唯物論・観念論という哲学的考察と日常感覚との関係

唯物論・観念論というような高度に抽象的な対象について考えていると、それが日常感覚とは別世界のことを考えているような気がしてきてしまう。これを何とかごく普通の現象と結びつけて、哲学的な空想論として終わらせるのではなく、役に立つ知識として利用したいものだと思う。

僕はいままでも両者の概念を誤謬論に利用するという意識で考えていた。究極的には唯物論が正しく、観念論が間違っているという前提を持っていたので、ものの見方が唯物論的になるような視点を見つけ、すべてを唯物論で解釈するという方向を探していた。それが観念論的な間違いを避ける一つの方法だと思っていた。

しかし究極的な世界のとらえ方に対して、正しいとか間違っているとか言う判断は出来ないのではないかという気がしてきた。それは考えれば考えるほど分からなくなってくるもので、唯物論が正しいというのも、客観的な判断ではなく一つの解釈に過ぎないのではないかと思えてきた。つまり唯物論とか観念論とか言うものは、真理性を判断する対象にするのではなく、一つの発想法として利用する方が有効なのではないかと感じてきた。



日常感覚の判断に利用するとしたら、この発想法としての利用が考えられるのではないかというアイデアが浮かんできた。発想法として利用するというのは、どちらが正しいかという判断をするのではなく、どちらの視点でもそれを眺めることが出来るという、視点をずらすことを可能にするような発想法として利用すると言うことだ。

あまり日常的ではないかも知れないが、いわゆる「南京大虐殺」に関する二項対立で、それが「あった」か「なかった」かという議論がある。この議論に対して僕は以前からある種の違和感を抱いていたのだが、その違和感を解決するようなヒントを、唯物論と観念論という考え方を発想法として利用するという方向に見出すことが出来た。

唯物論的な発想というのは、あくまでも物質的存在の方から、その反映としての認識が訪れるというものだ。その認識は基本的には五感が感じる感覚を基にしている。この感覚が間違いかも知れないという発想は観念論の方から生まれてくるものだが、議論を難しくしすぎるので、発想法としては、素朴に存在の属性が感覚に感じられて反映するというものを唯物論的なものと考える。

このような唯物論的な視点というのは、対象が客観的に存在することを前提にしているので、他者との合意が出来る判断が生み出される。存在する対象の属性を、同じように感覚出来るなら、その感覚から生まれた判断は共通のものを持てると思うからだ。

「南京大虐殺」の場合で言えば、このような対象の属性としての感覚的判断としては、そこで大勢の人が死んだという事実ではないかと思う。「南京大虐殺」がなかったと主張する人たちも、そこでは多くの人が死んだと言うことまで否定する人はいないように思われる。

意見に違いが出てくるのは、その死をどのように解釈するかと言うときだ。戦闘行為の末に死んだという解釈をすれば、戦争である以上やむを得ないものと考えることも出来る。物事を解釈するときは、何らかの価値判断がそこに入り込む。そうすると価値基準が違う人間の間では解釈が違ってくる。他者が合意出来る事柄というのは、基本的には価値判断が入り込まない、純粋に唯物論的な対象の物質的属性の判断においてだけではないかと考えられる。価値基準を同じにする人間同士が合意するのは、他者の合意とは言えないような気がするからだ。

解釈という行為が入り込むときは、その判断は観念論的な発想だと考えた方がいいのではないだろうか。つまり、対象の属性をただ反映しているだけではなく、自ら持っている観念的な価値基準というものを対象に投影して、対象の中に価値基準を押しつけているのではないだろうか。

「南京大虐殺」が「あった」とか「なかった」とか言う判断は、実は客観的な対象に対する判断ではなく、自らの抱いている「大虐殺」の定義の中に潜む価値基準というものが投影されているのではないかと思われる。だから、その価値基準を前提にすれば、「あった」という判断も「なかった」という判断も、ともに解釈としては成立すると考えた方がいいのではないかと感じる。

だからどちらも正しいのだと主張するのではない。むしろ、正しいか正しくないかという主張はあまり意味がないということを言いたいのだ。論理的には仮言命題としてそれを捉えて、ある前提の基では成立すると言うことを主張しているのだと受け取った方がいいと思う。だから大事なのはその前提の方であって、結論としての「あった」か「なかった」かというのは、論理的には重要ではないと言う感じがする。

この前提がご都合主義的なものでなく、充分整合的なものであれば、その結論も説得力のあるものになるということになるのではないかと思う。この前提には価値基準のようなものが含まれているだろうから、実は結論から逆に考えてその主張をする人の基本的な人間観や世界観・倫理観といったものがそこから読みとれると言うことになるのではないかと思う。

「南京大虐殺」が「あった」か「なかった」かという主張は、客観的な事実としてそれを語っていると言うよりも、実は主張している当人の人間を語っているという受け取り方の方が当たっているのではないかとも感じる。これは観念論的発想だと思う。その言葉が対象について語っていると受け取るよりも、言葉はその発言者の心を語っていると受け取るわけだ。

このような考え方は、「南京大虐殺」という重要な事件を曖昧化する議論だという批判もあるかも知れない。しかしそもそも「南京大虐殺」という対象は、その存在を単純に考えることの出来ない複雑な対象になっているのではないだろうか。複雑化していることが問題だという考えもあるかも知れないが、問題だと言っても、現に複雑化している状況ではそれを指摘するだけでは何も解決しない。

「南京大虐殺」という言葉はイメージが先行している言葉のように感じる。その言葉を発すると同時に、何か不当な行為が行われたというイメージも生まれる。本来は不当な行為が行われたからこそそれが非難されるという順番でなければならないのだが、「南京大虐殺」という言葉を使うと、それが使われることで非難が成立してしまう。

これは、運動的にはスローガンとして人々を煽動するのに役立つ言葉かも知れないが、正しい認識を得たいと思う人は、誤謬に陥る可能性がある言葉として意識しておいた方がいいのではないかと思う。自分の中にある価値基準を存在の方に押しつけるという観念論的な方向になりやすいと思う。この観念論的方向は、それだけで間違っているとは言えないが、他者の合意を得るのは難しくなるだろう。

他者の合意を得るには、そこに不当な行為が存在したと言うことを客観的に示すことが必要だと思われる。そしてそのように努力している人はたくさんいるだろうと思う。しかし、「南京大虐殺」という言葉が一人歩きしていると、その努力がなかなか本当に実りある方向へ行かないのではないかとも感じる。センセーショナルな言葉で人を煽動すると言うことをもう一度考える必要があるのではないかと思う。煽動というのは、ある意味では同じ前提を持っている人間にしか効果がないものだと思うからだ。大事なのは、同じ前提を持たない他者と合意することではないかと思う。他者との合意こそが、本来の民主主義の実現になるのではないだろうか。

唯物論と観念論を発想法として利用すると言うことは、自分の立場を自由にずらすことが出来ると言うことでもある。これは便利ではあるが、基礎を持たない根無し草のように曖昧な立場になってしまうと言う欠点もある。どちらの立場もよく分かると言うことになると、自分の主張がなくなってしまうという主体性のなさにもつながってくる。

この欠点はどう避けたらいいだろうか。最後の主張の時は観念論的に振る舞うことが必要になってくるのではないかと感じる。唯物論的な立場を取ると言うことは、どこまでも他人事のように外から存在を眺めるという視点になる。それを、自らの価値基準を押しつけるような観念論的な視点を持って考えることによって、自分の主張が前面に出てきて主体性を確立出来るような気がする。

客観性ばかりを考えていると、世の中はそのようになっているから仕方がないという発想が生まれてくる。主観を意識することによって、「そうしたい」「そうあるべきだ」という自分の価値観が出てくるような気がする。この主観は、自分の思い込みである場合も多いだろう。しかし、それをまずは出してみないと間違っているかどうかも分からない。

取り返しのつかない失敗になるのではなく、修正のきく間違いとして自分の主観が出せるようになれば、試行錯誤の末に正しい道が見つけられそうな気がするが、これがなかなか難しいのだろうなと思う。主観は、科学における仮説のようなものとして捉えればいいのだが、主観はどうしても価値観と結びつくので、科学の仮説のような客観性を持てない。失敗が単なる客観的判断のミスにとどまらず、人格的な問題とも結びついてしまう。

犯罪行為をしたとして追求されている堀江氏や村上氏は、客観的判断ミスをしただけなのか、人格的にも問題があるかというのは微妙な問題だと思うのだが、マスコミの論調は、この失敗を人格的なものにも結びつけていたように感じる。このような風潮は、失敗を許さない日本社会という特徴を表しているのではないかとも感じる。もしそうなら、日本社会は、なかなか観念論を発想法として使うことが難しいかも知れない。

それが単なる発想法なら、間違えることは避けられないし、間違えても大したことではないと思えるのだが、主観的に間違えることがその主観を持っている人間の人格に結びつけられた場合、我々は間違えることを恐れるようになるだろう。

僕は、唯物論や観念論を発想法として役立てたいと思っているけれど、なかなか難しい面を持っているかも知れない。もっとよく考えてみようと思う。
[PR]
by ksyuumei | 2006-06-29 10:07 | 唯物論・観念論


<< 言語なしの思考は出来るか 「馬は動物である」という判断は... >>