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「数学屋のメガネさんへの再批判。」に対する反批判 2

chikiさんからさっそく反応が返ってきたことを感謝したい。幸いなことに、今忙しいそうなので、この間に、「数学屋のメガネさんへの再批判。」の残りの部分に対する反批判を書いてしまいたいと思う。新しいエントリーで、批判の趣旨はさらに深く分かってきたのだが、それでもやはり疑問は解けない。

chikiさんは、「「たとえ善意から出発した○○であろうとも、それが極論にまで達すれば論理的には間違える」というのはどんな論理にも当てはまる」と書いている。つまり、僕が語ったことはある意味ではごく当たり前のことなのである。書き方が気に入らないということはあるだろうが、ごく当たり前のことに対してどうして過剰反応が起こるのかが僕には分からない。

僕は弁証法の正しさを確信しているが、それも条件を逸脱しない限りでの正しさだという自覚をしている。弁証法だってその適用範囲を逸脱すればいつでも詭弁に転落する。誤謬の可能性はいつでも存在する。それは当たり前のことであって、当たり前だからこそ、誤謬に敏感になって、どこで真理が誤謬に転化するかということを研究しなければならないと思う。



誤謬の研究は、宮台真司氏やその師匠の小室直樹氏も重要性を強調していたものだ。敗戦という明らかな失敗に対しても日本ではその失敗(誤謬)を深く研究することが出来なかった。そのような社会は、同じ失敗を繰り返す危険性がある。昨今の国会の状況を見ていると、そのような論理の繰り返しが起きているのではないかとも懸念される。

フェミニズムにもこんな所に論理が逸脱する可能性があるという指摘は、それほど非難されるようなことなのだろうか。これによってフェミニズムへの偏見や誤解が助長されると思っているのかなという印象を受けるが、この程度の論説で偏見や誤解が助長されるのであれば、すでにもう偏見や誤解の中にあるのではないか。

その偏見や誤解は、世間で流通しているフェミニズムは本当のフェミニズムではない、と切って捨ててすませられるものなのかどうか。むしろどこに誤謬を生むきっかけがあるかを、当事者が論じない限り、誰もその偏見や誤解から抜けることが出来ないのではないだろうか。

マルクス主義は完全に死んでしまったし、日本共産党は偏見と誤解の中にある。だが、共産党は自らの誤謬を明らかにして反省したことはない。無謬神話というものがはびこっている。誤謬は、誤謬を正しく認識してこそ真理に到達する。日本共産党が自らの誤謬を真摯に反省しない限り、最初から共産党を支持していない人間でない限り、外から見ている人間は共産党をうさんくさいものだと感じるのではないだろうか。

フェミニズムというまとまった陣営はないのだろうが、フェミニズムの側に立っていると自覚している人たちは、むしろフェミニズムが行き過ぎて誤謬に陥ることに対してもっと敏感に研究した方がいいのではないかと思う。そして、このような行き過ぎをすると誤謬に陥るのだから注意をしようと呼びかけた方がいいと思う。

僕の指摘が論理的に間違えているということであるならその指摘が欲しかったが、大部分は、僕が論じている「逸脱したフェミニズム」は、あんなものはフェミニズムでは無いという反応だった。これはとても冷たい言い方だと思う。「逸脱したフェミニズム」に陥って間違った行動や発言をしている人たちはたくさんいると思うのだ。それが妄想の中だけにしかいないというのは間違っていると思う。それが妄想だけなら、迷惑だと思って事実を報告する人もいないだろう。

この人たちは、まったく本来のフェミニズムとは関係のない人たちだと切って捨てることが出来るだろうか。本来のフェミニズムのある一部に反応して、その一部を肥大させてしまったために誤謬に陥ったのだとは考えられないのだろうか。そう受け止めれば、その人たちの誤謬に陥ったきっかけをもっと深く検討して、正しい道に戻るような援助が出来るのではないだろうか。それとも、間違いの中にいる人は、間違った人間が悪いのだから、切って捨てればそれでいいのだろうか。これは、人間の態度としてかなり冷たいのではないかと感じる。

筆坂秀世さんは、軽率な行動で失敗を犯した。それに対して共産党は、ミスを犯した筆坂さんを切って捨てて放り出しただけだった。冷たい組織だなと思う。筆坂さんが、ミスを挽回して頑張る姿を見せられれば、日本共産党に対するイメージもだいぶ変わっただろうにと思うのだが、今回の結果でイメージはさらに落ちただろう。

共産党に対してこのように語ることは、政治的には偏見と誤解を助長する言い方になるだろうか。僕はそう言われても仕方がないのではないかと思う。自業自得ではないかと思うのだ。誤謬に対して鈍感な姿勢がこのような結果を招いたのだから、それを指摘されても文句は言えないのではないかと思う。

chikiさんは、「「男女の違いを無理やり無視するジェンダーフリー論が跋扈(ばっこ)している」ことが前提になった」ということを問題にしているが、この前提が全くないと言い切れるかどうかにも僕は疑問を持っている。もちろん、そのような「男女の違いを無理やり無視するジェンダーフリー論」は、本物の「ジェンダーフリー論」では無いという批判はここでもあるだろうが、それが本物ではないということを認めた上で、あえてそのようなものが「跋扈している」ということはないと言い切れるだろうか。

もしそういうものが跋扈しているのであれば、それに対して不満や非難をする方が当然だと思う。この「男女の違いを無理やり無視するジェンダーフリー論」というのは、非難する人間の頭の中にしかない妄想なのか。それは現状認識としてどうなのか、ということが疑問だ。

もちろん、それが本物のジェンダーフリー論ではないということは同意してもいいと思うが、本物ではないということで済ませていいのかというのが僕の疑問だ。「男女の違いを無理やり無視するジェンダーフリー論」は、本物のジェンダーフリー論とはまったく関係のない、間違った人間が悪いだけのことなのか。それは、筆坂さんを切って捨てた共産党の冷たさに通じるものなのではないか。

また「デマの拡大解釈などに基づくメディアイメージ自体が疑わしいということが指摘されれば、そのイメージや発言の引用を利用した論理的展開は現実味や説得力を失います」と語っているが、現実にはそれは必ずしも成立しないのではないか。小泉さんの派手なパフォーマンスは、論理的にはひどいデタラメばかりで、メディアイメージも相当疑わしいものとして、笑いの対象になっていたように感じた。

しかし、選挙では圧倒的多数に支持されて自民党が圧勝した。小泉さんのイメージ戦略は、少なくとも選挙民に対しては「現実味や説得力」をもったのではないかと思う。これはメディア理論ではどう解釈されるのだろうか。それが嘘であっても説得力を持つ場合があるから恐ろしいのではないかと思う。ナチスドイツの宣伝というものをもっと深く学ぶ必要があるのではないかと思う。

僕は論理的に正しいことを求めていろいろなことを考えているが、論理的に正しいからといってその考えが主流派になるとは思っていない。三浦つとむさんのように優れた人でさえマルクス主義の陣営では主流派にはなれなかった。人々が論理的に深くものを考えるのはとても難しい。だから誤謬に陥ったとしてもそれは、対象が難しいものであればあるほど仕方のないものだ。だから、三浦さんは誤謬について深く考えるように勧めていたし、そのセンスを磨くことこそがかえって真理をつかむことになると僕も思っている。決して善意や正義では論理的な正しさは理解することが出来ない。

「周りの指摘が過剰なので偏見を強化しちゃいました」という評価は正しくないだろうと僕は感じている。あの程度の言説で強化される偏見などは、最初から強く存在するのだというくらいの自覚が欲しい。そして、過剰に反応することで、それがさらに強化されるのであって、それは差別反対運動の様子などを見ているとよく分かる。

僕の指摘に間違いがあるなら、そこを論理的に冷静に指摘すればいいだけの話で、もし、誤謬の指摘に間違いがないと思えれば、その点では確かにそうだから、誤謬には気をつけようというだけですむことではないかと僕は思う。もっとも、あの反応に対して、あれは過剰反応では無いという認識をしているのなら、議論の前提が共有出来ていないので、そこから先は議論にはならないと思うが。


「あくまで「論理」の問題としてのみ(というより、自分が読み取って欲しい枠組みでのみ)読み取るべきだとするのは、議論をする者としてあまりに無責任(うさんくさい)です。」


という意見に対しては、「議論」というものの認識が違うということで反論させてもらう。僕は、chikiさん以外にはトラックバックを返していない。それは、他のものはまったく前提を共有出来ないだろうと思ったので、議論にはならないと判断したからだ。それは、相手に対する批判であって、それは批判である以上、自分の基準で相手を切るのは当然のことだ。僕もそうしているので、僕はそのこと自体に文句を言うつもりはない。いくらでも自分の基準で僕のことを切ってもらってもけっこうだと思っている。それが批判というものだ。

しかし、議論というのは、少なくともそこで論じている前提というものが共有されて、その前提の下ではどのような結論が出てくるかという論理的判断が出来る人間の間でなされなければならないと僕は考えている。前提の共有と論理的判断能力を有するということが議論が成立するための必要条件だ。単に対立したことを語り合っているだけのものは僕は議論とは呼ばない。その論理が正しいかどうか判断出来る人間同士で議論しないと、水掛け論に終わるだけだ。

読みとって欲しいなどという願望を僕は持っていない。論理的な正しい判断をしてくれと要求しているだけだ。僕が意図したことでないことを読みとって、それに批判を投げつけるのはかまわない。しかしそれには、必要なら反批判が返ってくるということだ。それは議論ではないのだから、僕も僕の基準で読みとって批判を返すというだけのことだ。それが気に入らないのなら批判をすべきではないと思う。

世の中には議論が簡単に成立すると思っている人もいるようだが、日本社会において議論と呼ぶに値するものはほとんど無い。今の国会を見るとその堕落ぶりはひどいものだと思う。僕がもっとも水準が高い議論だと思うのは、神保哲生・宮台真司両氏のマル激での議論だ。あれほどの高いレベルは望まないが、議論と呼ぶのなら、前提の共有と論理的判断の共有くらいはしたいものだと思う。

chikiさんのこの言葉に対する反批判は、「議論」という言葉に対する概念が違うということを言っておこう。

このあたりでアップして、さらに続きを考えていこうと思う。chikiさんとは、議論の段階で言えば、今は共有出来る前提を探っている段階だと僕は認識している。
by ksyuumei | 2006-05-22 09:18 | 雑文


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