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「無意識」は存在するのか

「無意識」という対象は、人間の心を解明する上で非常に重要な役割を果たしたものとして、その発見が賞讃されているものだ。人間の言い間違いや物忘れ、その他理解が難しい行動に対して、それが「無意識」というものを原因としていると解釈すると、合理的な理解が出来るようになる。フロイトは、この考えによって、精神疾患の治療にも効果を上げたといわれている。

「無意識」というものは、実際的な有効性を持った考え方ではあるが、これの存在を突き詰めて考えてみるとなかなか難しいものがあるのを感じる。「無意識」という対象を設定して、その作用として人間の行動が影響を受けると考えると、人間の行動をより深く理解出来るように見えるが、そう解釈することが出来ると言うことから「無意識という心の領域が存在する」と主張していいものかどうかに確信が持てない。それは「存在する」という判断の対象になるものではないのではないかという思いがわいてくる。

「存在する」という判断の対象が、物質的なものであればそれは反映という考え方で受け止めることが出来るだろう。何らかの過程を経て我々の五感に反映する物質的存在は「存在している」という判断が出来る。それは錯覚である場合もあるだろうが、「錯覚である」という場合が解明出来れば、「錯覚でない」反映を確認することで「存在している」という結論が導けるだろう。



実践が存在の確認になると言うことは、物質的対象に対して働きかける実践が、それの成功や失敗という判断とともに、成功や失敗をもたらした何かがある、と言うことで「存在している」という判断が帰結することだ。物質的存在の場合の存在は、このように主張出来るのではないだろうか。

物質的存在でない場合は、これが難しくなると思う。例えば「運動」というものの存在を考えると、これはなかなか難しいのではないかと思う。「運動」なんてありふれたもので、そんなものは世の中を見ていればどこにでもありふれて存在すると主張出来るような感じもする。しかし、突き詰めて考えてみると「運動」というものが目に見えると言うことが疑わしくなってくる。

我々の目に見えているのは、運動ではなくその結果としての状態だけなのではないか。例えば運動の中でも簡単な移動というものについて考えてみると、我々が見ているのは、移動という運動ではなく、移動の結果としての位置の変化を見ているだけなのではないか。我々に与えられているのは、位置情報だけであって、運動そのものは確認出来ないと考えることも出来るのではないか。

運動を否定した古代ギリシアの哲学者たちも運動そのものは目に見えないと言うことからそのような結論を導いたのではないだろうか。目に見えるのは、その瞬間に物質が空間に占める位置情報だけだ。その位置情報は、時々刻々と変化していくだろうが、それは結果的にそう見えるだけであって、そのことから「運動」が存在していると結論することは出来ないのではないか。

物質が、ある瞬間には、ある場所を占めているという言い方をすると、それは物質が運動していると言うよりも静止しているという表現になる。観察した結果は静止という表現しかできない。しかし、運動というのは静止ではなくて、まさに動いていると言うことを主張するわけだから、これを反映として表現することは難しいのではないかとも感じる。

板倉聖宣さんは、運動というものを論理的に表現しようとしたら、静止である「その位置に存在する」という言い方と、静止を否定する「その位置に存在しない」という言い方を両立させなければならないと語っていた。つまり、運動とは論理的に表現すると「その場所にあって、しかもその場所にない」という状態のことを言うわけだ。これは、弁証法的な意味での矛盾であって、運動というものを表現しようとすれば、形式論理的には矛盾は避けられないと言うことになる。

板倉さんは、この矛盾を避けるためには、運動を静止の表現の形式論理で語るのではなく、現象に「運動」という名前を付けて「運動している」と表現してしまえばいいのだと語っていた。運動そのものは、語ることも確認することも出来ない。結果としての変化を我々は見るのであり確認するだけだ。だから、結果としての変化をもたらすような現象に対して「運動する」という表現を当てはめてやればいいと言うわけだ。

このように考えると、「運動が存在する」という言い方は、何か「運動」というような対象があって、その属性としての存在を語っているのではないと言う気がしてくる。むしろ、運動そのものは我々には捉えきれない対象なので、捉えられる物質的存在の関係として、そこに結果としての変化を発見したときに、それを運動と呼ぶことにしようという定義の問題ではないかという気がしてくる。

運動の存在を論じるというのは、実は言語の問題であって、客観的対象に関する理論の問題ではないのではないかという気がしてくる。むしろ、運動の存在などは、論じる意味がないのではないかという感じがする。ゼノンのパラドックスなども、その矛盾が成立しないことは実践によって否定されると言う考えがあるが、実践によって否定されるのはパラドックスの方ではなく、運動の存在を論じることの意味の方が否定されているのではないだろうか。

運動が存在するかしないかを論じれば、それはゼノンが提出したようなパラドックスを生み出す。だから、運動は存在を論じる対象ではなく、運動として語られるような現象や関係が見つかった場合、そこに運動があると仮定する視点として役立つような言葉なのではないだろうか。

運動があると仮定すれば、そこには結果としての変化が見出せる。この結果としての変化に法則性を見つけて、結果が現れる前にそれを正しく予想出来るようにしたものが科学と呼ばれるものではないだろうか。科学にとって大事なのは、そこに運動があるかないかではなく、結果として観察される変化の間に法則性があるかどうかなのではないかと思う。

静止しているように見えるものでも、長い年月の間には崩壊し変化していく。だから、長い時間のスパンで眺めてみれば、運動していない物質はないとも言える。だが、短い時間では変化が見られない側面もある。この側面に対しては「運動していない」という見方が出来るだろう。運動が存在するかどうかは、いずれも視点の違いに過ぎないものかも知れない。変化の結果は形式論理で捉えられるが、変化の過程である運動は形式論理では捉えられないと言うことになるのではないだろうか。

「無意識」という対象も似たような構造を持っているのではないだろうか。それは人間の行動の差異(変化)を観察していると、何かそのようなものがあった方がうまく説明出来るというものではないだろうか。我々には結果としての行動(現象)しか捉えられないが、その行動の差異(変化)をもたらす何かとして「無意識」を設定するとうまくいくのではないだろうか。

形式論理として「無意識」を捉えることは出来ないが、「そこに無意識の作用がある」と仮定して考察を進めていくと、「そこに運動がある」と考えて変化を捉えたときと同じように、人間の行動の中で理解が難しいものに対する理解のきっかけを与えてくれるのかも知れない。

「無意識」というのは、捉えることは出来ないが、人間の行動という現象の間にある法則的関係が存在するという見方を与えてくれるのではないか。大事なのは、この法則を発見することであって、「無意識」そのものが存在するかどうかは、ある意味ではどちらでもかまわないのではないだろうか。何かよく分からないものに、「無意識」という名前を与えると、それが考察しやすくなると言うことの方が大事なことなのではないだろうか。

よく分からない対象であっても、それに名前を与えるとそのことが考えられるようになる。言語を使って考察をする人間にとっては、名前を与えると言うことはそのような意味があるのではないだろうか。言語によって世界を切り取っていくと言うことはそのような雰囲気なのではないかと感じる。

現実的なものの観察から、その反映として何かがあることを感じて、それに名前を付けるという作業を人間は行う。その名前が、常に具体的な対象から離れずにいたら、その名前を付けたものの存在はまったく問題にならないだろう。それは存在したからこそ名前が付けられたのだから。それが実体的なものなのか、関係的なものなのかという違いはあるだろうが、名前が具体性を持ったものなら、それは名前が付けられていると言うことから存在することが帰結されるようなものだ。

しかし、言語はいつまでも具体性の中にとどまっていることが出来ない。一度名前が付けられると、その名前が抽象的な概念へと発展していく。そして、その名前が完全に抽象的な概念となってしまうと、実はその存在については何も言えなくなるのではないだろうか。存在が判断出来るのは、具体的な物に限られるのではないだろうか。

「犬」というものも、具体的に観察出来る対象であればその存在を語ることが出来る。しかし抽象的概念としての「犬」はその存在を論じても意味がないように感じる。概念として存在しているという論じ方もあるかも知れないが、そのように語っていくと、現実の存在というものが意味を失う。

概念としての存在を言うなら、数学的対象のすべては概念として存在している。この存在を現実的な存在と一緒くたにすれば、虚数が現実的な存在であるかということは意味がなくなる。概念として存在しているのであるから、存在は確かだと言うことになってそれ以上の考察には進まない。実際には、実数(現実の数)には存在しない虚数が、概念としては存在しているのだが、現実に対応するものがあるのかどうかと言う存在が問題になるのではないかと思う。

「南京大虐殺」が「あった」か「なかった」かというのは、言葉の定義の問題であるのか(現実の存在の問題ではない)、何らかの実体的な存在があって、それに付けた名前が「南京大虐殺」というものであったのか、その区別をはっきりさせないと、この二項対立は解決しないのではないだろうか。もし後者のように、何らかの実体に「南京大虐殺」という名前を付けたのであれば、この二項対立は、それが「あった」か「なかった」かというものではなく、その名前がふさわしいかどうかと言うものになるだろう。この方が議論としては建設的なものになるような感じがする。
by ksyuumei | 2006-07-04 10:31 | 哲学一般


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