二項対立の図式について

昨日本屋で見つけた仲正昌樹さんの『分かりやすさの罠』(ちくま新書)という本が面白い。まだ最初の部分しか読んでいないのだが、二項対立というキーワードで世の中の現象を見ていくと、いろいろとその意味が分かってくるようなことが多いのではないかと感じさせてくれた部分が特に面白いと感じた。二項対立というメガネで眺めてみると、今まで見えなかったものが見えてくるという感じだ。

二項対立というのは、ある主張とその正反対のものを提出して、どちらに賛成かというものを問うものだ。ある主張に対して賛成か反対かを問うというものになる。ちょっと前の話題でいえば、郵政民営化に対して賛成か反対か、というようなものがあった。今のことでいえば、共謀罪に対して賛成か反対か、というものや教育基本法の「改正」に対して賛成か反対かというような二項対立があるだろうと思う。

二項対立というのは物事を単純化して分かりやすくする。郵政民営化に対して賛成するなら、「改革賛成派」であり、それに反対するなら今までの既得権益を守る「守旧派」だという理解を人々に迫る。これが正しいものであるなら、この二項対立は実に分かりやすい論理になる。どちらかが正しいものであり、どちらかが否定されるのなら、形式論理的には「排中律」と「矛盾律」が成り立つというすっきりした世界が現れる。



しかしこの分かりやすさは形式論理の世界の分かりやすさということになる。現実を対象にした考察では、このような単純な構造を持った論理にはならない。郵政民営化に賛成することが、それだけで改革という現実の問題を解決する方へ向かうことになるとは限らない。現実の問題は具体的に考えれば矛盾した面を見せる。民営化のある側面は確かに現実の問題の解決になるような改革になるだろうが、他の側面では、現実の問題を解決するどころか、問題を隠蔽し利権を温存するために働く可能性もある。

郵政民営化といっても、そのすべてに賛成であるとか、そのすべてに反対であるという単純な立場は少ない。具体的な各論で賛成か反対かが変わってくる。そのような複雑さを、二項対立は覆い隠し、単純化して簡単にすることによって人々の誤った判断を呼び起こすことにもなる。

共謀罪に関しても、社会に多大な影響を与える凶悪犯罪に対しては、通常の犯罪に対するものと違う対応が必要だ、という一理ある理屈が存在する。この理屈が正しいとしても、それだけで具体的な共謀罪に賛成出来るわけではない。しかし、これを二項対立の図式にしてしまえば、そのような凶悪犯罪の発生を防ぐことに賛成なのか反対なのか、という単純な図式が生まれる。これに反対することなど出来ないので、共謀罪に賛成する方が当然だという簡単な形式論理的な結論がここから導かれる。しかし、これは現実の複雑さを捨象した、頭の中の世界だけの判断をしている間違いになるだろう。

このような二項対立の弊害について、多くの人々は気づいているだろうと仲正さんは指摘している。しかしそれでも二項対立は社会のいろいろなところで見ることが出来る。仲正さんの指摘では、特に左翼的な言説が現状批判をするときに、二項対立的な観点で批判をすることが多いと語っていた。だが、これには仕方がない理由もあるという。孫引きになるが、仲正さんが引用している斉藤貴男さんの次の文章にその理由が語られている。


「極端な物言いはしたくない。「テロリストか正義か」とわめき散らすブッシュ流アジテーションを批判しながら、一方で権力対民衆の構図を強調してきた自分自身にほとほと嫌気もさしている。しかし、世界は複雑で、そのような二項対立では片づけられないと語ろうとすれば、何よりもまず、小泉政権の本質を示してみせるしかないではないか。
 そして彼の目指すところの新自由主義に基づく構造改革とは、とどのつまり日本社会をアメリカのようなものにしていく過程に他ならない以上、攻撃するこちらまでが単純化してしまうジレンマから逃れられないのである。」


簡単で分かりやすい小泉流の物言いがポピュラーになっている現状を考えると、たとえ現実の複雑さを正しく捉えて語ったとしても、それが理解するのに難しければ、人々に訴える力が弱まってしまうというわけだ。だから、まず分かりやすいところから、相手の矛盾をついて批判しなければならないとすると、単純さに単純さで対抗しなければならなくなるジレンマがあるというわけだ。

このような理由に対して仲正さんは次のように批判をする。


「斉藤が指摘しているように、相手方が単純なレトリックで庶民の目をくらまし、複雑な現実に目を向けさせないようにしているので、自分たちも庶民にまず“目を覚まして”もらうため仕方なく、庶民が振り向いてくれるような庶民にとって分かりやすい単純な言葉で語っている、というのである。しかし、それではまるで、庶民には全然主体性がなくて、右から何か吹き込まれたら右になびき、左から吹き込まれたら左になびくので、たくさん言ったもの勝ちだといっているようなものである。」


自分たちが呼びかけて訴えようとする相手をどう捉えているかで、二項対立的な単純さを用いるかどうかが決まってくるような感じだ。それでは、訴えかける相手を主体性を持った相手として捉え直せば、単純さを越えた二項対立ではない、現実の複雑さを反映したような言い方に変えることが出来るだろうか。これはかなり難しいのではないかと思う。

人間の主体性を信じると言うことはそれほど難しくはないと思う。わがままも主体性の一種だと捉えれば、どんな人間にも主体性の一端は感じることが出来る。しかし、二項対立を越えるには、立場にとらわれない第三者の位置というものを自覚しなければならない。二項対立のどちらかの立場からの主張に共感する自分を感じている間は、この位置に立つのはたいへん難しい。

この難しさは、第三者的な立場に立ったからといって、それが必ずしも正しい判断だとは言えないからだ。時には一方の立場に立って考えることが正しいときもある。それは具体的な検討をしてみないと分からない。一般論では結論出来ないことだ。時には二項対立的に考えることが正しいことがある。問題は、それが正しくないときに、第三者的な立場に立って二項対立を越えることによって正しい判断をもたらすことが出来るかどうかを考えることだ。

第三者的な立場に対する拒否感というのもあるようだ。立場を明確にせずに、他人事のように語るのは無責任さのあらわれのように感じることがあるらしい。僕などはそれこそが客観性の表れだと思うのだが、他人事のように語る非情さは自分の問題として深刻に考えていないことのあらわれだと受け取られるようだ。仲正さんも次のように書いている。


「しかも、カンタンに二項対立している人たちに対して、私のような人間が第三者的な立場から批評を加えると、必ずといっていいほど、「仲正は自分の問題としてではなく、他人事のように語っている。ああいう文章に触れるのはよくない」などという拒絶反応をする人々がネットに登場したりする。二項対立の一方の側に身を置いていないのは、高みに立ったつもりになって無責任なことを言っている不真面目な輩であり、そういうものを相手にしてはならない、という妙な価値観が働いているのである。私自身は、こういうおバカなカンタン系の人たちをマトモに相手にしたくないので、放っておいてもらった方がいい。今はもう冷戦的な二項対立的発想の時代ではない」と言いながら、自分自身はますます二項対立的な図式にはまりこんでいる大小の評論家が増殖している状況にはうんざりしている。」


二項対立を超える最大の難しさは、人間はある立場からの主張しかできないという人間観にあるのではないだろうか。第三者的な立場は、その立場を忘れているだけであって、客観性を装っていながら実は本当の深い部分ではどちらかの立場を代表しているに過ぎないのだという人間観だ。

確かに無自覚な客観的立場というのは、構造的無知から自分の立場を忘れているに過ぎないのだろうが、意識的に反対の立場に立つことによって、本来は自分の立場は違うのだが、技術的にその立場を越えると言うことは出来るのではないだろうか。宮台真司氏が言うところの「フィージビリティ・スタディ」というものが、立場を越える客観性をもった立場になるのではないだろうか。

左翼の立場から右翼を批判したり、逆に右翼の立場から左翼を批判したりするのは、これは批判があって当たり前だ。二項対立図式の中にあるのだから。しかし、これはどちらかの立場に共感している人間にしか説得力を持たないだろう。このとき、自分の立ち位置が、右翼的あるいは左翼的と言うことであまりにも明らかである場合は、なかなかその二項対立を越えることは出来ないだろう。

しかし、自分の立場がそのように鮮明なものでなく、どちらかといえば左翼的であったとしても、その心情をカッコの中に入れて、あえて両方の立場に立つことを思考実験として考えることで、立場を越えた客観性を持たせることが出来るのではないだろうか。だから、客観性を持てるのは、自分が当事者でないことを考えるときだと言えるだろうと思う。

宮台真司氏は、都立大の改革が問題になっているとき、そのことに関してはまったくコメントをしなかった。それは、宮台氏が当事者になっている問題であり、すべてが当事者としての発言になってしまい、客観的なことは何も言えないと判断したからだった。当事者としての発言は、その当事者としての責任が重い人間が、立場からの発言をすればいいと思っていたようだ。

立場からの発言がすべて間違いではなく、それが必要であり重要である場合もある。だが、それは立場上の発言であるということを前提にして理解した方がいいだろう。自分の発言が立場上のものであるという理解が出来れば、相手の発言も立場上のものであることが理解出来るだろう。そうすれば、立場上はそう考えるのも合理性があると分かれば、立場を越える客観性を捉える可能性も出てくる。第三者的な立場というものをそういうものとして考えるといいのではないかと思う。

仲正さんは、


「「世界は複雑であり、二項対立では片づけられない」ことを多くの人は抽象的には理解しているが、いざ自分の考えを表明すべき立場に立たされると、何らかの形で「世界」を、自分にとっての「敵/味方」に単純に切り分けて、“分かりやすい答え”を出して、安心しようとする。その安心感を振り切って、複雑さを再認識するのは非常に困難になる。」


と書いている。これは肝に銘ずべき言葉だと思う。二項対立という分かりやすさの誘惑を振り切って、複雑な事象は複雑なままで認識することに努めなければならないと思う。それは本質を捉えたときだけ単純化出来るのだと思う。本質を表現するときにのみ、真理としての単純さを獲得するのだろう。
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by ksyuumei | 2006-06-13 10:47 | 雑文


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