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素朴な直感とパラドックス

僕が論理に関心を持ち始めたのは、数学を本格的にやり始めたときに、その基礎がさっぱり分からなくなったことがきっかけだった。素朴な直感に支えられて数学をしていた高校時代まではほとんど躓くことがなかったのに、厳密に数学を考え始めたとたんにその厳密さが理解出来なくなった。

厳密にものを考える訓練として僕は記号論理を勉強し始めた。そしてその時に、数学の基礎においても厳密に考えれば考えるほど奇妙なことが見えてくるという「パラドックス」の世界を知ることになった。

集合論におけるラッセルのパラドックスは、ものの集まりを集合とするという素朴な直感的定義の中に含まれる論理の危うさを教えてくれた。集合というのは、とりあえずそこに何が集まっているかが明確に規定出来るもの、すなわちそこに属するか属しないかが明確であれば集合として対象に出来るというのは、素朴な直感としては正しいように思われる。




集合の定義として有限集合の場合はこの定義はまったく問題がない。どんなに要素が多くても、有限集合ならばすべてを確かめることも出来るからだ。しかし無限集合を考えると、この定義が「すべて」の要素に対して確かめることが出来るかどうかで、その正しさに危うさが生じてくる。

自然数のように、ある要素に対して一つ大きい要素を構成的に作り出して、その無限の対象を具体的に把握出来るようなものは、「すべて」に対して言及しても問題が起こらないように思われる。可能無限に対しては、それを把握出来ると考えられる。しかし、実数のような集合に対しては、それを構成的に作り出すことが難しい。

デデキントが切断というような考え方を提出したのは、構成的に作り出せる自然数を出発点として、その自然数で構成的に作り出せる有理数を元に、実数を作り出そうという意図から考えたのではないかと思う。少しでも可能無限の対象に近づけようという努力ではないだろうか。

個々の具体的な対象に関しての考察では、数学ではこのように慎重にその無限性を取り扱ってパラドックスを避けると言うことをしているのだと思う。しかし、その理論が、それを成立させている数学的世界の全体に言及するときには、個々の対象を越えた抽象論のレベルが一段上がったところで深刻なパラドックスが生じるような気がする。

ラッセルのパラドックスでは、集合論が対象にするあらゆる集合について言及する。そして、集合論の世界全体を二分するような集合を考える。自分自身を要素として持つか持たないかと言うことで集合を考えてみる。

この規定は数学的には明確だ。集合というのは、ある要素がそれに属するか属しないかが明確になっていなければ集合という数学的対象にはならない。だから、自分自身が自分に属する要素であるかどうかが明確に出来るはずだ。このような集合は、素朴な定義においては集合として対象に出来る。

そこで自分自身を要素として含まない集合を寄せ集めて大きな集合を作ってみる。これは自然によくある集合だ。大部分は自分自身を要素として含まないとも言える。例えば自然数の集合は、対象としての正の整数を含むけれども、自然数という抽象的な対象そのものは含まない。自分自身を要素としては含まないのだ。

このようなものを寄せ集めて作った大きな集合は、果たして自分自身に含まれるかどうかを考えるとラッセルのパラドックスが生じる。この集合を仮にXとしておくと、


  Xは自分自身を含む   → Xの規定によりXは自分自身を含まない集合である

  Xは自分自身を含まない → Xの規定によりX自身はXに含まれる


いずれの仮定の下でも、その肯定と否定が同時に成り立つ命題が生まれる。つまりパラドックスが生じるというわけだ。このパラドックスは、世界の全体を包括するような集合を集合論の対象から排除するような工夫をすることによって避けられている。世界の全体に言及してしまうときは、数学といえどもパラドックスを避けられないと言うことが分かる。

ゲーデルの不完全性定理なども、世界の全体に言及したときの論理の限界を語っているのではないかと僕には思える。自然数論で、個々の自然数を対象にした命題を考えている限りでは、そこには矛盾は生じないし、個々の数学的対象に関する性質はかなり完全な形で解明されている。

しかし、これを自然数論全体に対する言及を考えると、その無矛盾性と完全性が両立しないと言うことがゲーデルの不完全性定理の内容になる。その体系が無矛盾であっても、その中で真であるにもかかわらず証明不可能な命題が存在してしまう。これは、どの命題がそのような証明不可能なものかは分からないが、無限に多様な命題を持った自然数論の世界の全体をいっぺんに把握出来ないと言うことを物語っているのではないかと思う。

無限の対象の中には、我々の論理では捉えきれない対象が存在していると言うことをゲーデルの定理は示しているのではないかと思う。これは論理の限界ではあるが、具体的な対象を考察している限りでは、それは有限の範囲の世界の出来事であるから、このパラドックスは深刻な影響は与えないのではないかとも思う。無限をいっぺんに、その全体性を把握しようと意図したときに、このパラドックスは深刻な影響を持ってくるだろうと思う。

カント的な物自体という対象も、このようなパラドックスに似たものであるように僕は感じる。唯物論とか観念論とか言うものは、我々が生きている世界全体がどのような性質を持っているものであるかに言及する、世界の全体性に対する言明だと僕は思う。全体性に関する言及から不可避的に生じてくるパラドックスが物自体というものではないだろうか。

物自体は、存在という属性のみを持った対象として抽象されている。具体的な存在ではない。だから、物自体は、他の属性を持ったものとして人間に観察されたときはもはや物自体ではなくなってしまう。その定義に最初から、人間には認識され得ないものであるという規定が含まれている。

人間には認識され得ないものであるにもかかわらず、このような対象が、人間の意識とは独立に存在しているかどうかは、唯物論の規定には深刻にかかわっているのではないだろうか。もし、このような物自体というものが、我々には認識されることがないのだから、それは存在していないのだと結論するなら、存在の判断を我々の認識を基礎に行っていることになる。これは唯物論ではなく観念論になってしまうのではないだろうか。少なくとも不徹底な唯物論であるとは言えるのではないか。

唯物論も究極の場面では観念論と妥協して共存しなければならないと言うのが、我々の認識や論理の限界というものかも知れない。もしかしたらそういうものかも知れないと言うのが、今の僕の考え方だ。この妥協を嫌って、あくまでも唯物論の立場を守るなら、それは世界の全体に関する記述はあきらめるというか、集合に対してある種の制限をしてパラドックスを避けたように、認識の対象に制限を設けて唯物論の規定を守ることが必要なのではないかと思う。

自然科学の世界では、対象になるのは限定された具体的な世界の対象だけだ。世界の全体に対して言及しようという意図は自然科学にはない。だから、自然科学の世界では、常に限定された認識の対象について語るので、ここでは常に唯物論の規定が守られているとも言える。

自然科学の世界では物自体の問題は解決されてしまう。それは具体的な有限世界の話になるからではないかと思う。抽象的な無限を扱わずにすむからではないだろうか。しかし、これが自然科学の範囲にとどまらず、哲学の世界の話になってくると、我々の考えの及ばない無限の世界が登場してくることになりそうな気がする。

世界の全体を把握するという抽象論は、普遍性を考える上では便利で魅力的な考え方だ。それだけに、その落とし穴としての無限性や物自体の問題は一度考えておくべき価値のあることではないかと思う。普遍性と特殊性を取り違えて間違えるときと言うのは、世界の全体性を考えているときに陥りやすいのではないかと思う。

物自体の問題も抽象的に現れるだけでなく、具体的には、自分の頭の中にしかない存在を実在だと思い込むときに、物質的な存在を基礎にしていないという点で、その観念的な存在は物自体だと呼ぶことが出来るのではないだろうか。抽象的な存在そのものに、観念的な属性を押しつけているだけだと。

その存在を自分自身で確かめたものではなく、その情報を聞いたり見たりして、ある意味では言葉の上でだけ知っている存在というのは、限りなく物自体に近いのではないかとも思える。

人間がまだ存在していなかった太古の地球について、我々はそういうものの知識を言葉の上では知っている。しかし、本当にそのような存在があったのだろうか。そこには人間はいないのだから、人間の認識の対象になるようなものは全くない。物自体の世界だと言ってもいいのではないか。そのような対象に対しても、我々がその存在を信じるのは、何らかの痕跡が鏡として残っているからだと思う。しかし、その鏡を知らないで、言葉の上でだけ、そのようなものの存在を知っているのだとしたら、それは物自体から物になっていると言えるだろうか。

素朴な直感はパラドックスにつながる道を持っている。厳密な論理的考えで、その道を踏み外すことなく、パラドックスを克服したいものだと思う。
by ksyuumei | 2006-06-20 09:52 | 論理


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