シカゴ・ブルースさんから「幼児の頭の中は星雲のようなものか(修正版)」というトラックバックをもらった。ここでシカゴブルースさんは、ソシュールの次の言葉
「それだけを取ってみると、思考内容というのは、星雲のようなものだ。そこには何一つ輪郭の確かなものは無い。あらかじめ定立された観念はない。言語の出現以前には、判然としたものは何一つないのだ。」 (『一般言語学講義』) に対して批判を展開している。これを見ると、視点の違いによって文章の読み方がまったく違うものになると言うことを感じる。「言語の出現以前」という言葉が何を意味するかという点で、僕はシカゴブルースさんとまったく違う受け取り方をした。シカゴ・ブルースさんは、これを文字通りまだ言語が話されていない、人間が言語能力を獲得する以前のこととして解釈したように感じる。 しかし僕は、これを現在の自分の状態と重ね合わせて受け取った。つまり、すでに言語能力を持ち、対象に対する認識を言語で表現出来る人間の活動として、何かを言語で語った後の状態と、それを語る前の状態とを考え、語る前の状態を「言語の出現以前」だと僕は解釈した。 つまり「判然としたものは何一つない」という混沌とした状態というのは、言語能力を持った人間が、言語表現をする以前は、「判然としたものは何一つない」という状態なのだと僕は解釈したのだった。この感覚が自分の感覚とぴったり重なったので、ソシュールのこの言葉が僕の印象に残り、これは正しいのではないかという直感が生まれた。まさに、言語で表現される以前は、ぼんやりとそう思っていたかも知れないが、ソシュールによって適切に表現されたおかげで、僕の中の混沌が晴れて判然とした認識が浮かび上がったという感じだ。 僕はソシュールの専門家ではないので、ソシュールが「言語の出現以前」という言葉で本当は何が言いたかったのかという、その真意はこれだと確言することは出来ない。シカゴ・ブルースさんが指摘するようなことを語ったのかも知れない。僕の解釈は大いなる誤読ということも考えられる。しかし、内田さんが語るように、公にされた文章は誤読される権利があると考えれば、そこに自分の考えと一致する意味を見つけたときは、その誤読を大いに利用したいとも思う。 言語を駆使出来る人間が、言語表現をするということは、実は論理を駆使していることと同じことになる。言語を語ると言うことが実に論理的な行為であるという指摘は、多くの人が語っていることだと思う。板倉さんは、科学を学ぶ基礎は言葉が扱えることだと言っていた。普通の言葉が通じる人間なら誰でも科学は学べると考えていた。言葉を扱う能力こそが、科学を考える論理能力の基礎になるというわけだ。 『ウィトゲンシュタインはこう考えた』(鬼界彰夫・著、講談社新書)には、「対象化-命名作用」と言うことに関して興味深い記述がある。それは、言語は人間の思考をどこまで表現出来るかという問題を考えるところで語られていた。人間が考えることの出来ることはすべて言語で表現出来るかという問題だ。 考えることの出来ないことはもちろん言語では表現出来ないだろう。言語で表現出来ると言うことは、その時点でそのことについては何か考えていることを示すからだ。問題は、考えることが出来るにも関わらず言語では表現出来ないことが存在するかどうかだ。 浦島太郎は竜宮城のことを「絵にも描けない美しさ」と言語で表現した。絵には描けなくても言語では表現出来た。それでは言語では表現出来ない考えというものがあるだろうか。これについて何か語れるとすれば、それは言語で表現出来てしまうので、言語では表現出来ないとは言えなくなる。それは混沌のままで頭の中に存在する何かになる。しかし、僕はいまそれを「混沌のままで頭の中に存在する何か」と言語で語ることが出来た。どんなものでも、考えの対象にしたときに、それは言語で表現出来てしまうのではないだろうか。 ウィトゲンシュタインは、このように対象に名前を付けて呼ぶことを、「対象化-命名作用」と考えたようだ。人間の言語には、このような機能があるおかげで、考え得るすべての対象を思考することが出来る、すなわち「表現力極大言語」と名付けたものになるとウィトゲンシュタインは主張している。 ウィトゲンシュタインがこのようなことを考えたのは、論理学が対象とする命題を分析する過程でのことだったらしい。論理学を厳密に考えるために、その対象である命題についても厳密に考えていくと、命題を構成するもっと細かい要素である「対象」やそれについて記述をする「述語」についても考えなければならなくなる。また現実とのつながりを考えると、その「対象」が存在する実体的なものであるかも気になってくる。 しかし対象の実在に関する考察は自然科学的なものになる。それが確かめられないと論理学の基礎が打ち立てられないとすると、自然科学の基礎をなす論理学が、また自然科学を基礎にしてしまうという循環論に陥ることになる。論理学が自然科学から独立した基礎をなすということを考えるために「対象化-命名作用」というものを考えたように僕は感じる。つまり、論理学としては、人間が言語によって命名したと言うことでそれは「対象」になると考えることが出来るのではないかと言うことだ。 例えば「世界」という対象は、それだけでは混沌としてよく分からない対象だ。これはあらゆる存在を含んでいる。もし「世界」という言葉がなければ、それは人間の頭の中に浮かんでくる様々な存在の像が無秩序に浮かんでは消えていくようなものになるだろう。しかし「世界」という名前を付けることによって、曲がりなりにも人間はこれを思考の対象に出来る。その思考は、世界の細部を考慮に入れた深いものから、ただ自分の関心に従って見えるだけの狭いものまでいろいろと差があるだろう。しかし、その像が違っていても、「世界」という名前があるおかげで、それについて考えることが出来る。「対象化-命名作用」というのはそう言う効果のことを言うのではないかと思う。 これはソシュールの言葉に通じる発想ではないかと思う。だから僕はこの考えにも魅力を感じるし、自分の経験にも同じものがあるのを感じる。僕のウィトゲンシュタイン解釈も、実は大いなる誤読かも知れないが、人間は自分の経験や知識に照らし合わせて言語表現を受け取るしかないのであるから、真意は別にして、その言葉からどのような自分の事実との関わりが考えられるかを見るのが大事ではないかと思う。 ソシュールやウィトゲンシュタインが、本当は何を語っていたかというのはあまり重要な問題ではないような気がする。むしろ、ソシュールやウィトゲンシュタインが見ていたものと同じものを見ようとする努力が大事であって、それが見えてきたときに、同じような発想を持つかどうかと言うことがソシュールやウィトゲンシュタインを学ぶと言うことになるのではないだろうか。言葉の解釈というのは、違う視点を持った人間がいれば、その視点の数だけの解釈が出てくるだろう。その視点で見えた対象が、同じように自分にも見えれば、そこから何かが学べるのではないかと思う。 シカゴ・ブルースさんと僕とは、違う視点でソシュールの言葉を捉えていると思う。ソシュールの言葉を、人間が言語を獲得する以前のことを語ったものだと受け取るのは、僕とはまったく視点の違う解釈だと思う。それについては、僕は、そのような状態のことは想像は出来るが確証は得られない仮説にとどまると思っている。つまり、原理的には本当のことは分からないとしか言えないのではないかと思う。 結果的な事実を見れば、人間は、言語を持たない時期があり、今は言語を持っている。だから、どこかで言語を持つようなきっかけがあり、言語を持たなかった時代があるということは分かる。(実を言うと、これも本当の意味では分かっていない。大昔のことを確証を得るまで考えたことはないからだ。今までの歴史学の成果などを信用してこう言っているだけとも言える。)これは結果的に分かるだけであって、その過程は永久に確証することは出来ないのではないかと思う。 大昔の言語活動を見ることは出来ないし、それと類似のことが幼児期にも見られると仮定しても、幼児は言語表現が出来ないのでそれを語ることが出来ない。そして、すべての大人は幼児期の記憶を持っていない。確かめる方法が何一つないのではないだろうか。それは想像することしかできないが、それは想像にとどまる限りでは多くの解釈の中の一つに過ぎないとも言える。 僕は、想像の段階では、観念論的発想を大いに駆使することが有効なのではないかと思っている。科学的な実証の段階ではあくまでも唯物論的に振る舞うことが大切だが、その前の段階では観念論の方が役に立つのではないかと思う。その時に、唯物論だ観念論だと言うことにこだわっていると自由な発想の妨げになるのではないかという感じがしている。 真理というのはごく狭い範囲のことについて言及するときに問題になるのであって、世界全体を問題にするときは、真理は決定出来ない混沌としたものなのではないだろうか。だから、問題を絞りきれないときは、優れた観念論的発想を利用した方がいいのではないかと思う。ソシュールやウィトゲンシュタインというのは、そういう意味で非常に魅力的だと感じるものだ。構造主義にもそういうものを感じる。
by ksyuumei
| 2006-07-08 10:38
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