かつて数学少年だった頃、何故に数学だけにそれだけの愛着を感じたのかを考えてみると、数学だけが確かな真理を教えてくれると感じていたような気がする。数学以外の知識は、それが正しいものであるかを自分で判断することが出来そうになかった。教師の言うことをそのまま受け入れるしかないような知識を教えられているような感じがしていた。
英単語の意味が何であるかを自分で発見することは出来ない。たとえ教師に習わなくても辞書に書いてあることを信じるしかない。知識として与えられることは、元をたどると信頼性の高いものを結局は信じるしかないというふうに感じていた。だが数学だけは、教師に習うことがなくても、自分で、その考えたことが正しいかどうかを判断することが出来る唯一のものだった。 僕は知識をそのまま信じることが出来ない人間だったので丸暗記というものが出来なかった。人に何かを習うと言うことが恐ろしく下手な生徒になっていた。仕方がないのでほとんどすべてのことを独学で勉強することになった。大学の数学科へ進んだが、講義を聞いているのは自分で理解出来る範囲までで、理解出来ない事柄に話が及ぶようになると、自分で参考書を開いて勉強し直すようになった。だから、僕は学生でいた間はノートの類は一切取ったことがなかった。分かる間は話を聞くことに集中していたかったし、分からなくなってからはノートを取るよりも参考書で勉強した方がいいと思ったからだ。 このころに数学が正しいと判断していたのは、素朴に論理が正しいと思ったときに正しい、すなわち真理だという判断をしていた。ただ、この論理についてもそれほど厳密に考えていたわけではなく、かなり直感的に捉えて整合性を考えていた。ちょうど図形の証明を考えるときのように、目に見える図形の形からいろいろな発想を見つけて、直感的に確からしいことをつなげて論理を考えるというものだった。 今から振り返ってみると、数学だけが唯一確かな真理だと思っていたものの、その確かさもかなり甘いものだったと思う。しかし、数学以外の知識に対しては、それ以上に確かさがあやふやな気がして信じるに足りないと思っていた。 後に仮説実験授業を知るようになると、数学以外でも論理的な正しさを感じることが出来るようになって、真理の判断はやはり論理的整合性以外にはないのかなとも感じるようになった。しかし、論理そのものの正しさはどこからもたらされるかという哲学的なことを考え始めると、それが確かにこういうものだと言うことが見つからないことに気づいた。 論理そのものが正しいというのは、どうやっても証明出来ないものだとしたら、これを我々は正しいと信じているだけなのだろうか。そうすると、人の言葉を信じているだけでは満足出来なかった自分は、最後のよりどころである論理に対する信頼性を失ってしまうのではないかと感じるようになった。論理の正しさは疑い得ないと思えるのに、なぜ証明が出来ないのだろうか。このようなことが僕の最大の関心事になり、今でもそれが続いている。 三浦つとむさんの本に出会ったとき、その論理の展開の見事さにも惹かれたが、三浦さんが語る真理論が誤謬論と一体のものであり、両者を総合的に捉えることで真理の真理であることの本質を教えてくれるという点にも惹かれたものだった。この発想で論理そのものも考えれば、論理が正しいという信頼感を取り戻せるのではないかと思った。 唯物論や観念論というものに関心を持ったのも、真理との関連からだった。唯物論に心惹かれたのも、それが真理を客観的に捉えることが出来ると感じたからだ。観念論はどちらかというと思い込みで真理の判断をしているように見えるけれど、唯物論は現実の存在を基礎にしている分だけ客観性があり、信頼性が高いのではないかと感じた。 そこで論理というものも、それは現実の存在の存在のあり方を抽象したところから出てくる唯物論的なものだろうと思って、そのように捉えれば論理の正しさも確信することが出来るのではないかと思った。 個別科学というのは、対象の一側面を抽象して、個別の狭い範囲での属性を捉える。力学などで言えば、質量と位置情報・速度などの属性だけを考察の対象にし、そこに成立する法則性を捉える。論理では、このような個別的な属性ではなく、存在のあり方というようなものを抽象し、存在の構造が持っている法則性を語ったものが論理ではないかというイメージで捉えていた。 僕が勉強してきた数理論理学は形式論理学と呼ばれている。これは、存在のあり方を固定的に捉えて、変化を捨象して固定的なあり方だけを抽象するところから、そのような存在の間に成立する構造を捉える。肯定か否定のどちらか一方だけが成り立つ「排中律」と呼ばれる論理法則は、ものの変化を認めないところから求められる法則性だと捉えた。 それに対してものの変化を捨象しないで、存在のあり方に取り込んで論理を考えれば、それは弁証法論理というものになるのだと僕は理解した。形式論理も弁証法論理も、現実存在のあり方の抽象の仕方で、その視点の違いから出てくる論理なのだという理解をしていた。論理をこのようなものとして捉えると、論理の正しさは、現実のとらえ方に依存して決まることになる。 しかし今度は、このとらえ方が新たな問題を発生させる。我々の認識は果たして現実を正しく捉えているかという問題が生じてくる。存在から認識がもたらされると考えた場合、我々にとって知り得ない対象(これは対象の一部に関する属性の時もあるだろうが)の問題というのも生じる。いわゆる物自体として存在するものに対して、今まで知り得た知識に反するものが出てきた場合、論理は修正されてしまうのだろうかという問題だ。 論理というのは、人間のものの考え方の基礎中の基礎であるべきものだが、それがこのような不安定な存在であっていいものかという思いも感じる。論理の正しさは、先験的・超越的に決まっているのではないかという観念論的な思いも生まれてくる。あるいは、我々は知り得た知識、つまり経験の範囲内では論理の破綻は生じないが、経験を越えることを考えようとすると、いつ論理が破綻するか分からないから、経験を越える超経験的なものは論理的考察の対象にはならないとした方がいいのだろうかとも感じてしまう。 だが一方では、未知を切り開いていくのが人間的な活動ではないかとも思える。たとえ今までは考察の対象にはなっていないことであっても、可能性として想像出来る事柄は充分論理的考察の対象になるのではないかとも思える。ただ、その時はその考察の結果が正しいかどうかは分からないので、いつまでも仮説としての意識を忘れてはならないと思うが。それを真理だと思い込んでしまうと間違いになるだろう。 だが、その真理性は、あくまでも考察の対象に関する真理性であって、論理そのものの真理性は、論理を使っている限りでは問題にならない。論理はあくまでも正しい結論を導くものとして利用している。その信頼はどこからもたらされるのだろうか。また、その信頼は本当に信頼するに値するものなのだろうか。 論理を利用しているときに、論理そのものに対して言及することが出来るのだろうか。自己言及的なパラドックスがいくつか発見されているが、そのような論理を考えると、論理そのものが破綻してしまうことにはならないだろうか。だが、そうすると論理の正しさに言及したいときは、その論理を対象にするような一段高い視点のメタ論理が必要になってくるかも知れない。そうするとそのメタ論理の正しさを語るには、またもう一段高いメタメタ論理とでも言うようなものが必要になってしまうのだろうか。そうするといつまでたっても論理の正しさは確証が得られないと言うことになる。 このようなことが気になってずっと考え続けているというのが僕の論理に対する関心と言うことになるだろうか。そして、このことを中心にして、自分の周りの世界に対して関心を持つことというのは、個別的な対象に関しては、論理的な正しさを見つけることが出来れば、その正しさの信頼をする基礎が見えてくるのではないかと言うことだ。 ある主張の論理的整合性を見つけることが出来れば、その基礎になっている主張を見分けることが出来るだろうと思う。そのときに、結論を見て何かを考えるのではなく、論理の基礎である出発点を見て考えた方が、その正しさ(真理性)が見えてくるのではないかと言うことを感じる。 観念論の再評価をしてみようと思い立って感じるのは、論理そのものの正しさについて確証を得るのはあきらめた方がいいのではないかと言うことだ。それは実は人間の論理能力の限界を超えてしまうのではないかという思いが生まれている。人間の論理能力は、知られたことに関して整合性のあることを認識する範囲にとどまるのではないかという思いだ。 人間は、経験した範囲の出来事に対して論理的整合性を取ることが出来るように考えることしかできないのではないだろうか。経験したことのないことは想像の範囲であり、多くは空想や妄想の類になるのではないだろうか。 我々は本当の事実というものをなかなか知りうることが出来ない。それが本当に経験したことなのか、実は一部思い込みが入っているのかの区別は難しい。人間の記憶も不確かなものだ。だが、本当の事実という本当の経験であれば、それは必ず論理的な整合性を持った解釈が出来るのではないだろうか。 論理的整合性があるからといって、その主張が正しい(本当の経験に即したもの)かどうかは分からない。もしかしたら、我々に知られていないことで論理が破綻する経験があるのかも知れない。だが、我々に知られていると思われていることの中に論理的な破綻が含まれている場合は、そのことによって、我々が事実(真理)だと思っていることが、実は思い込みでそう感じていただけだったと言うことが分かるかも知れない。 論理というのは、正しさを保証するものではなく、正しい可能性が高いと言うことを示すだけなのかも知れない。しかし、正しくないときは、それが間違いであるということを明確に示すことが出来るかも知れない。論理の本質は、正しさを保証するのではなく、実は間違いに気づかせ、間違いを教えるものなのかも知れない。今はそんな風に感じている。
by ksyuumei
| 2006-07-11 09:55
| 論理
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