「ソシュール的な発想」ということで何を言いたかったのか

シカゴ・ブルースさんから「「言語なしの思考」」というトラックバックをもらった。それを読むと、なるほどと思えるところがたくさんあり、自分が考えていたことの曖昧さがよく分かると同時に、本当は何が言いたかったかということも少しずつ見えてきたような感じがする。言葉というのは多義性を持っていて、自分の中に生まれた考えを正確に伝えるのはとても難しいものだということを改めて実感する。

今僕は「言葉」という表現をしたのだが、これは「言語」と表現しても良いような感じもする。しかし、何となくニュアンス的に「言葉」と言いたい感じがしてそのように表現した。だが、このニュアンスを正確に伝えるのは難しい。「言語」と言ってしまうと、何か学術用語的で、きっちりとした定義の下に使わないとならない気がしてしまった。何気ない日常的な表現も含むというニュアンスを出すには、「言葉」という表現の方がふさわしいような気がした。

シカゴ・ブルースさんがトラックバックのエントリーで指摘している、僕が使った「言語」という表現も、実は「言葉」と言っておいた方がニュアンス的には良かったかも知れない。あの文章ではどうして「言語」という表現にしたのか、自分の心理を考えてみたいとも思う。



まず雰囲気的には、学術的な考察の過程を語るという感じがしたので、日常的な表現を含む「言葉」よりも「言語」の方を選んでしまったという感じがする。日常的な会話を交わすような単純な言語表現では、表層的な自分の感覚が伝われば用は足りるので、新たな発見をしたり、物事の不明な部分を切り開いていく発想はあまり関係がないような感じがした。

言語表現が持つ影響力が鮮明に出てくるのは、物事を深く考えたときではないかと感じる。作文をすると自分の考えがはっきりしてきてよく分かるようになるというのは、表現することによって世界をどう捉えているかと言うことが自分に明確になってくるからではないかと思われる。作文をする以前にはぼんやりとしか見えていなかったことが、作文をすることによってはっきりしてくる。

作文は、文字による表現であり、それが言語であることははっきりしている。しかし自分一人でものを考えているときは、作文をしないのであれば、それは自分の頭の中でだけ聞こえる「言語」になる。これは、観念の中の対話相手である自分に対してだけ聞こえる「言語」なので、これを表現と呼んでいいものかどうか迷ってしまう。しかし、これなしにものを考えると言うことは出来ないのではないかとも感じる。

ものを考えるというのは、究極的には概念を結合させていくことになり、概念に付けられたラベルとして「言語」を利用しているとも考えられる。しかし、独り言のように、自分自身を相手に対話するという「言語表現」なしにものを考えることが出来るだろうか。僕は、自分の経験としては、ものを考えるときはいつももう一人の自分に話しかけているのを感じる。その思考そのものは、どこにも表に現れないという現象を見ると「表現」ではないようにも感じてしまう。しかし、観念の中では確かに表現しているようにも感じる。自分にしか分からないこの「言語表現」は、果たして「言語」と呼べるかどうか。

表現する以前の概念のラベルとしての「言語」(これも曖昧な表現だ。言語規範と言った方がいいのだろうか)だけで人間は思考が出来るだろうか。それが思考であるとはっきり分かるためには何らかの表現が必要なのではないだろうか。

ヘレン・ケラーが言葉を覚えていった過程で、ヘレンには概念としてのぼんやりとした認識はあったと言われている。しかし、その概念に対して言葉が対応していなかった。その対応を教えたのがサリバン先生だというふうに僕は理解している。水という対象に対して、それがどういうものであるかというぼんやりとした概念はヘレンの中にあった。それに「water」という言葉が対応するのだと言うことを知ることでヘレンは言葉を覚えていったと言われている。

言葉を覚える以前のヘレンには思考と言うことが出来ただろうか。人間であるから、何らかの思考の芽生えはあったかも知れないが、むしろ感情がすぐに行動に直結するという姿の方が多かったのではないだろうか。それが言葉を知り、その言葉を使って思考することが出来るようになると、自分自身に対しても、自分の周りのものに対しても深い理解が進んでいくようになったのではないだろうか。

僕が言いたかった「ソシュール的な発想」というのは、実はこのようなものを考えるという現象において「言語表現」というものが持つ重要な役割のことを言いたかったのだと思う。それはたぶんソシュールによって初めて明確な形で語られるようになったのではないかと思っていたからだ。

このようなことを「ソシュール的な発想」だと思うようになったのは、内田樹さんの『寝ながら学べる構造主義』を読んでからだ。そこには次のように書かれている。


「日本語では「犬」と呼ぶものを英語では dog 、フランス語では chien 、ドイツ語では Hund と呼ぶというふうに、ものの呼び方は「言語共同体ごとにご自由に」と言うことになっていて、どの名が一番「正しい」のか、というようなことは問題にしても仕方がありません。「ものの名前は人間が勝手に付けた」というのが「カタログ言語観」の基本にある考えです。これは誰にでも納得出来るでしょう。
 しかし、この言語観は、いささか問題のある前提に立っています。それは、「名付けられる前からすでにものはあった」という前提です。
 確かに私たちは普通にはそう考えます。「丸くてもこもこした動物が来たので、アダムは勝手にそれを『羊』と名付けた」というふうに。
 しかし、本当にそうなのでしょうか。「まだ名前を持たない」で、アダムに名前を付けられるのを待っている「もの」は、実在していると言えるのでしょうか。
 名付けられることによって、初めてものはその意味を確定するのであって、命名される前の「名前を持たないもの」は実在しない、ソシュールはそう考えました。」


人間は言語を用いて思考を展開する。それは、単に概念に付けたラベルを操作するだけではなく、観念的に設定された対話者であるもう一人の自分に対して言語表現することで思考するのではないかと感じる。そして、このように言語化される前の世界は混沌としているけれども、言語化されることによって明確になり初めて人間に対する思考の対象として存在出来るというのが、「ソシュール的な発想」のように僕には見えた。

ここで語られている、「名付けられる前のもの」は、カント的な「物自体」に通じるもののようにも思われる。ソシュールは、それは「実在」しないと考えた。ここでは「実在」の意味が難しくなるのだが、このような考え方は観念論的にも見える。人間が思考の対象として名付けることによって、初めてものはその「実在」を獲得するという考えは、観念論そのもののように見える。しかし、この観念論的発想は、認識の本質を捉えているようにも感じる。観念論だからと言う理由で退けるにはあまりにも魅力的だ。

僕はいままで観念論的なものを退けてきたので、その再評価に当たっては、行き過ぎて評価しすぎると言うことがあるかも知れない。しかし、一度は行きすぎて限界を知らなければ、それを正しく評価することが出来ないのではないかとも感じる。シカゴ・ブルースさんが指摘するように、言語規範を言語だと見るのは、言語の本質を表現に見る見方としては相容れない。「ソシュール的な発想」をそのような側面だと受け止めると、これは容認しがたいと言うことにもなってくるだろう。僕も、表現を伴わない言語規範は、認識の中に入れた方がいいと思っている。だが、多くの人を魅了した「ソシュール的な発想」というものが、別の側面にあるのではないかというのが僕の再評価の方向だ。最後に、内田さんが引用しているソシュールの言葉を孫引きしておこう。


「フランス語の『羊』(mouton)は英語の『羊』(sheep)と語義はだいたい同じである。しかしこの語の持っている意味の幅は違う。理由の一つは、調理して食卓に供された羊肉のことを英語では『羊肉』(mouton)と言って sheep とは言わないからである。sheep と mouton は意味の幅が違う。それは sheep には mouton と言う第二の項が隣接しているが、mouton にはそれがない、と言うことに由来する。(略)もし語というものがあらかじめ与えられた概念を表象するものであるならば、ある国語に存在する単語は、別の国語のうちに、それとまったく意味を同じくする対応物を見出すはずである。しかし現実はそうではない。(略)あらゆる場合において、私たちが見出すのは、概念はあらかじめ与えられているのではなく、語の持つ意味の厚みは言語システムごとに違うという事実である。(略)概念は示唆的である。つまり概念はそれが実定的に含む内容によってではなく、システム内の他の項との関係によって欠性的に定義されるのである。より厳密に言えば、ある概念の特性とは、『他の概念ではない』と言うことに他ならないのである。」

「それだけを取ってみると、思考内容というのは、星雲のようなものだ。そこには何一つ輪郭の確かなものは無い。あらかじめ定立された観念はない。言語の出現以前には、判然としたものは何一つないのだ。」

(『一般言語学講義』)


内田さんは、これらの言葉から、「ソシュールは言語活動とはちょうど星座を見るように、元々は切れ目の入っていない世界に人為的に切れ目を入れて、まとまりをつけることだというふうに考えました」と語っている。そして次のように結んでいる。


「言語活動とは「すでに分節されたもの」に名を与えるのではなく、満天の星を星座に分かつように、非定型的で星雲上の世界に切り分ける作業そのものなのです。ある観念があらかじめ存在し、それに名前が付くのではなく、名前が付くことで、ある観念が私たちの思考の中に存在するようになるのです。」


この発想は、僕にはとても魅力的に見える。それが、人間がものを考えると言うことの本質を言い表しているのではないかと思えるのだ。この魅力が多くの人にも感じられて、ソシュール的な発想が広く受け入れられたのではないだろうか。この考えがもし否定されるとしても、一度はよく考えてみてその上で否定しなければならない重要な考えなのではないかと思う。僕は今のところ、この発想に魅力を感じているので、肯定的にこの考えを受け入れているという状態だ。
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by ksyuumei | 2006-07-06 10:09 | 言語


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