た感想のように思われるかも知れないが、仮説実験授業をよく知れば同じような感想を持つだろうと思う。 仮説実験授業においては理想と現実は乖離していない。現実の法則性を正しく捉えたおかげで、理想に至る道が明確につかめたので、理想が現実化したのだとも言えるだろう。今現実化していない理想は、そこに至る道がまだ見つかっていないために、願いとして存在するにとどまっているのだろう。だから、たまにその偶然をつかんだ幸運な人が、一瞬の輝きを持った理想を実現するという姿が見られるだけなのだろうと思う。田中さんの長野県政6年間はそのようなものだったのかも知れない。 田中さんの6年間が、理想をつかんだ幸運な6年間だとしたら、そこには幸運を実現する条件がどこかに存在しただろうと思う。田中さんの近くにいた人には、その条件を深く分析してもらいたいと思うものだ。そこで何らかの法則性がつかめれば、それは今後の理想の実現に役立つに違いないと思うからだ。 理想を現実化するには、何らかの具体的な手順で理想を実現する段階がつかまれなければならない。それはある意味では、理想を理想でなくすることになるのではないかと思う。理想が理想のままでとどまる限りでは、それはやはり願い以上のものにはならないのではないだろうか。ある意味では、理想主義者というのは、徹底した現実主義者でもあるのかも知れない。 仮説実験授業の提唱者である板倉聖宣さんは、「理想を持ちつつ妥協する」という言葉を語っている。理想というのは、そういくつもあるものではなく、たいていは最後に一番大事なものが一つ残るものが理想になる。その一つさえ守ることが出来るなら、二番目以降に大事なものは全て妥協してもいいという考え方だ。実に現実主義的な考え方だ。 もし妥協を知らず、二番目以降にあるものも守ろうとすると、全てを守ることが出来なくなり、結局は一番大事な理想でさえ捨てなければならなくなる、ということを板倉さんは語っていたように記憶している。これはある意味では、マキャベリズムの肯定にもつながるだろう。マキャベリズムは「君主の現実主義的な統治を主張し、政治目的のためにはいかなる反道徳的な手段も許されると説いた。」と辞書では説明されている。 これは、君主の統治というものを理想とするなら、それを守るためには「反道徳的な手段」も使うという妥協も許されるという理屈が成り立つ。これは理屈としてはそうなると思うが、この理屈の前提としての「君主の統治が理想だ」ということは、理想として賛同が得られるかどうかわからない。マキャベリズムの肯定も、これが理想として同意されるかどうかにかかっているのではないだろうか。 現在では君主というのはいないから、これを政治的な面で似たようなものを考えてみると、統治権力であるところの自民党の政権を理想的なものと考えるかどうかということになるだろうか。自民党が選挙で勝つことが理想であるなら、そのためにどんな手段を使おうと、マキャベリズム的には正しいと言うことになるだろう。郵政民営化の本質を伝えずに、それが無駄な公務員数を減らして改革になるのだという宣伝を大々的に宣伝するのは、選挙に勝つために効果的であれば正しいということになる。郵政民営化そのものが正しいかどうかは二の次になる。 宮台氏などは、マキャベリズム的な方向が正しいと主張していたように感じた。これは、現実の政治というものが、政治には理想などというものは無いのだから、とにかく短期的な目的である選挙の勝利というものを目的にすれば、どんな手段を使おうとその目的に有利な方法を使うマキャベリズムは正しいのだという主張のように感じた。これも一つの見識だろう。現実の政治には理想などない、と考えるのも一つの解釈として成り立つだろう。 しかし政治においても理想を設定して、その理想の実現を目指して活動をするという姿勢があってもいいだろうと思う。そのような姿勢を持つ人間は、政治的な技術を駆使する「政治家」というタイプではなく、政治を通じて大衆を教育する「教育者」というタイプのように感じる。田中さんは、実はそう言うタイプの人だったのではないだろうか。 「政治家」にとっては選挙に勝たないことには意味がない。実際の権力を握らない限り政治は出来ないのだから。だからマキャベリズム的に、選挙の勝利のために全てのソースを利用するということも正しくなるだろう。だが、「教育者」的なタイプの人にとっては、選挙に勝つことは手段ではあっても、必ずしも理想となるような目的ではないのではないだろうか。 たとえ落選することがあっても、そのことから学ぶものが多ければ、「教育者」としてのタイプの人間は、その方を高く評価する人間ではないかと思う。これは、田中さんに対するかなりひいき目な見方だが、何が何でも勝つために全力を尽くすという姿勢を見せなかった姿は、そのように解釈しないと整合的に理解出来ないような気がする。 理想と現実というものを対比させる言い方は、理想という理屈の方を悪くいう言い方のように僕は感じる。理屈である論理を擁護したい僕としては、現実から理屈を非難する方へ行くのではなく、現実の教訓から理屈を強化することを学ぶ方へものの見方を変えたいと思う。理屈として本当に正しいことなら、それは必ず現実的なものになると思うからだ。現実化しないのは、どこかで理屈が弱くなっているからだと思うのだ。
by ksyuumei
| 2006-09-02 10:46
| 雑文
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