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兵法の奥義

内田樹さんの『他者と死者』(海鳥社)の「4沓を落とす人」には、「兵法の奥義」が語られている。これは、抽象的に述べれば


「欲望するものは欲望されたものに絶対的に遅れる」


と語られる。この「絶対的に遅れる」状態に相手を落とすとき、常に勝つという「兵法の奥義」を手に入れることが出来る。「絶対的に遅れる」人間は、遅れてしまった相手には絶対に勝てないのだ。

では、どうすれば相手を遅らせて、自分の方が先に行くことが出来るのだろうか。内田さんは、武術の用語で「先(せん)を取る」という言い方をしている。どうすれば「先を取る」ことが出来るのか。その技術を与えるキーワードが「欲望」というものだ。自らを「欲望されるもの」の位置に置き、相手を「欲望するもの」の位置に置くことが重要になる。




この「欲望」の概念を理解するのは難しい。これを「欲求」と同じ意味に受け取ってはいけないと内田さんは説明する。「欲求」と言ってしまうと、「本来あるはずのものが欠如した状態」という概念になってしまう。そうすると、その対象は、「本来あるはずのもの」だから、最初から分かっていることになってしまう。しかし、「欲望」で言い表される対象は、それが何かが分からないところに特性がある。

「欲求」は、相手に疑念をもたらさないが、「欲望」は疑念をもたらす。それはいったい何なのかという疑念だ。疑念をもたらさない「欲求」は、意欲を起こす場合さえあるが、疑念をもたらす「欲望」は、相手に動揺を生み出す。内田さんの言葉では、「欲望」は次のように語られる。


「「欲求は本質的に郷愁であり、ホームシックである」と言われるのだ。
 これに対して「欲望」は帰る先を知らない異境感、満たされた状態を思い出せない不満足感のことである。」


これは、次のレヴィナスの言葉の説明となっている。


「形而上学的欲望は、まったく他なるものか、絶対的に他なるものを志向する。(…)形而上学的欲望は帰郷を求めない。なぜなら、それは一度も生まれたことのない土地に対する欲望だからだ。(…)欲望は欲望を充足させるものすべての彼方を欲望する。(…)<欲望されたもの>は欲望を充足させることが無く、ただ欲望をいよいよ深く穿つのである。」


このレヴィナスの言葉だけでは、あまりに抽象過ぎて何も頭に浮かんでこないが、内田さんの説明でようやくぼんやりと頭に浮かんでくるものが見つかる。「欲望」というのは、それを求めたいという感情だけは強烈に起こってくるのに、対象がまったく見えない。だから、どうすればその「欲望」が満たされるのかが分からず、「欲望」だけが肥大していくのを感じる。

「欲望」というのは、「すべての彼方」まで行き着くことがなければ、充足するという論理的了解が得られない対象だというわけだ。このような「欲望」は、やはり持った方が負けだろう。勝負に勝つには、「欲望」は持ってはいけない。相手に持たせなければならないものだ。何しろ、「欲望」の対象そのものは誰にも分からないのだから。

抽象的には、「欲望」をこのように捉えることが出来るが、その「欲望」を相手に持たせるための方法として、内田さんが語るのは、「二度同じ行為を繰り返す」と言うことだ。

「沓を落とす人」では、張良という弟子が黄石公という師の沓を拾う行為を通して「兵法の奥義」を会得する過程が描かれている。この「沓を拾う」行為が二度繰り返され、二度目にそれを行ったときに、張良は「兵法の奥義」を会得する。これだけではまったく何のことか分からないが、内田さんの説明を読むとそれがよく分かる。

一度目に沓を落としてそれを拾わせたときは、張良はその意味が何も分からなかった。感情的にちょっとムッとしたかも知れないという程度だ。しかし、二度目にそれが行われたときには、同じことが行われたと言うことで、張良にはその意味を問うという疑念がわいてくる。師は、なぜ沓を拾わせるのであろうかと言うことだ。

沓を拾わせることが兵法なのではない。二度目に同じことをして、相手にそれについて考えさせると言うことが兵法なのだ。一度目には何の効果もなくてもいい。その効果は二度目に現れる。二度目の行為によって相手に「欲望」を起こさせるのだ。それは解答のない疑問なのだ。解答がないからこそ「欲望」が生じるのだ。

相手に対して解答のない疑念を起こさせるために、沓を二度落とすという行為をしたのだと考えられる。「なせなのか?」という「欲望」を相手に起こさせれば、相手は自分に対して絶対的な遅れの位置にいることになる。これこそが勝つための技術である「兵法」の極意だというわけだ。

ポウの「盗まれた手紙」を論じた部分でも、主人公のデュパンが、手紙を取り戻すために、手紙を盗んだ大臣を二度訪問することが語られている。大臣は手紙を巧妙に隠していたのだが、ディパンはそれを見事に探し当てて、大臣との勝負に勝つ。この勝負も、デュパンが二度同じことを繰り返すことに意義があると内田さんは解釈している。

最初の訪問では、ディパンは、大臣にとってはその他大勢の中の一人に過ぎない。大臣を訪れる客の特徴のない一人だ。しかし、二度目の訪問がすぐに行われたときには、大臣の心にその意味に対する疑念が生まれる。隠していた手紙のことで訪れたのではないかということも頭をかすめるだろう。このとき、大臣はすでにデュパンに対して遅れを取っていることになる。

おそらく普通の状態であれば、デュパンの動きを注意深く眺められたであろう大臣が、このような遅れがあるために、外で起きたなんでもない物音に気を取られて、手紙から注意を逸らしてしまうのだ。そして、二度目の訪問ですでに「先を取っていた」デュパンは、用意していたニセの手紙と本物をすり替えて大臣を出し抜くことになる。デュパンは、二度目の訪問で大臣を出し抜くことをあらかじめ見極めており、一度目にその布石を打っておいたのだ。

なお、大臣は最初に王妃から手紙を盗むことによって王妃を出し抜いている。その頭のいい大臣が、手紙を手に入れたことによって、手紙の謎と力を抱え込むことによって、かえって自らに疑念を生む条件を作り出して、次に登場するデュパンに出し抜かれるという構造も面白いものとして内田さんが指摘していた。勝者は勝者であることによって次の敗者になるという構造は面白い。

デュパンは、大臣から手に入れた手紙をすぐに賞金と取りかえて、手紙を持ち続けることによる、次の敗者になる可能性からも逃れている。この構造も面白いもので、「兵法の奥義」の一つではないかと思われる。

勝負において、圧倒的に自分より実力が下のものを相手にするのではなく、非常に優秀で、自分より実力的には上だと考えられるものを相手にしなければならなくなったら、この「兵法の奥義」は役に立つものになるのではないだろうか。マトモにぶつかったのでは、一度も勝つ可能性がないと考えられる相手に対し、一度目はダメでも、何度目かに勝てる可能性を実現する方法が、この「兵法の奥義」にはあるような気がする。

むかし広島カープが始めた「王シフト」と呼ばれる戦術がプロ野球にあった。圧倒的な実力を誇っていたジャイアンツの王に対して、コンピューターの計算によって打球の方向を計算し、そちらの方にだけ守備を固めてシフトを取るという戦術だった。これは、確率計算どおりになるのであれば、その効果が出るはずだが、王が守備のいないところに打球を転がしたらどんな打球でもヒットになるという悲惨な結果も出かねない戦術だった。

誇り高い王は、せこいやり方でヒットを稼ぐのではなく、あくまでも自分の打法を守ったので、この王シフトもそれなりの成果を出したようだが、僕は違う意味での効果がこれにはあったのではないかと、内田さんの文章を読んで思った。

王は、超一流の選手で、心技体ともに優れた選手だった。心に動揺がなければ、その打撃を押さえることはかなり難しかったに違いない。しかし、王シフトによって、心に動揺を生むという効果こそが一番大きかったのではないかと思う。守備のいないところに打てば打率が10割になるという結果になりかねない守備隊形は、「いったい何のためにやるのか」という疑念を生むには十分なのではないかと思う。

さすがに王は超一流の選手だったので、そのうちに、どんなシフトを取ろうとも関係ない、というように疑念が無くなってしまったようなので、この効果はなくなってしまったと思うが、それが出てきた当初はやはり疑念を生んだのではないかと思う。

以前に読んだ相撲に関する記事でも、マトモにぶつかったのでは勝てない横綱相手に、何度かの敗戦を見込んでマトモにぶつかっていき、「何度やっても勝てないのに、なぜ同じ戦法で来るのか?」という疑念が生まれたときに、その一瞬の躊躇のスキをついて、立ち会いに見事なケタぐりで勝ったという力士の話を読んだことがある。これなども、「兵法の奥義」の実例の一つなのではないかと感じる。

不利だと見られている勝負を制した見事な作戦というものを調べると、この「兵法の奥義」が見られるかも知れない。そうすると、この「兵法の奥義」は、ある意味では一つの「真理」だと呼ぶことも出来るだろう。それは科学のような再現性を持っていないので、科学と呼ぶことは出来ないが、任意の不利な勝負における勝利の可能性をもたらすものとして、かなりの確率で正しさが証明出来るものかも知れない。

内田さんが語る「兵法の奥義」は、一つの解釈のように見えるが、これが解釈であっても、正しいものに見えるのは、これから行われる勝負に対して、指針として役立つように見えるからではないかと思う。過去の勝負を解釈するだけではなく、これからの勝負にも影響を与える解釈なら、解釈としての正しさを十分持っているのではないかと思う。だからこそ「兵法の奥義」と呼ばれるのだろう。
by ksyuumei | 2006-04-30 18:20 | 内田樹


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