僕は、三浦つとむさんの言語論で言語について学んだこともあり、言語という対象はあくまでも表現されたものという前提を持っている。それは空気の振動による音声であったり、文字による表現であったり、形式は違うことはあるけれども、ある物質的存在を鏡として成立するもので、唯物論的に扱うことがふさわしいと思っていた。
だから、ソシュールが言語規範を対象にして言語を考えようとしているという批判を見たとき、表現ではない言語規範を言語として扱うことは間違いではないかと思ったものだ。しかし、言語の現象としての言語規範が言語学の対象として考察されるのはそれなりに理由があることだとも感じる。 三浦さんは言語学の前半で認識に対する考察に多くを費やしている。これは、言語の成立する基礎として認識というものが重要であるという判断からだ。認識そのものは言語ではないが、言語が表現する基になるものとして認識を解明しておかなければ、言語の本当の姿は分からない。 思考という作用も、認識の中に入るのではないかと思う。認識の中でも、感覚と直結した単純なものは、外界の反映という解釈が取りやすい。しかし、必ずしも感覚的につかめない対象に対する知識が、思考の過程を経て得られることはたくさんある。物質的存在が原子によって構成されているという認識は、その最たるものではないだろうか。これは感覚では得られない。深い思考の末に達する認識だ。 この思考と呼ばれる活動は、どのようなメカニズムによって行われるのだろうか。これは論理というものと深い関係があるような気がする。論理は、形式論理にしろ弁証法論理にしろ、そこに論理法則というようなものを設定するが、これはある種の思考の形式を表現しているものと考えられるのではないだろうか。 命題と命題の結合を考えると言うことは、我々の思考がそのような過程を経て発展していくことを反省して論理法則としているのではないだろうか。さらに命題を細かく分析していくと、それは何らかの存在する対象に対して、ある属性を結びつけるという概念同士の結合という活動をしているようにも見える。 例えばある対象を観察して、それが固体であるとか液体である、あるいは気体であるとか言う判断をするときは、その対象の概念と固体・液体・気体という概念を結びつけてそれが「同じ」であるという判断をしているように見える。さらに、対象が気体であれば、空気との重さの差はどうかというようなことを考えるかも知れない。そうすると、「重さ」という概念が思考の中で対象と結びつけられることになる。 言語というのは、三浦さんが指摘したように概念を表現するものであるから、思考の際にこれは活発に利用される。だから、人間の思考を考える上で言語のことを考えるのは重要なことになるだろう。思考というものも言語学の範疇に入ることにもなる。 しかし、思考の際に言語が活発に使われると言うことから、思考の際に使われるそれらも「思考言語」という言語の一種なのだと考えると、「言語は表現である」という前提からすると間違ったことのように感じる。この前提を立てないのであれば、このように考えるのも立場の違い・視点の違いだと言うことが出来るような気もするが、何か違和感があって、このような考えは間違いではないかという気がする。 以前に障害児教育に携わっていたとき、障害児の場合は、言語として表現が出来ない子どもがたくさんいたのを思い出す。それは音声を司る体の機能に障害があるために、音声としての言語の表出が出来ない場合が多かったからだ。それでもタイプライターなどを使って、文字として表現が出来れば、表現としての言語を確認することが出来る。しかし、音声でも文字でも表現出来ず、その反応がわずかに表情で行えるという子どもの場合は、その子が言語を獲得すると言うことがどういうことなのかが難しい問題だった。 言葉による呼びかけに対して、表情による異なった反応があると言うことは、そこに言語の理解があることを予想させる。この言語による理解を、思考言語を持った、あるいは内言語が成立したというふうに呼んでいた。これは、障害児教育に携わる人間の希望的な思い込みだけではなく、理論としてもヴィゴツキーなどが語っていたように記憶している。 この現象に見られるような、言語の理解という思考の過程を、言語という対象が存在すると見るのは僕は反対だったのだが、そのような現象があるのは事実だ。言語というのは、対象として考える場合は、あくまでも唯物論的な物質的存在として捉えないと、その本質が見えてこないのではないかと思っていた。理解をするという認識の働きの方を言語と呼んでしまうと、観念的存在を物質的存在のように扱う観念論的な間違いになるのではないかと思っていた。 しかし、障害児が言語を持たないと結論するのは、障害児が人間ではないと言っているような感じがして、障害児教育に携わる人間としては抵抗があるだろうという心情的なものも感じる。普通の表出言語は持てないけれど、内言語(思考言語)は持っているのだと言いたい気持ちもよく分かる。 思考をするときに言語なしの思考というものは考えられるだろうか。もし、思考の際に常に言語が使われるのなら、そこで使われる言語を「思考言語」と呼んで悪い理由があるだろうか。学術用語の使い方として、このような使い方も許されるのではないかとも言えるのではないだろうか。しかし、言語なしの思考というものが考えられるのなら、思考において言語は本質的なものではないとも言える。その場合は、思考言語という言い方は、本質を取り違える恐れがあるかも知れない。 三浦さんの言語学で語られていたのは、思考という認識にとって重要なのは「概念」の方であって、思考で使われる言語は、概念に貼り付けた「ラベル」としての意味で使っているだけで、本来の言語としての使い方をしているのではないというものだった。 本来の言語としての使い方は、表現をすると言うことになければならない。表現というのは、何かが「表」に「現れる」と言うことであるが、その何かが表現者の「認識」というものになる。思考の際に現れる言語は、誰かが表現したものではない。 例えば犬という対象を見たときに、それが犬であるという判断をするために、頭の中に犬という概念を呼び出す必要がある。その概念に付けられたラベルが犬という言葉になる。これは、本来の言語としての機能を果たしていないのだから、言語と呼ばない方が自然な気がするが、言語と呼びたくなる人が大勢いると言うことの理由はなぜなのだろうか。 もし犬という言語を持たないとき、我々は犬について何らかの思考をする、何かを考えると言うことが出来るだろうか。言語のある生活が当たり前の我々にとって、言語なしの生活(思考)というものは考えることが難しい。犬という言葉なしに犬のことを考えるのはほとんど不可能のようにも見える。 物質的存在が我々に反映という認識をもたらし、存在の属性として世界を理解すると言うよりも、言語によって世界を切り取って、世界の一部を考察の対象にして理解が進むという方が、何か現実の人間の活動を正しく語っているような気がしてしまう。ソシュール的な発想の方が正しいような気がしてしまう。 普通の人間は色や匂いについてあまり多くの言葉をもっていない。だから微妙な差が分からない。似たような色や匂いは同じものにしてしまう。しかし、色や匂いの専門家は、膨大な数の違う色や匂いを認識する。これは、そう言う語彙を持っているのだろうか。もしそのような違いを表現する言葉なしに、概念だけでその違いをつかんでいるとしたら、これは驚きだがどうなのだろうか。 北極に住むイヌイットは、数十種類の雪を区別するという。そしてその違いに応じた雪を表現する言葉があるという。日本語だけにある独自の言葉は、外国人がそれを理解するのは難しいと言われる。言葉がなければ、思考をすることが難しいので、対象から得られる概念も言葉に依存していると言えるのだろうか。 言葉なしに思考が出来ないとしたら、因果律や必然性の問題も難しいものが出てくる。言葉によって対象の視点を定められ、ある種の限界を持っている人間には、因果律や必然性を本当につかむことは出来ないのではないかという問題だ。因果律や必然性だと思っていることは実は錯覚で、それは概念の中に人間が設定しているだけではないかという考えだ。これは観念論といっていいのではないかと思う。しかし、簡単に否定出来ない観念論ではないかと思う。 因果律は、単に時間的な前後関係を語っているだけで、そこに論理的な必然性はないという考えがある。これは、そう言う解釈も出来ると思う。しかし、未来に対する確実な予測が出来る科学を考えると、そこに因果律があり必然性を見ることが出来るから確実な予測が出来るのだと言うことも出来そうだ。 しかし、未来というのは、それが起こってみないと予測が正しかったかどうかが判定出来ない。予測はあくまでも予測であり仮説だと考えると、それが真理だと主張する因果律や必然性は危ういものになってしまう。 人間の思考には限界があるというのは、ゲーデルの不完全性定理でも語られ、ウィトゲンシュタインの哲学でも語られている。それは深く言語の可能性に結びついているのを感じる。限界があるから確かなことは何も言えないと考えるのではなく、限界をわきまえることによって、確実なことが何であるのかを知りたいものだと思う。ウィトゲンシュタインのように、知り得ないことには沈黙しなければならないと思うが、沈黙しなくてすむような、知り得ることが何であるのかと言うことも理解したいと思う。それが日常生活でも利用出来るような方向で考えてみたいものだと思う。
by ksyuumei
| 2006-06-30 10:18
| 論理
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