凶悪犯罪の加害者に対して死刑を望まない被害者遺族がいた

「ふらっと 人権情報ネットワーク」というページに「加害者は許せない だけど死刑には反対です」という、犯罪被害者の遺族である原田正治さんのメッセージがあった。これは、犯罪被害者の遺族の直接の声として、死刑廃止を考える人にとっては貴重な情報になるのではないかと思う。

原田さんは、弟を保険金殺人で殺された犯罪被害者の遺族だ。加害者に対して、一審での裁判では「極刑以外には考えられません」と証言している。「殺してやりたいほど憎い」と思っていたそうだ。ここまでの感情の流れは、死刑を肯定する人々が語ることと重なる。被害者の遺族の感情としては、そうだろうと誰もが想像することが起きていた。

しかし、原田さんはここからが違ってくる。確かに最初は、感情に流されて、誰もが想像するような対応になっていたが、時間とともにそれが変化していったのだ。変化の原因はいろいろなことが考えられる。興味本位で取材するマスコミにうんざりして、期待通りの行動をすることに疲れたということもあるかも知れない。




原田さんは、犯罪被害者とその遺族に対する同情が、最初の一時期だけのもので、あとは何の公的なケアも受けられず、理解されない孤独の中で、家族関係もバラバラになっていくようになってしまったらしい。こんな風に記述されている。


「自宅に押し寄せるマスコミ、一度は支払われた保険金の返還請求、会社を休んで裁判を傍聴することに冷ややかな会社との軋轢。同じ「被害者遺族」という立場でも、母親とも妻とも少しずつ事件の受け止め方は違う。家庭のなかで感じる孤独。お酒や遊びに逃げたこともあった。」

「事件が発覚するとすぐマスコミが押しかけてきました。近くに住んでいたおふくろも当時小学生だった二人の子どもや妻もしばらく家から出られませんでした。僕はなんとか仕事には出ていましたが、帰宅すると物陰にひそんでいたマスコミの人が飛び出してきたりして、事件のことをゆっくり考える暇もありませんでした。
 全国的に大きく報道されたほどですから、地方のちいさな町ではもう大事件です。自分の家を取り囲む空気をとても重たく感じましたし、友達との関係も変わりました。僕のひがみかもしれませんが、それまでよりも一歩ひいた感じで接してくるような。
 返還を要求された保険金も葬式や法要の費用、弟の借金として長谷川君(明男さんの雇用主にして殺害を指示した人物)に支払ったりして(明男さんの借用証がなかったため、原田さんは嘘であろうと推測している)、すでに一部を使っていました。「返還しないと不当利益です」とまるでこちらがだまし取ったような言い方をされて腹が立ちましたが、すぐに返せる当てがなく困りました。行政や弁護士に相談してもきちんととりあってもらえません。おふくろや妻はそれぞれ自分の不安でいっぱいで、相談できる雰囲気ではない。「事件が明るみにならなければよかったのに」とすら思いました。みじめで悲しい思いをすることばかりで、孤独と社会への不信感でいっぱいでした。」


マスコミや世間は、事件が起こった当初は、被害者とその遺族に対して同情的な姿勢を見せるのに、実質的な援助は何もしていないことが分かる。犯人を「吊せ」と叫ぶ人たちが、本当の意味では、被害者やその遺族のことを考えているのではなく、自分の感情を表出しているだけだという中山千夏さんの指摘は正しいのではないかと思われる。

孤独の中で気持ちがすさみ、家庭も崩壊していった原田さんの救いになったのは、加害者の反省の態度だったという。その態度が、原田さんにとっては、本当の反省の姿のように見えたことが、原田さんの気持ちを変えてしまったという。加害者は、弁護士の影響からキリスト信者になり、原田さんに謝罪の手紙を送ってきたらしい。それに対して、原田さんには次のような変化があったという。


「一方、原田さんは社会からひとり押し出されたような孤独感のなかで、「長谷川君」への憎しみを燃やし続けていた。送られてくる手紙は開封もせずに捨てていた。ところがある時、ふと好奇心がわいて読んだのをきっかけに目を通し始め、時には返事も書くように。そして事件から10年が過ぎた'93年、たった一人で「長谷川君」に面会に行く。憎しみや怒りが薄れたわけではない。むしろ持って行き場のない憎しみや怒りを直接ぶつけたい気持ちが強かった。しかし面会に来てくれたことを素直に喜ぶ「長谷川君」の表情に、フッと肩の力が抜けたという。」


この手紙によって原田さんはかなり癒されたようだが、加害者と直接向き合うことによってさらに癒されることになったそうだ。最初の面会で、原田さんは、「彼が本当に「謝りたい」という気持ちをもっているということは感じられました」と語っている。


「そして僕自身、彼から直接謝罪の言葉を聞くことで、誰のどんな慰めよりも癒されていくように思ったのです。長い間、孤独のなかで苦しみ続けてきた僕の気持ちを真正面から受け止めてくれる存在は長谷川君だけだと感じたのです。」


と、その時の心境についてもこう語っている。この心境の変化は、死刑によって報復感情が癒されると主張するものに対して、必ずしもそうではないという反例になっているのではないだろうか。報復感情というものは、報復することによっては癒されないのではないか。むしろ、原田さんのように、加害者からの心からの謝罪を受けることによって、ようやく報復感情が癒されるのではないだろうか。

原田さんの次の言葉は重いものとして、死刑肯定論者は受け止める必要があるのではないだろうか。


「死刑制度を肯定する人たちは、よく「被害者の感情を考えれば、死刑も必要だ」と言います。確かに僕も一時は死刑を望みました。だけど怒りや混乱のなかで、死刑や死刑制度がどういうものなのかも考えたことも知識もなく、感情的になっていたのです。長谷川君と交流するうちに、彼から直接謝罪を受けることが何よりの癒しになることに気づいたから「死刑にするのは待ってほしい」と何度も法務省に申し入れたのですが聞き入られませんでした。
 裁判所や法務省は死刑判決や死刑執行の際に「被害者感情を鑑みて」と言います。だけど「死刑は待ってほしい」と主張しても執行するなら、被害者感情など考慮していないということではないでしょうか。少なくとも僕はそう感じています。
 死刑が執行されてもされなくても、僕の苦しんできたことは消えませんし、弟が生き返るわけでもありません。長谷川君がしたことへの怒りもなくなることはありません。「被害者感情」とは、そんな単純なものではないのです。」


言葉では「被害者感情を鑑みて」と言いながら、「「死刑は待ってほしい」と主張しても執行するなら、被害者感情など考慮していないということではないでしょうか」という指摘は重いものとして受け止めなければならないだろう。また、この死刑は、さらに第二、第三の悲劇を生んでいる。ここには次のように書かれている。


「「長谷川君」の死刑が確定してまもなく、彼の息子が自殺した。20歳という若さだった。その数年前には姉も自殺している。いずれも遺書は残されていなかったが、父であり弟である「長谷川君」のことで思い悩んだ末のことと原田さんは受け止めている。」


この事実は、この国が、加害者の家族に対しても何の公的なケアもしない国だということを物語っているのではないかと思う。加害者の家族だから見捨ててもいいという人が多いとしたら、日本は何と冷たい国になったのだろうと思う。かつて、中国では、加害者である日本人の家族であっても残留孤児として、貧しい生活の中でも育ててくれた。日本には、そのような困ったときはお互い様という連帯はなくなってしまったのだろうか。

原田さんは、このような現実から次のような考えを持つようになったようだ。


「一番悪いのは、長谷川君や共犯者です。だけどそれだけじゃない。今の社会には「排除の構造」があり、いったん事件が起きると被害者も加害者も社会から排除されてしまう。そういう意味では加害者側の家族や親族も被害者だと思うのです。」


このことが、犯罪被害者の遺族でありながら、死刑に反対するという気持ちを生んだのに違いない。そのような原田さんに対して、「「被害者のくせして」「被害者なのに」と非難する人も多い」らしい。しかし、その非難する人に対しての原田さんの次の言葉も重く響くものだ。


「僕を非難する人に問いたい。「じゃああなたは僕が困っている時に手を差し伸べてくれましたか」「被害者の気持ちがわかるなら、その人たちのためにできることを考え、奔走しているんですか」と。」


死刑存続の根拠を、被害者の感情に置く人々は、実際には、どれだけ「手を差し伸べてきた」のだろうか。原田さんにはまったく助けがなかったようだ。死刑廃止論者に対する非難として、被害者感情を無視しているということがよく言われるようだが、そう言っている死刑肯定論者は、果たして被害者感情をよく分かって配慮しているのだろうか。中山千夏さんが語るように、それは被害者感情ではなく、自分の感情を言っているだけなのではないか。

原田さんの最後の言葉も、重いものとしてよく噛みしめなければならないだろう。次のようなものだ。


「今、いろいろなところで話をさせてもらいます。すると死刑制度を支持しながら、ほとんど知識のない人が少なくありません。最低限の知識と、被害者が置かれている状況や気持ちをある程度は知ったうえで議論してほしいと思います。」


原田さんのこの感想は正しいだろうと僕も思う。ネット上で検索出来る死刑肯定論を見ても、ほとんどが、自分の感情を語っているだけのもので、なかなか論評に値するものがないと思えるからだ。まったく「論」にはなっていないのだ。まともな論理で語っている死刑肯定論というのが、今のところは一つも見つからない。まともな論理を感じるのは、すべて死刑廃止論の方ばかりだ。だから、僕は、ますます死刑廃止論が正しいという確信を深めている。
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by ksyuumei | 2006-05-06 22:54 | 社会


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