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徴兵制あるいは軍隊の功罪について

宮台真司氏は、韓国と日本との大衆の意識の違いについて、徴兵制というものの存在を大きな要因としてあげることがある。韓国には徴兵制というものがあるので、それを経てきた男たちは、国家というものを強く意識し、不条理な世界での生活が日常性を見直すきっかけになるという。

韓国では、徴兵によって軍隊の生活をすることによって、男は大きな成長を遂げるという。子どもから大人になる通過儀礼として重要な意味を持つものが徴兵だという。宮台氏の弟子だという韓国人のイ・ヒョンソク氏が原作を書いた『軍バリ』というマンガがあるが、ここでも主人公のキム・ジンという二十歳の青年が成長する姿が描かれている。

国家を守るという意識は、個人の利害を超えて公共の利益を考えさせることになる。ある意味での市民感覚を育てることにもなるだろう。旧日本軍のように、滅私奉公の自分をまったく失うような軍隊生活には、主体的に公共性を身につけるという点では弊害をもたらすだろうが、そのようなことがなければ軍隊生活は成長をもたらすという主張にも一理あるような気がする。国を守るという意識は、もっとも大きな公共性に支えられなければ出来ないことではないかと思うからだ。



しかし一方では次のような見方もある。神保哲生・宮台真司両氏がやっているマル激トーク・オン・デマンドに弁護士の安田さんがゲストで出たとき、安田さんの死刑廃止論に関連して、日本では凶悪犯罪が少ないということが語られた。安田さんは、その要因の一つとして、日本には徴兵制がないことがあるのではないかと語っていた。徴兵制がないので、殺すということを身近に感じることがない。だから、殺すという行為にまで行き着くようなことが少ないのではないかということだった。

これも一つの見方として一理あるものではないかという感じもした。徴兵制あるいは軍隊というものが功罪両面を持っているというのは、現実に存在するすべてのものに共通していることだろうと思う。問題は、どういうときに功の面を現し、どんなときに罪の面を現すかということを知ることではないだろうか。それが分かれば、罪の面を避ける工夫も出来るのではないかと思う。

『軍バリ』を読むと、今の韓国の軍隊での生活は、罪の面は少なく、男を成長させるという功の面が強く出ているようにも感じる。それに比べて、映画などで描かれる旧日本軍の軍隊生活は、そこで生活することによって人間的な成長がもたらされるということが感じられない。そこは非科学的な精神主義が支配し、むしろ非人間的な行為によって人間性を破壊するような感じさえ受ける。

実際の軍隊経験者は、映画とは違う面があって、男を成長させるところもあったのだと言いたいかも知れないが、映画に描かれているような面が旧日本軍にあったということで考えると、そのような軍隊生活の違いが、男の成長にどう影響するかを考えるのは、軍隊というものの功罪を考える上では何かの発見が出来るのではないだろうか。

旧日本軍のような形の徴兵制がなかったことが、安田さんが言うように、日本での凶悪犯罪が少ないことにつながっているのかも知れない。日本の犯罪対策については、ほとんど効果を認められるようなものがないということだ。意識的に行っている有効な政策がないのに、諸外国と比べて極端に少ない犯罪の現状はいったいどこからもたらされているのか。安田さんの予想が正しければ、一つの有効な知識が得られることになるのではないだろうか。

映画に描かれた軍隊と言うことになると、アメリカの映画などでも、崇高な理想の元に成長する男が描かれているものがある。若いリチャード・ギアが主演した「愛と青春の旅立ち」などは、男の成長という点がよく分かる映画だった。

『軍バリ』でもそうだったが、この映画でもひときわ感動的なのは、若い未熟な青年を指導する教官の素晴らしさだ。軍隊という特殊な場における特徴として、徹底した厳しさというものがあるのはもちろんなのだが、それは成長を見守る厳しさであり、決して相手を選別して優秀な人間だけを拾い上げようと言うようなものではない。

残念なことに、旧日本軍を描いた映画では、このように優れた指導者というものが描かれているのを見たことがない。個人的には立派で尊敬すべき人物というのが現れることがあるのだが、軍隊という組織において、そのように立派な人物がいることが普通で、ごく当たり前の振る舞いをしていればそのような優れた指導教官として存在出来るという描かれ方をしていない。

「愛と青春の旅立ち」の教官は優れた人物として描かれていたと思うが、それは特に優れている人物と言うよりも、そのような指導者がむしろ普通なのだという描かれ方をしていたように僕は感じた。映画だから、それは理想に過ぎないので、現実は違うのだということも言えるだろうが、少なくとも軍隊での優れた指導者はそういうものだという共通理解がアメリカ人にはあるのではないかと感じた。

映画やマンガで描かれているアメリカや韓国の軍隊の姿は、少なくとも非合理的な精神主義に支配されているようには感じなかった。旧日本軍は、非合理的な精神主義が強く支配していたように映画では描かれ、文章でもそのような記述が多いように感じる。ここに両者の大きな差があるのではないかとも感じる。精神主義は、全体的なバランスの取れた成長をもたらさないのではないだろうか。

アメリカの陸軍幼年学校を描いた「タップス」という映画では、精神主義の弊害が、アメリカの軍隊教育でさえも大きな間違いの方向へ向いてしまうことがあるということを描いていたように感じた。

ここに登場する軍人は、国家のために自らの命の危険も顧みることなく尽くす立派な人物として描かれている。公共性の最高のものを表現している。しかし、このように立派な資質を持っている軍人であっても、自らの信念のために死ぬことがあろうとも、名誉のために死ぬのは正しいのだという精神主義的な考えが支配してしまうと、より大きな世界での判断を間違える、ということをこの映画は描いていたように感じた。

この映画では、軍人教育を受けていた少年たちが、学校が閉鎖されると言うことの理不尽さに抗議するために立ち上がる姿を描いていた。その純粋な気持ちは痛いほど伝わってきて、彼らの願いを叶えてやることが出来れば、観客としても拍手喝采をしたくなる。

しかし、現実に描かれている姿は、彼らは信念のために死をも辞さない覚悟で抵抗をするという姿だった。その信念は美しいが、彼らが死を恐れない分だけ、彼らを止めようとする人間たちをも死の危険に巻き込むことになる。しかも、彼らを止めようとする人間たち(大人たち)は、彼らの気持ちが痛いほど分かるのだが、止めなければならないと言うこともよく分かる人間として描かれている。

最後の最後になって、少年たちの指導者の位置にいる最も優れた少年は、自らの誤りに気がつくのだが、暴走した信念を押さえることが出来ずに、大きな犠牲をもたらしてラストシーンを迎えることになる。犠牲を避けることができなかったのは、成長としては間違いであり、教育の失敗だと言える。立派な精神を持っていたにもかかわらず、このような失敗をもたらしたのはなぜなのか。それは、精神主義というものがそれをもたらしたのではないかと僕には感じられた。

彼らを止めようとする大人たちの中に、非常に立派な軍人がいるのだが、その軍人は、少年たちに死を賛美する思想を植え付けたことを非難していた。死ぬことが立派なのではない。生きることこそが大事なことで、本当の軍人というのは、最後まで生きることをあきらめないことだと語るその台詞に僕は共感した。

戦争においては結果的に死んでしまうこともある。だが、死ぬことこそが美しい、軍人としての立派な生き方だと考えてはいけないのではないだろうか。目的は立派に死ぬことではないのだ。あくまでも祖国を守ると言うことが本当の目的でなければならないはずだ。祖国を守るためには、死ぬよりも生きて働いた方がいい。無駄に死ぬことが分かっているなら、逃げる方が正しいという判断もしなければならない。

逃げることを許さない精神主義が、旧日本軍が男を成長させない原因だったのではないだろうか。もし軍隊というものが、男を成長させるものだとすれば、それはきっと合理的な判断の元に行動すると言うことがあるのだろうと思う。非日常的で、理不尽で非合理が充満している戦争という場面で、もし合理的に行動出来るなら、それはまったく立派な行動だと言えるだろう。
by ksyuumei | 2006-06-09 10:36 | 雑文


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