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被害者感情への配慮

死刑廃止論は、被害者への感情の配慮が足りないと言う批判が言われるときがある。加害者に対する報復感情というものがある間は、凶悪犯罪に対して、その罪の重さに応じた死刑もやむを得ないとする考え方だ。

しかし、犯罪被害者の遺族である原田正治さんは、たとえ加害者が死刑になろうとも、その感情的な鬱屈は少しも晴れることはないと言うことを伝えてくれている。やり場のない感情のはけ口は、死刑が執行されることでピリオドを打つわけではないのである。

むしろそのような複雑な感情が、すべて報復感情で理解されることに原田さんは、被害者が少しも理解されず孤独の中で放っておかれているように感じていたようだ。死刑というもので一段落したのだから、その事件を忘れて新たな一歩を踏み出すものと周りに思われていたことに、原田さんは、自分が理解されていないと言うことを感じていたようだ。



原田さんは、弟を殺されたのだが、最初はそれが交通事故として処理されて保険金が下りたらしい。ところが、それが殺人事件と言うことになり、保険金を返還しなければならなくなった。すでに、事故後の処理で使った部分もあり、まとまった金を都合するのにかなり苦労をしたらしい。しかし、そのような日常的な苦労は、報復感情のようには理解してもらえない。報復感情なら、誰もが同情して共感を寄せてくれるのに、そのような日常的な苦労は他人事として誰も助けてくれなかったそうだ。

また、裁判の傍聴には毎回行っていたらしい。そのためには仕事を休んでいかなければならなくなる。誠実な原田さんは、出来るだけ仕事の上での迷惑をかけないように配慮して、休暇を取って傍聴に行く前日は、そのための準備に遅くまで仕事をしたようだ。そのような配慮をしていても、それが回数を重ねると、毎回行かなくてもいいじゃないかというような不満が同僚から出てくるらしい。最初の同情は、時間がたつに連れて薄れていき、ここでも、どうしても裁判の傍聴に行きたいという原田さんの気持ちはなかなか理解されなかった。

死刑存続の意見を持つ人は、被害者遺族の感情の問題を大きな根拠とすることが多いが、その感情は、報復感情だけにとどまり、それ以外の感情は実はまったく配慮されていないのではないかとも感じる。中山千夏さんが指摘するように、報復感情というのは、実は被害者のものではなく、第三者が自分の中にあるものを被害者に投影して、被害者が報復感情を持つことを期待しているだけなのではないかと思う。

中山千夏さんは『ヒットラーでも死刑にしないの?』の中で、本当の意味での被害者感情への配慮をいくつか語っている。僕もそれが本来の被害者感情への配慮のような感じがする。被害者感情へ、本当に深く配慮している人は、中山千夏さんのように死刑廃止を深く考えている人の方ではないかと思う。この本で、中山さんが提案している被害者感情への本当の配慮を考えてみたい。

その最初のものは匿名報道だ。原田さんも、交通事故だと思った弟の死が殺人だと分かったとたんに、マスコミの激しい報道のあり方に振り回されたという。これは日常生活が破壊されることを意味する。原田さんは、そのことによって家庭にもひびが入り、家族の間の関係がおかしくなってしまったという。

このような報道のあり方はまったく被害者感情を配慮していないものだが、マスコミは「知る権利」をタテにして、被害者の実名報道をやめようとはしない。一般の大衆にとって、実名であることはどれだけ報道価値があるというのだろうか。テレビにとっては、実名でなければ映像が流せないと言うことがあるのだろうが、映像を流すというのは、野次馬的な欲求を満足させるだけの、むしろ無視していい感情だ。

映像がなければ視聴率が取れないのだろうが、視聴率を取るために被害者を傷つけると言うことが許されていいはずがない。大衆の側が、そのような下品な野次馬感情を満足させるだけのような報道を無視出来るだけの成熟度を持っていればいいのだが、残念なことに現実に視聴率を稼いでしまうので、そのような下品なワイドショー的な報道が罷り通るようになる。しかし、これは被害者感情を無視する配慮のない行動だ。

また、匿名報道という点では、被疑者に対しても匿名を貫かなければならない。原田さんもその著書で書いているが、加害者の姉と息子が自殺しているらしい。加害者本人は、憎むべき犯罪を犯した人間かも知れないが、その家族には直接の責任はない。しかし、マスコミの憎しみを煽る感情的な報道は、その憎しみを家族に背負わせる。これは、形としては自殺だが、本質的にはマスコミが殺したようなものだ。そして、そのようなマスコミ報道を許している大衆は、その殺人に荷担していると言ってもいい。

殺人を凶悪犯罪のように非難している人々が、自らそのような行為に荷担していることを自覚せず、善意から犯人を非難しているのだと思い込んでいることが、このような悲劇を生み出している。まさに「地獄への道は善意によって敷き詰められている」のだ。被害者感情を、本当に配慮するのなら、被害者はもちろんのこと、加害者に対しても匿名報道を貫くべきだろう。

これは、優れたルポルタージュやノンフィクションが、仮名を使って事件を報告していたとしても、その事件の本質を伝えることが出来ることから、たとえ匿名報道であっても、その事件の本質を伝える報道が可能だということが言える。むしろ、センセーショナルに感情をあおる実名報道は、事件の本質とは関係ない、野次馬根性を満足させるだけだ。

中山さんが次にあげる被害者感情への配慮は「補償」というものだ。これは、感情の問題をお金で解決するような不純なものというイメージを与えるかも知れないが、実際にはとても大事な配慮だと僕も思う。原田さんが保険金の返還でとても困ったように、被害者には、経済的な面で思いがけない苦労が舞い込むときがある。その時に、どこか相談出来るところがあれば、少し苦労したとしても被害者はとても助かるものだ。

しかし、原田さんは、弁護士事務所や役所に相談に行っても、何ら有効な助言を得られず、結局は自分ですべて解決しなければならなかった。「補償」というのは、実際の金銭面での補償もさることながら、ちゃんとした相談の窓口があると言うことも大事なことだ。それがどこにもないと言うところに、この国は被害者に対して、報復感情以外の感情は何も配慮していない国だと言うことが分かる。

中山さんがこの本であげている「補償」の意義は、まったくその通りだと賛同するものだ。次のようなものをあげている。


「薬害や公害の被害者・遺族に、国や会社が行う補償には、こんな意味があるだろう。
1、国や会社が加害者としての責任を認め、謝罪することの表明。
2、被害による経済的損失を補い、被害者・遺族の生活、ひいては人権を守る。
 そして、補償にはこんな効果がある。
A、社会が被害者・遺族に無関心ではないことを示すことで、彼らを慰める効果がある。
B、経済的な生活援助の効果がある。」


本来は、こちらの方が報復感情を満足させることよりも大事だと僕は思う。しかし、こちらには誰も目を向けない。特に、統治権力はこのことを自ら主体的には考えようともしない。中山さんもこう語っている。


「今、ごくわずかなお金を、厳しい基準に従って被害者に出すようになっているけれど、それはようやく1981年から始まった(犯罪被害者等給付金支給法)。しかも、この法律を作らせた原動力は、被害者遺族自身であった。彼らの熱心な運動によって、ようやく渋々貧弱な法律が出来た。それほどに、国会議員も私たちも、被害者や遺族に対する思いやりに欠けていたのだし、今もそうだから、その法律をもっと充実させようという声など巷にほとんどない。」


被害者遺族の本当の感情的側面については、原田さんの『弟を殺した彼と、僕。』という本から、原田さんの率直な思いを読み取ってみたいと思う。当事者でない第三者が、いかにその感情を勘違いしていたかと言うことが分かるのではないかと思う。

死刑によって報復感情が満足されるという考えも、実はそれは観客である第三者の感情が満足されるだけであるという中山さんの指摘がある。報復感情は、それが他人事である方がより満足される。そのような論理展開で中山さんはそれを批判している。それはまた、項を改めて考えたい問題だと思う。
by ksyuumei | 2006-05-12 08:56 | 社会


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