ウィトゲンシュタインの「論理空間」

僕は、最初「論理空間」というものを見たとき、その言葉のイメージを数学的な空間のイメージと重ねていた。数学的な空間は、点の集合を意味する。それは座標軸を設定したときに、座標の数字の組で表される。3次元空間であれば、3つの数字の組(順序の違いを考慮に入れたもの)で、空間の位置を表す。

数学の場合の空間は、座標軸によって構造が入るものの、座標軸そのものは相対的に決定されるもので、多くの可能性を持つものから選択されるものに過ぎない。だから、空間としての本質は、あくまでも点の集合という、素材が集まったものというイメージがあった。

このようなイメージで「論理空間」を眺めたので、それは素材である対象・つまり物を寄せ集めたものを意味しているのではないかと受け取っていた。「世界」が事柄の集まりである「事実」の集合だったので、「論理空間」が「物」の集合に対応しているとしたら、対応の構造としてもそれは整合性があるのではないかと感じていた。




しかし、野矢茂樹さんの『『論理哲学論考』を読む』という本を見ると、「論理空間」を「事態」に対応するものとして説明していた。単に素材を寄せ集めたものとして考えているのではなく、むしろその素材を使って考えられる可能性の世界を記述した・つまりこれも事柄の集合として捉えていた。

ウィトゲンシュタインの「論理空間」においては、素材である物よりも構造の方こそが重要なものだった。これは、ウィトゲンシュタインが目的としたものが、思考の限界を定めると言うことだったので、その目的からするとこのような「論理空間」の設定の方が整合性があることが理解出来る。

ものを考えるというのは、単に素材があれば出来ることではない。その素材の間に成立する様々な現実的な構造を把握することが必要になる。属性を判断したり、他の素材との関係を判断したり、あるいは時間的な経過を判断したりと、素材そのもの構造の方こそが思考の対象になる。

その思考がどれほどのことが出来るかを考えるのであれば、考え得る可能性のすべてを寄せ集めた「論理空間」は、ウィトゲンシュタインの目的にかなった対象を設定したと言えるだろう。

「論理空間」という言葉は、そこに使われている文字のイメージでその意味を受け取ると、ウィトゲンシュタインが意味したものと違うものを読んでしまうことがある。それは、自分が持っている意味の世界がそのような読み方と結びつくからだ。同じ文字であっても違う意味で受け取るというのは、社会的な存在であるはずの言語規範に、個人的な部分がくっついていると言うことだろう。具体的な言語表現を正しく受け取ることは難しい。誤読というものは常に起こりうるものとして考えなければならない。

「論理空間」の抽象的な全体像が、野矢さんの解説でウィトゲンシュタインのものに近づいたという感じがするが、このときにまだ様々なクリアしなければならない問題が存在するのを感じる。それは、野矢さんが語る「可能性」というものをどう捉えるかと言うことだ。

「可能性」が「可能性」であるということを確認することは、実は「現実性」になってしまうという指摘が面白いものだと思った。「可能性」というのは、現実には起こらなかったけれど、起こるだろうと予想出来るものとして普通は考える。それでは、その「起こるだろう」という予想が正しいことはどうやって確認するのだろうか。

これを実際にやってみるということで確かめると、やってみた瞬間に「可能性」は「現実性」になってしまう。やる前に「可能性」であるという判断をするにはどうしたらいいだろうか。「可能性」の総体は「現実性」を含み込む。「可能性」で考えられたことの中の一つが実際には「現実性」として現れる。だから、「可能性」が「現実性」の前に捉えられなければ、「可能性」を用いて現実を考察することが出来なくなる。物事はいつでも後から解釈するしかなくなってしまう。

この「可能性」と「現実性」の問題を解決するのに、野矢さんは実に素晴らしい方法を解説している。それは、「可能性」の方は、実際に動く(実践する)のではなく、「像」を使って実験をするのだと考えるものだった。実際に動いてしまえば、それは「現実性」になってしまうが、「像」を操作する範囲にとどまるのであれば、それは「可能性」の範囲にとどまると考えるのである。

この場合の「像」は、現実の対象そのものではないけれど、対象の構造を、目的に従って比喩的に表現している何かと言うことになる。一つの例として、引っ越しの時の家具の位置を考えるときの、家具の大きさを比喩的に表している、厚紙の長方形のようなものを野矢さんは提出している。

実際に家具を持っていって、家具を置きながら考えれば、これは「現実性」の中で試行錯誤をしていることになる。しかし、家具のかわりに、それを縮小した厚紙を使って、部屋の大きさの枠としての縮小した平面の上にそれを置いて考えることは、「可能性」の世界で思考していることになる。

いろいろと紙を置いて考えたものの一つが「現実性」として、実際の家具の位置になる。「可能性」の総体としての「事態」の集合の「論理空間」の中に、「現実性」のあらわれとしての「事実」の集合である「世界」が含まれるという関係がここで見て取れる。

「可能性」は思考において現れる。実践の中では「現実性」になるものが、思考の中では「可能性」として捉えられる。この思考の本質は、「像」の操作にあるということがここで語られているのではないかと思った。厚紙という図形を使った思考は考えやすいが、人間の思考の多くは言葉を用いて行われる。これは、言葉というものが「像」としての機能を果たしていると考えられるだろう。

言葉が指すものは現実そのものではない。現実のかわりに、その一部を抽象して「像」として捉えたものが言葉であると捉えるわけだ。その像を組み合わせて言語としての表現を考えることが、「可能性」を思考すると言うことになるだろう。それは言葉の上で示すことが出来るが、まだ実践されていないので「現実性」になっていないものとして捉えられる。

言葉の組み合わせとして可能なもののすべてを考えれば、それが「事態」のすべてになり「論理空間」を構成すると言うことになるだろう。この言葉の組み合わせは、個々の言葉の意味が関係してくるだろうし、文法的に正しいかどうかということも関係してくるだろう。思考をするということと、言語を使うと言うこととが深く関係しているのを感じる。

机と本という素材を元にして、「可能性」としての「事態」を考えてみると、ごく普通には、

  机の上に本がある。

というような命題を考えることが出来る。

  本の上に机がある。

というのは変な感じはするが、考えられないことではない。机の脚がちょっとがたつくので、それを防ぐために本を机の下に潜り込ませたというような想像は出来る。しかし、

  机の中に本がある。

という想像は出来るが、

  本の中に机がある。

という想像は出来ない。本の記述の中に机が出てくるという意味に理解すれば、そう考えられないこともないが、存在として、「中にある」と言うことは、「可能性」としてはありそうもないように感じる。これは、どのような理由から「可能性」がないと判断されるのだろうか。

これは、本と机というそれぞれの言葉の意味の中に、その「可能性」を排除する要素があると考えられるのではないだろうか。日本語の表現としては、文法的には問題はない。助詞の使い方としても間違ってはいない。文法的には意味が受け取れるからこそ、この表現を変だと感じるのだと思う。

これは、厚紙を置いて家具の位置を考える「可能性」の問題にも、似たようなことが起こる。それは、厚紙が部屋よりもはみ出すような位置に置いたときは、家具が置けるという「可能性」はないと判断されることだ。家具の「像」としての厚紙が、部屋の「像」としての枠をはみ出してしまえば、「現実性」の「像」としての「可能性」が存在しない、つまり現実にもそのようなことは出来ないという不可能性を知ることが出来る。

これは、思考の展開において面白いことではないかと思う。これは論理的な判断をしていることになっているのだが、現実への判断とつながっている。論理的な判断は、「像」の世界の中でなされている。しかし、その判断が現実にも成立するというのは、「像」が現実存在をよく反映しているからこそだと考えられる。もし現実の反映としての「像」が不十分なら、論理的には正しい判断をしても、現実にはその「像」が語るようなことが起こらないだろう。

思考の限界は、この「像」のとらえ方にも深く関係しているような気がする。もう一つ僕にとって関心を引き立てられるのは、「像」の世界での論理的判断が、どうして論理として正しいと確信出来るかという問題だ。

部屋の「像」としての枠をはみ出す家具の「像」の長方形で、その部屋に置ける位置としての「可能性」はないという判断は、「像」の操作としては思考の部類に入る。しかし、実際に厚紙を動かしていると言うことでは、厚紙の操作としては、現実の実践であり、「現実性」になる。これは、「可能性」の思考であると同時に「現実性」でもある。

はみ出すという判断は、「現実性」としての判断になる。つまり「事実」であって「事態」ではない。

  厚紙が枠をはみ出す …… 事実
  家具が部屋に入らない … 事態

という関係になっているように感じる。人間の行動においては、「事態」そのものというのを考えることが出来るだろうか。ある「事態」の考察においては「像」を必要とする。しかし、その「像」を操作するときは、操作そのものは現実化してしまう。

この操作を、厚紙を使うのではなく、長方形の一辺の長さを測って計算で行えば、それは純粋な「事態」になるだろうか。このときに、枠をはみ出すかどうかは、数値の大きさに対応するだろう。数値の比較の判断は、「事実」になるのか「事態」になるのか。

これは、言葉を使って考えることが「事態」そのものになるのか、それとも、それは言葉を使うと言うことでは「事実」になってしまうのかどうかということと重なってくる。ある言葉を頭に浮かべ、その意味を考えることは「事態」そのものなのか、それとも「事実」なのか。あるいは両者を統一して捉える道があるのかどうか。ウィトゲンシュタインを知ることによってこのような問題の解答が得られるだろうか。
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by ksyuumei | 2006-07-31 10:33 | 哲学一般


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