内田樹さんが「2006年05月02日 村上文学の世界性について」というエントリーを書いている。僕も村上春樹の小説が好きで、有名なものは一通り読んでいる。しかし、ファンを自認するほど読み込んではいない。もっとも好みに合うのは『ノルウェイの森』で、これを読んだのが最初だっただろうか。動機は、ビートルズの歌と同じ題名だと言うことだった。
内田さんがここで書いていることは、村上文学の解説としても面白かったし、一応はそれを読んだことがあるので、書かれていることについてもなるほどと思えることだった。しかし僕には、文学の話ではなく、それをもっと一般化したものとして 「存在するものは存在することによってすでに特殊であり、存在しないものだけが普遍的たりうる」 という言葉が強く印象に残った。村上文学は、この「普遍性」を表現しているからこそ世界性を持つという解説も説得力あるものに感じた。 僕がここから考えたのは「普遍性」というものの認識だ。三浦つとむさんの弁証法の話では、「特殊性」を「普遍性」と取り違える誤謬の話がよく取り上げられる。これは、両者が対立しているにもかかわらず、視点を変えて同じ対象を見たとき、「特殊性」として捉えられた部分が同時に「普遍性」としても捉えられることがあるからだ。つまり両者は弁証法的に統一されているのだ。 このとき、対立を背負っている「特殊性」と「普遍性」を正しく理解するには、その視点を常に忘れずにいることが大事なことだ。自分はどの視点で対象を見ていることによって、その属性を「特殊性」として捉えているのか、あるいは「普遍性」として捉えているのかを忘れてはいけない。 「特殊性」と「普遍性」の視点の違いの一つは、その認識の質の違いにあるだろうと僕は考えている。認識というのは、現実存在が人間の脳に反映したとき、それをどう捉えるかという働きのことを言う。視覚・聴覚・触覚などの感覚的に捉える部分と、それから得られた判断を結びつけてさらに立体的に捉える思考的な部分とがある。 思考的な部分では、抽象と捨象という働きで対象を理解しようとするのだが、「特殊性」の認識は、より感覚に近いところでなされる分かりやすいものになるだろう。これは、他の存在との差異を見つけて区別がされればいいからだ。それに対して「普遍性」の認識は、ほとんど無限に多くの存在を想定して、それらから共通部分を抽象して来るという思考を経て得られる。 「普遍性」は一つの対象を見ているだけでは見つからないが、そこに現象していることは確かなのだ。対象の全体性の把握と言うことがないと「普遍性」は分からない。「特殊性」は、比べる相手が一つあればそれを見つけることが出来る。そっくり同じでないところを見つければ、それが「特殊性」になる。しかし、「普遍性」は、同じではないにもかかわらず、同じだと言えるような抽象過程を経なければならない。同じでないところを、末梢的な部分として捨象するという思考をしなければならない。 このような理解で、内田さんの言葉を眺めてみると、「存在するものは存在することによってすでに特殊であり」と言うことは、存在するものは、直接的に他の存在と比べることが出来るので差異を見つけることが出来ると解釈出来る。これは、現実に存在する二つのものは、決して同一のものではないということから来ている。現実存在には、 A=A という等式はナンセンスになるということだ。何から何までそっくり同じであれば、両者を区別することが出来ないから、それは二つの対象とは考えられない。だから、現実存在について「A=A」という等式を立てても、それは対象については何も言っていないことになる。もし、現実存在に対して何かを言いたいのなら、 A=B という等式を立てなければならない。これは、板倉さんが語ったように、存在としては違うものであるにもかかわらず、共通であるという視点を持って眺められる部分があるから等しいものとして表現される。この二つは、差異がある違うものであることを前提として、その上で同じものがあるという認識を持つことが出来たとき等式で表現されるのである。 この有名な例として板倉さんも触れていたのが、マルクスの説明による、商品における「使用価値」と「交換価値」だ。商品はそれぞれ「使用価値」において差異を持っている。パソコンと、高級レストランでの食事は、存在としても・その使用目的もまったく違うものとして存在している。しかし、価格がついているというということで、その物差しで見るという視点では等式をつくることが出来る。 x量のパソコンの値段=y量の高級レストランの食事の値段 この等式で表現されている、共通部分として等しいものこそが、商品の「交換価値」であるとマルクスは主張していた。パソコンがいろいろと便利に使える道具であり、高級レストランのうまい料理は「使用価値」として受け取ることは容易だろうと思う。それは感覚的に分かる「価値」だからだ。 しかし、商品として一般化(普遍化)された対象に存在する「交換価値」は、やはり一般化(普遍化)されており、普遍性を表現している。これは直接感覚することが出来ない。ある商品が、なぜあれほどまでに高いのか、あるいは逆に安いものもあるのかということは、感覚的には分からない。それは抽象化されたものだから、抽象過程を経て認識されないと分からないのだ。 そうすると、内田さんが語る言葉の後半部分「存在しないものだけが普遍的たりうる」ということの理解も次のようになるだろう。抽象された対象は、そのまま現実に存在するわけではないので、「普遍性」として認識されたものは、「存在しないもの」として捉えられる。そして、そういうものこそが「普遍性」を持つことが出来、「普遍的たり得る」のだという理解が出来る。 現実存在にべったりと寄りかかって認識していたのでは、いつまでも「特殊性」から抜け出ることが出来ない。その現実存在から抽象化された対象が設定されたとき、その抽象化された対象において初めて「普遍性」を問題にすることが出来る。この抽象化の段階は、科学においては仮説が設定出来る段階であり、モデル理論ではモデルを設定する段階ではないかと思う。そして、仮説が証明され、モデルが現実のよい反映であることが証明されたとき、その仮説やモデルは「普遍性」を獲得して、一つの真理を表現しているのだと受け取られるのではないだろうか。 「特殊性」から「普遍性」へ至る抽象の過程を理解するのは難しい。直接には見えない対象を見る「ノーミソの目」を鍛えないとならないからだ。内田さんは、「父なる存在」をこの「普遍性」を持った対象として説明している。これは、現実存在としての「父」ではないのだ。現実には存在しない抽象的な対象としての「父」であることが分かったとき、その「普遍性」を理解したと言える。 「父なる存在」は、現実に父であろうと思われるものに現象している。その現象から本質を抜き出して抽象することによって「父なるもの」を考えることが出来る。しかし、「父なるもの」は科学の対象ではないので、万人が納得するような「普遍性」を抜き出すことは出来ない。これが「普遍性」ではないかというものを常に差し出す仮説のようなものしか提出することは出来ない。 このようなものを表現するには、文学という芸術はまったくふさわしいものなのではないかと思う。文学は言葉の芸術だが、言葉というのはすでに言葉であることによってある種の抽象の過程を経ている。これは、言葉というのは、存在する対象を概念として捉えて、概念の部分を表現するものであるという三浦さんの指摘からそう考えることが出来る。 「犬がいる」という言葉による表現は、目の前にいる特殊な犬を表現しているにもかかわらず、「犬」という種類を指す言葉で表現するという「普遍性」を持っている。絵画において抽象性を表現するのはたいへん難しいが、文学ならそれに比べれば表現可能ではないかと思われる。 僕は、自分にはエディプス・コンプレックスがないのではないかと思っていた。自分は特殊な育ち方をしたのか、それとも、あの概念は日本人には当てはまらないのではないかと思っていた。僕は、現実に存在する父に対して、ライバル視をしたり乗り越えたいと願うという気持ちをほとんど抱かなかったからだ。一つの道を究めて歩んだプロとしての尊敬の気持ちを抱いていた。 しかし、エディプス・コンプレックスが、現実の父ではなく「父なるもの」に対するものとしてあるのなら、それは「普遍性」を持った認識かも知れないと思える。人間の心にとって、絶対的基準を持った存在が必要だと言うことは分かるからだ。僕にとっては、おそらくそれが「論理」というものだったのだろうと思う。どんなに偉い人が言おうと、論理に反したことは僕は受け入れられない。論理こそが絶対的な基準になっている。 内田さんは、このエントリーの最後に次のように語っている。 「「善悪」の汎通的基準がない世界で「善」をなすこと。 「正否」の絶対的基準がない世界で「正義」を行うこと。 それが絶望的に困難な仕事であるかは誰にもわかる。 けれども、この絶望的に困難な仕事に今自分は直面している・・・という感覚はおそらく世界の多くの人々に共有されている。」 この困難な仕事は、確かに抽象の世界での仕事だと思う。それは、「普遍性」を捉えなければならないものであるからこそ困難なんだと思う。この「普遍性」を捉えようとした人に、何らかの考えるきっかけを与えてくれるのなら、村上文学が世界中の人々に読まれるようになるのは、確かに論理的に理解出来る、頷けることだと僕は思う。
by ksyuumei
| 2006-05-03 09:53
| 内田樹
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