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具体的な対象に対する論理と抽象論の展開

昨日本屋で仲正昌樹さんの『ラディカリズムの果てに』(イプシロン出版企画)という本を買った。この本の帯には


「おい!
 そこの“ラディカル”な左翼(バカ)!
 うるさいから黙ってろ。」


という過激な言葉が書かれている。自分のことを「左翼」と規定している人から見ると、自分の悪口を言われているようでかなり気分が悪くなるのではないかと思う。これは、「左翼」という言葉が指し示す対象の範疇に自分が入るのではないかと、この言葉の意味をそう受け取ってしまうときに起こる気分の悪さだろうと思う。

僕も、かつては三浦つとむさんのマルクス主義に共感し、社会的な再配分は正しいと思っていただけに、一応左翼の中に入りそうな感じがする。しかし、僕は仲正さんのこの言葉を読んでもさほど気分の悪さを感じない。この悪口が自分に対するものだとは感じていないからだ。



同じ「左翼」という言葉で指し示される対象であっても、仲正さんがここで語っている「左翼」と、僕が自分のことを自覚的に捉えている「左翼」とでは、意味が違うのだという受け取り方をしているからだ。形式が同じでも内容が違うという、「同じ」と「違う」という正反対の性質を背負う矛盾として、弁証法的なとらえ方が出来れば、仲正さんが語ることを、視点が違う見方の一つだと受け取ることが出来る。

仲正さんがここで悪口を浴びせている「左翼」とは、抽象的に定義された対象としての「左翼」ではなく、具体的に仲正さんが出会ってきた、生きて行動する人間としての「左翼」なのだ。この具体的な存在としての対象が、仲正さんが悪口を浴びせたくなるような属性を持っていたと言うことを語ったのがこの本なのだと僕は受け取っている。

仲正さんが出会った具体的な人間としての「左翼」が、仲正さんが浴びせた悪口がふさわしい相手なら、仲正さんがそう語るのももっともだと共感することが出来る。その反対に、その具体像が、仲正さんが浴びせる悪口にふさわしくないのなら、ちょっと言いすぎだなと感じるだけだ。まだ全体を読んではいないので、総体としての感想は持っていないが、悪口を語った本としての気分の悪さはあまり感じない。仲正さんの語り方が論理的だからなのかも知れない。

仲正さんが語る「左翼」と、抽象的一般的なイメージとしての「左翼」は違うものだが、これを重ねてしまうと、仲正さんが語る「左翼」は「左翼」ではないというような非難が生まれてくるのではないか。これは、いわゆる「ネット右翼」論争において、そのようなものは存在しないという言い方があったものによく似ている。

「ネット右翼」を語っていた人々は、具体的にネット上で掲示板などを荒らしていく人間たちをそう呼んでいたのだが、具体的な存在ではなく、この言葉に含まれている「右翼」という言葉に反応して、彼らは「右翼」ではないからそのような存在はないというような議論が少なからず見られた。

仲正さんはある具体的な対象を「左翼」と呼んで、その対象の属性を非難している。もう少し具体性を絞り込むと、「“ラディカル”な左翼」という言葉で表現出来るだろうか。これはあくまでも具体的な対象であり、抽象的対象としての、カント的な物自体ではない。まず規定としての定義が存在して、その定義に当てはまる存在を想定するというものではない。だから「左翼」という言葉の定義とはまったく関係がない。この言葉は、具体的な対象に付けたラベルに過ぎない。

だから、仲正さんに反論するには、仲正さんが具体的に語っている対象が、仲正さんが浴びせている悪口にふさわしいか具体的に指摘する必要があるだろう。それを、そのような「左翼」は存在しないとか、そのような存在は仲正さんの頭の中にある幻想であって観念論的妄想だというのは的はずれな指摘になるだろう。「左翼」という言葉を抽象的に解釈すれば、それはそのままで現実に存在するはずはないので、抽象的な理解はすべて幻想であり、観念論的な妄想に入るようなものになってしまう。

仲正さんがここで語っている「“ラディカル”な左翼」とは、帯の部分を見ると次のような具体的存在として書かれている。


「ここで私が「サヨク」と呼んでいるのは、「私(たち)が反権力の声を挙げなかったら、世の中の人たちは悪い権力者に騙され、抑圧され続けるだけだ。私(たち)は闘わねばならない」という独りよがりの思い上がった使命感を、誰から頼まれたわけでもないのに抱いているとんまな連中である。」


このような人間が実際にいたら、それはやはり悪口を言われても仕方がないだろうと思う。「独りよがりの思い上がった使命感」を謙虚なものにする努力をしなければ非難されても仕方がない。自分が正しいとは思うが、それをパターナリズム的な押しつけではなく、相手にも納得してもらえるような説得力を持って説明出来るようにしなければ「独りよがりの思い上がった使命感」になってしまうだろう。

仲正さんが悪口を浴びせる相手がこのようなものだったら、それは悪口を言われても仕方がない。しかし、そうであるなら、悪口を浴びせたい相手をまず設定して、その後で自由に悪口を浴びせるというご都合主義的な論理の運び方にも見えてしまう。同じように悪口を浴びせたいと思っている人間は、その悪口に拍手喝采するだろうが、これがご都合主義的なものだったら客観的な説得力は持たなくなる。

仲正さんが語る悪口がリアリティを持つには、その語っている具体的な相手が、世の中に確かに存在しているというリアリティが必要ではないかと思う。頭の中で空想的に作り上げた相手ではなく、確かに現実にそういう人間がいると言うことが、多くの人の経験としてもよく分かり、仲正さんの表現もそれにふさわしいと言うことが納得出来るとき、仲正さんの語る論理がご都合主義ではなく、現実に即した説得力のあるものになるのではないかと思う。

僕は、以前にフェミニズムに対して批判しようと思って失敗したが、それは具体的な対象を語らずに、頭の中で空想的に設定した対象に対して論理を展開したことに間違いがあったと思っている。もし抽象的な理論としてのフェミニズムを批判するのなら、その論理構造にまで踏み込まなければならなかったのだが、論理的な整合性については僕はほとんど語らなかった。

むしろ、現実的に行き過ぎる「可能性」というものを語って、その「可能性」の結果を空想的に設定して語ったために、現実的なリアリティを失い、妄想的な幻想に非難を投げつけるというご都合主義的な論理展開になってしまった。フェミニズムという対象を、抽象的なものにするのではなく、具体的なものとして捉えていれば、批判をしたとしてもある程度のリアリティを持たせることが出来ただろうが、僕には具体的な対象としての経験がなかったのでそのような論理展開にならなかった。

仲正さんは、具体的に「“ラディカル”な左翼」とのつきあいが豊富にあるようだ。だから、ここで語られていることにもかなりのリアリティがあるのではないかと思う。

仲正さんは、


「本書は、「この世に頭痛の種になるだけの害悪を撒き散らす塵芥のごときサヨクどもは一匹残らず、マルクスの亡霊と一緒に地獄の穴蔵にさっさと戻ってくれ!」、と私が思うに至った理由を、イプシロン出版企画編集部のインタビューに答える形で、けっこう適当に語り下ろしたものである。それほどマジな批判ではない。」


とも書いている。抽象的な理論であれば、かなり厳密な論理展開で、論理の踏み外しがないように注意しながら展開していかなければならないだろうが、具体的な対象を語るときは、その具体性が論理を規定してくるので、あまり感情に流されなければ論理的な踏み外しもないのではないかと思う。

しかし「サヨク」を語る仲正さんは、かなり感情的にもなっている感じもするので、時には言い過ぎの部分があるかも知れない。それでも、具体的対象を語る論理として、抽象論の名人である仲正さんがどのような語り方をするかというのは面白さを感じる。

数学は抽象論の最たるものであり、数学者の藤原正彦さんは、おそらく抽象論の展開については名人級の人ではないかと思う。その藤原さんが、自分の感情のもっとも深いところに触れるような問題では、かなりご都合主義的な論理展開をして具体性を欠いているように感じたのが『国家の品格』という本だった。これは、対象が具体性を欠いた「国家」だったために、そのような論理展開になってしまったのではないかと感じる。

藤原さんも、具体的な対象について語るときは、ほとんど常識的には当然とも言えるようなことを語っているのではないかと思う。それが、最後に国家と結びつくときに、どうしてもご都合主義的なものを感じてしまう。

仲正さんの論理展開がどうなっているかはまだ読んでいないので分からないが、あくまでも具体的対象に即して、それから離れずに論理が展開されるなら、抽象論の名人が具体論をどう展開するかと言うことで面白い論理を教えてくれるのではないかと思う。そんな視点で仲正さんの本を読んでみようかと思う。
by ksyuumei | 2006-06-26 10:01 | 論理


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