僕は、フェミニズムの持つ論理の暴走性というものに注目をし、それに気をつけなければ真理が誤謬に転化するのではないかという、第三者的な視点を提出しているのだが、どうもフェミニズムの側にいる人にはそれがひどく気に入らないようだ。
どのトラックバックを見ても、フェミニズムにそのような論理的な暴走性はないということは書かれていない。フェミニズムはそのような主張はしていないとか、実際にフェミニズムが暴走した実例を提出せよというようなことは書かれていた。 そこで仕方がないので、林さんの『フェミニズムの害毒』から、林さんが暴走した逸脱したフェミニズムが引き起こした害毒だと受け取っていることを事実として提出してみたが、林さんからの引用というのがまた気に入らなかったようで、これも「フェミニズムではない」という言葉が返ってきたようだ。 どうも論理が通じない相手と論理的な会話をするのは難しい。僕が論じているのは、フェミニズムという考え方の暴走性であって、フェミニズムそのものが間違っているという議論ではないのだ。だから、林さんからの引用の事実も、あくまでも、フェミニズムという考えが暴走したら、このように受け取って間違った判断をする人たちが出てこないだろうかと言うことを語っているのである。 だから、フェミニズムにそのような暴走性がないというのなら、それはフェミニズムではないということを言うのではなく、フェミニズムの論理からはそのような逸脱が生まれてこないと言うことを説得的に述べなければならないのではないだろうか。逸脱するのではないかと言うことを問題にしているのに、逸脱したものを指して、それはフェミニズムではないと語るのは論理的な反論になっているのだろうか。 『フェミニズム』(竹村和子・著、岩波書店)には、フェミニズムについて次のように書かれている。 「フェミニズムの意味は、「(両性の平等という理論に基づいた)女の権利の主張」 ということに対しては、フェミニズムの側にいる人間たちも同意するのだろうか。この本には、フェミニズムの前提として次の二つもあげられている。 「一つは、少なくともフェミニズムが存在している社会においては、女の権利は奪われており、ひるがえって男の権利は守られていること(そう認識されていること)、もう一つは、性的に抑圧されている者(「女」と呼ばれている者)は、「女」という立場を維持したまま、その十全な権利を主張していくということである。」 これにも同意するだろうか。同意しなければ仕方がないのだが、もしこのことに同意するのなら、この前提が、論理の逸脱をもたらす可能性というものがあるというのが僕の主張だ。それに対する反論ならば、そのような論理の逸脱はないということをいわなければならないのだが、何故事実を要求するのだろうか。 上の前提は、その成立する条件が正しく把握されている限りにおいては正しい。しかし、その条件が正しく把握されていなければ容易に誤謬に陥る。その条件は、簡単に誰も間違わずに判断出来るものだと、フェミニズムの側にいる人間たちは主張するのだろうか。 どのような具体的場面でも、「女の権利は奪われており、ひるがえって男の権利は守られている」ということが正しく判断出来るだろうか。それは間違えることはないのか。間違えた場合は、それはフェミニズムではないと切って捨てれば世間は納得するのか。 「性的に抑圧されている者(「女」と呼ばれている者)は、「女」という立場を維持したまま、その十全な権利を主張していく」という発想からは、女であるという理由だけを自分が不当に扱われているということの根拠にするという間違いを生じないと、自信を持って言えるのだろうか。僕が問題にするのは、まさにこれらの発想から生じるかも知れない論理の逸脱の方なのだ。 林さんの著書から引用するのは、林さんが語る事実というものが、このような発想から生まれた、本当の意味でのフェミニズムに対する誤解から生まれた現象のように見えるからだ。林さんは、それが間違ったフェミニズムだとは思っていないが、その間違ったフェミニズムは、本当のフェミニズムとは完全に無関係なのか、というのが僕の疑問だ。 誤謬というのは、真理とまったく違うものとして存在しているのではない。真理の認識において逸脱が生じるからこそ誤謬が生まれるのだ。本当のフェミニズムが正しいものであったとしても、逸脱すれば誤謬になる。現実の逸脱による誤謬から生まれたフェミニズム攻撃は、そんなものはフェミニズムとは関係ないとして無視していればすむ問題なのかということだ。 林さんはフェミニズムの変質を論じている。ということは、林さんも、最初の認識では、フェミニズムを男女の本当の平等を目指すものと考えていたわけだ。しかし、フェミニズムは、その理想を目指すのではなく、矮小化された女性の主張を押し通すだけのものになってしまったと考え、それが害毒をもたらしていると主張している。 林さんが、矮小化された女性の主張だと考えているものは、フェミニズムからは生じないものなのか。真理の条件を逸脱すれば、そのような矮小化が起こる危険はないのか。そのような発想が全く出てこないフェミニズムは、やはり誤謬に対して鈍感だと思う。無謬思想をもった「イズム」は、かつてのマルクシズムがそうであったように、非常に危険な思想になる。フェミニズムは、もっと誤謬に対して敏感になるべきだ。 誤謬というのは、人間の認識にとっては本質的なものである。誤謬から逃れられる人間などいない。だから、誤謬を犯すことは少しも恥ずかしいことでもないし、マイナスの評価をもたらすものでもない。誤謬を誤謬と認識出来ないことが「構造的無知」として大きなダメージになる。 「構造的無知」にとらわれた人間は、しばしば戯画化されて描かれる。戯画化されたフェミニストが語られるのは、反動的な悪意ある宣伝ばかりではない。実際に「構造的無知」があるから、そこを捉えられて戯画化されるのである。 林さんがこの本で語っている「青い鳥コンプレックス」というものは、フェミニズムの逸脱からは生まれてこない発想だろうか。林さんによれば、これは次のように説明されている。 「母親が日常生活には幸せがないと思い込んで、生き甲斐や幸せや「自己実現」などを、家庭の外に探し求めるという心理を指すものである。この心理に取り憑かれると、女性たちは母を捨て妻を捨てて、「生き甲斐」を手に入れたいと思い、外へ外へと駆り出されていく。夫の世話や子どもの世話は価値の低いもの、ばからしいものと感じられ、外の世界の「仕事」や「文化」や「芸術」などがバラ色の素晴らしい世界だと感じられる。」 これは、フェミニズムの考え方が逸脱したときに出てくる発想ではないと言えるだろうか。もちろん、人には個性があって、外に出て行くことの方がふさわしいという女性もいるだろう。それが、女性であるから我慢させられるということにつながれば、その不当性は明らかだ。これに反対するフェミニズムは真っ当なフェミニズムである。その能力に応じて社会進出する道が保障されるべきだろう。 しかし、その能力を考慮せず、誰もが社会進出するべきだと考えればそれは逸脱した発想だ。自分の個性と能力に応じた希望を持つことを教えることは、決して真のフェミニズムに反することではないだろう。しかし、そう主張したとき、それが男であった場合、フェミニストはそれに我慢出来るだろうか。内田樹さんは、そのような主張を多くしている。だいたいが真っ当な常識的な主張だ。その時に、フェミニストたちは、その真っ当な主張を受け入れられるだろうか。 林さんは、この本で、子どもを大切に育てたいという素朴な気持ちを肯定すべきだと提案している。それを、女を家庭に縛り付ける思想だと、逸脱したフェミニズムは考えるのではないだろうか。働いて社会に出ることこそが正しいと一面的に考える発想は、フェミニズムの逸脱からは全く出てこないのか。子育てに自分の個性を見出し、それが幸せだと考える女性がいても、それは当然なのではないだろうか。 林さんがこの本を書いた頃は、専業主婦願望が高まった頃だったらしい。それを、林さんは、家庭的な愛情を無視して育てられた世代が抱いた反動的な願望だと解釈している。林さんの教え子の世代は、ちょうどその母親たちが、外で働くことこそが女の開放という考えに染まっていた世代だったらしい。だから、そのために家庭では母親不在の状態が多かったらしい。その反動として、家における母親の重要性や、母親を求める気持ちが子どもの世代に強くなるだろうことは容易に想像出来る。 この専業主婦願望の増加に対して、林さんは次のように書いている。 「フェミニストたちは、その現象の中にマイナスの意味しか読みとることが出来ない。その典型が、小倉千加子の評論(『読売新聞』1998年4月8日付夕刊)である。彼女は女子大生の専業主婦志向とは、「自分に正直に生きる」ことを捨てて、親の期待通りの「幸せな指導」をするように「妥協」した産物だと断じている。そのような見方の背景にあるのは、女子学生は卒業したら働きたいと思うのが当然であり、「幸せな」結婚をしたいなどというのは親の願望に引きずられた「不正直な」心だという見方である。何と単純で無神経な見方であろうか。」 この小倉千加子氏はフェミニストでは無いという批判をしたい人がいるかもしれないが、問題は、「単純で無神経な見方」が、フェミニズムの逸脱として生まれてこないかということだ。問題は逸脱ということなのである。これを誤謬として、逸脱をちゃんと意識出来る人間なら、その誤謬を犯すことから逃れられる。しかし、誤謬をちゃんと認識出来ない人間は、いつかは誤謬にとらわれるだろう。将来の誤謬から逃れるために、逸脱の可能性をちゃんと認識するということが、誤謬の研究の目的なのである。 小倉氏が考えるような女子大生もいただろう。しかし、それがすべてであるかどうかは分からない。林氏が解釈するような女子大生がいてもおかしくない。双方が、自分が考える女子学生しかいないと主張していたら、双方が間違っていると言うことになるだろうが、フェミニズムの前提を教条主義的に信奉してしまったら、フェミニズムの方が誤謬に陥る可能性が高いと僕は思う。だからこそ、フェミニズムの陣営は誤謬に敏感でなければならないのだ。
by ksyuumei
| 2006-05-21 21:58
| 雑文
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