フェミニズム理論の逸脱する可能性

単語に過剰反応して文脈理解をしない者がいるので、冒頭に一言断っておくが、これから述べることはフェミニズム一般の批判ではない。フェミニズムの理論において、正しい範囲のものが、いかにして誤謬に転化していくかという過程的構造について考察しようと言うものだ。

真理と誤謬を対立した二つのものとして、相容れない固定化したものと考える人には、真理が誤謬に転化すると言うことは理解が難しいかも知れない。しかし、真理というものが、ある対象に対する認識において判断として存在することを理解するなら、その対象と認識との関係から、条件を逸脱して誤謬に転化する可能性があることが分かる。それが真理と誤謬との弁証法的関係だ。

三浦つとむさんは、人間の認識に誤謬が伴うことを必然的なものとして本質と捉えた。誤謬というのは、頭が悪かったり・能力がなかったりすることで引き起こされるものではない。人間の認識がある種の制限を受けていることから、その制限を逸脱する可能性をもっていて、そこから必然的に生み出されるものなのだ。



人間の視覚は、表面に見える部分しか捉えることが出来ない。後ろを見るには、後ろに回り込まなければならない。内部を見るには、表をはがしてそれを壊さなければならない。その制限の下で、見えない部分を見ようとすれば、確かなものの範囲を逸脱して誤謬に陥る可能性をもっている。

この誤謬は不利益ばかりをもたらすものではない。人間は、たとえ認識に制限があろうともそれを越える方法を見出していこうとする。直接見えないものに対して、間接的に見ようとする努力をする。原子論などはそのような努力の末に見つけられた真理だ。だから、誤謬はより深い真理へのきっかけをもたらすものでもあるのだ。

誤謬に鈍感な人間は、間違いに陥ったときにその間違いに気づかない。間違いに気づかないから、より深い真理に到達することもない。しかし、現実に間違いに陥ったときは、実践的な不合理が出てくる。認識においては間違いに気づくことが出来なくても、実践的に失敗がたくさん出てくるのだ。

社会主義国家の誤謬も、マルクス主義という認識においてそれが自覚されることはなかった。だが、国家運営においての様々な失敗が、その誤謬性を明らかにしていった。もっと誤謬に敏感な指導者がたくさんいたら、社会主義国家は、あれほど悲惨な崩壊はしなかっただろう。

世間で「フェミニズム」として理解されているものは、『フェミニズムの害毒』(林道義・著、草思社)によれば間違いに満ちたものとして理解されている。フェミニズムに対する悪意に満ちたこの本を取り上げていることに、フェミニズムの陣営は反発をするかも知れないが、悪意をもって理解されていることも、世間では「フェミニズム」だと見られているのだ。

間違ったフェミニズムを語っている人間は、頭が悪いわけでもないし、反対の陣営のために悪意をもって語っているのでもない。正しい論理が条件を逸脱して誤謬に転化しているのである。そうであるなら、今正しい論理を語っているフェミニストも、誤謬に対して鈍感であれば、いつ条件を逸脱して誤謬に転化するか分からないと自覚するべきなのだ。

逸脱のきっかけになるのは、対象の範囲を無自覚に広げることにある。エンゲルスがボイルの法則について語った相対的誤謬では、気体の体積と圧力の関係において、液化する臨界点においてその法則が誤謬に陥ることが語られていた。気体が液化するとき、その体積は著しく減少する。だから、その臨界点では気体と圧力に関係するボイルの法則が成り立たなくなることが分かる。

このとき、この一つの誤謬からボイルの法則そのものを否定するのは、否定の行き過ぎであり、やはり逸脱した誤謬である。正しくは、ボイルの法則は条件付きで成立するという認識を持つことだ。そして、その条件を具体的に正確に求めることが、ボイルの法則に関してより深い真理の認識となる。フェミニズムに対してもそのような姿勢を持つべきだろう。それが正しい理論として通用する条件を正確に求める必要があると思うのだ。

フェミニズムの場合、逸脱する可能性は情緒的な面からも考えることが出来る。フェミニズムは、不当に抑圧されてきた女性の解放を目指す運動から生まれてきた。不当に抑圧されてきた人々が、感情的に行きすぎると言うことは、日本における差別反対運動やアメリカの人種差別反対運動が持っていた行きすぎた考え方が発生する事実からも想像出来る。それは感情的な問題として同情出来るものではあるが、同情出来たからと言って容認することは出来ない。これを容認すれば、運動そのものが致命的なダメージを受けるだろうと思う。

さてフェミニズムの基本的な理論を学ぶのに僕は、『フェミニズム』(江原由美子・金井淑子・編、新曜社)、『フェミニズム』(竹村和子・著、岩波書店)という本を選んだ。ここに書かれていることは大部分が論理的に正しいと感じたからだ。だから、これを本物のフェミニズムではないとする人がいたら、その人に対しては僕は何も語る言葉を持たないのだが、この本が「フェミニズム」の良心的な部分を代表していると理解している人なら、その良心的な部分が誤謬に転化する可能性があるのではないかという、僕の論理展開を理解して欲しいと思う。これは、良心的な部分に対する批判ではなく、ましてやゆがんだ理解から生まれた悪口ではないのである。

竹村さんは、そのまえがきに当たる部分で次のように語っている。


「一つは、少なくともフェミニズムが存在している社会においては、女の権利は奪われており、ひるがえって男の権利は守られていること(そう認識されていること)、もう一つは、性的に抑圧されている者(「女」と呼ばれているもの)は、「女」という立場を維持したまま、その十全な権利を主張していくと言うことである。これらの前提から類推される事柄は、社会の成員は「男」と「女」に二分され、この二つの性の間の力学に不均衡が生じていて、フェミニズムは、権利を奪われている女が、権利を過剰に付与されている男に対して意義申し立てをするものだという図式である。フェミニズムを語るものは、たいていの場合女と言うことになり、その女たちは男を「敵」と見て、男の特権に挑戦すると思われている。だからフェミニズムに直面した男は、時に女の舌鋒に驚き、恨み、ある時は女の挑戦を、風車に挑むドン・キホーテのように的はずれなものと見なしてやり過ごす。社会が--少なくとも日本の社会が--フェミニズムに対して抱いているイメージは、個別的な例は別にしても、現在の所は大なり小なりこのようなものだろう。」


ここで語られていることは大部分が正しいだろうと思う。だから、条件を逸脱しない範囲において、つまり真理である限りにおいては、正しくものを考える男は反対しない。しかし、すべての社会現象に対して「女の権利は奪われており、ひるがえって男の権利は守られている」と主張されるように感じられたら、「風車に挑むドン・キホーテのように的はずれなものと見なしてやり過ごす」という男の態度が正しいものになってしまう。

具体的な現象に対して、「女の権利は奪われており、ひるがえって男の権利は守られている」ということが納得出来る対象であれば、そこに意義申し立てをすることの正当性を認めるのは、男であろうと変わりはない。少なくとも、人権意識を持った男なら奪われた権利に対して意義申し立てをする方が正しいと判断するだろう。

ところがこのときに、男は現代社会の構造に毒されていて、人権意識を持った男などはいないというような考え方を提出されると、そんなに信用されないのなら、男は女と関係なく生きていくだけさ、と憎まれ口を聞きたくもなってくる。このような逸脱する可能性が、フェミニズムはないと自信を持って言えるだろうか。また、このように逸脱する人間は、真のフェミニストではないと切り捨てて問題が解決するだろうか。

フェミニズムの論理が逸脱して、誤謬に転化したときは、本来連帯して手を取り合える男もフェミニズムに対して反感を持つようになるだろう。鈍感なフェミニストはフェミニズムの信用を傷つける。

それでは人権意識に欠けた、男社会の優位性という観念から抜けきれない男たちは、その間違った考えを攻撃してもいいと言えるだろうか。これは運動論的な問題になると思うが、そのような男の支援などは必要ない、そのような男は駆逐するだけだ、と考えるなら徹底的な攻撃をすることが正しくなるだろう。しかし、それは本当に運動として正しいのか。

残念なことに、今の社会には自覚した男は少ないと思う。もし、そう言う男を全部駆逐しようとしたら、社会から男はほとんどいなくなってしまうだろう。そして、そのような攻撃的なやり方をすることを間近で見せられたら、リベラルな男たちも、その攻撃性に嫌気がさして女との連帯を放棄することだろうと思う。

運動論的な戦略としては、今の大多数を占める封建思想をもった男たちを、何とかして理解者にする努力をする方が正しいだろう。その理解者にする努力は、正しい論理を主張して、間違いを排除していくという努力しかない。少しでも間違える可能性をもった主張をしたら、そこへの攻撃は激烈なものになるだろう。

フェミニズムの考え方は基本的には正しい。だから、その反対者たちは、その基本的に正しい部分への攻撃は出来ない。だが、ひとたび間違いを見つければ、その間違いから出発してフェミニズムの全主張を否定しにかかるだろう。これは論理的には間違いだが、封建思想というバイアスがかかった男にとっては、その論理の間違いを理解することは難しい。「構造的無知」にとらわれてしまうからだ。

『フェミニズムの害毒』という本は、フェミニズムの陣営からはひどい本のように見えるだろうが、著者の林さんという人は、ひどい封建思想の持ち主のようには見えない。せいぜいが穏健な保守主義と言えるくらいの人だろう。そのような人がフェミニズムの全主張を否定しにかかるということは、フェミニズムの運動の戦略の失敗ではないかと僕は思う。本来なら、林さんのような人でも連帯出来る方向を目指さなければならないのではないかと思う。そうでなければ、日本の大部分の男がフェミニズムに理解を示すということはないだろう。

フェミニズムの考えの中の逸脱する可能性の部分と、逸脱した考えを批判して全否定しようとする反対の陣営の考えを理解することは、フェミニズムに対する深い理解をもたらすと僕は信じる。それは、単に知識としての歴史を知るよりも有効性のある知識になるだろう。
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by ksyuumei | 2006-05-21 11:02 | 雑文


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