正しい現状認識とその肯定判断について

内田樹さんが「2006年04月26日 ナショナリズムと集団性」というエントリーで、「遠からず、日本はナショナリストだらけになるであろう」という予想を語っている。この予想は、日本の現在を、「「若年弱者」を大量発生させている」という現状分析をした結果からもたらされた帰結だ。

内田さんは「この新たなナショナリズムの担い手はつねに「弱者」である」と考えている。「彼らがナショナリズムに飛びつくのは、「国民的統合が果たされると、自分にも受益機会がめぐってくるのではないか」と考えているからである」と考えている。このような考えから、弱者を大量発生させている日本社会は、遠からずナショナリストだらけになるという予想がもたらされる。




これは、論理の流れとしては極めて分かりやすく、しかもその妥当性を感じるものだ。ここにおける二つの指摘

・日本の社会は「受益機会に恵まれない」若者たちを構造的に大量発生させてきた

・「国民的統合が果たされると、自分にも受益機会がめぐってくるのではないか」と考えている層が、国民的統合を望む「ナショナリスト」になる。

が正しいと思えば、ここからの論理的帰結として、受益機会を期待する多くの若者が「ナショナリスト」になると言うことが得られる。僕は、上の二つの現状分析は正しいと思うので、内田さんの予想も正しいと思うものだ。これは、あくまでも非人情な論理の分析の結果である。

しかし、内田さんが、このような現状分析の判断をしたというのは、ある意味ではそれを肯定した、つまり存在しているという意味で肯定をしたことになる。ところが、この肯定を、倫理的な判断としての肯定と勘違いする人がいるかもしれない。現状がそうであると判断することと、そうであるべきだと判断することとは違うことなのだが、うっかりすると勘違いする。

内田さんの言葉にも、感情的に引っかかりそうな言い回しがある。これは意図的にやっているのか、文体としてそうなっているのかは分からないが、次のような言い方には引っかかる人がいるかもしれない。


「彼らは「弱者」であるという定義からして、「国民的統合が果たされないと、現在得ている利益を逸する階層」ではない。
なにしろ「受益機会そのもの」から疎外されているというのが「弱者」の定義なんだから。
金もないし、コネクションもないし、スキルもないし、総じてプロモーションのチャンスが限りなく少ない人々を「弱者」と呼ぶ。」


これは「弱者」という言葉に対する一般的な定義を語っているだけである。別に「弱者」をバカにしたり、それが価値が低いと言っているのではない。しかし、自分が弱者の部類に入っていて、不当に扱われていると感じている人は、弱者を正面から定義されると、その不当性を肯定しているように感じるかも知れない。

この文章だけを見ると、そう感じてしまうかも知れないが、この文章が全体の文脈の中でどのような位置を占めているかを考えれば、そのような受け取りが誤読であることが分かるだろう。内田さんの論理展開としては、弱者が支持する「ナショナリズム」というものが、実は弱者にとってはまったく利益とならない錯覚であることを論理的に明らかにすることにあるのではないかと僕は思う。

これは、宮台真司氏などが指摘することと同じことだ。小泉さんのネオリベ路線からすると、まったく利益を受けられない労働から疎外されている若年労働層が、ナショナリスティックな高揚感から小泉さんを支持することの矛盾というのは、宮台氏を始め、政治学者の山口二郎さんなども指摘していた。正しい判断をする人なら、誰でも同じようなことを言うごく当たり前の指摘に過ぎない。

「彼らがナショナリズムに飛びつくのは、「国民的統合が果たされると、自分にも受益機会がめぐってくるのではないか」と考えているから」だが、これが錯覚だと内田さんは語っているのだと思う。その理由は、国民的統合から得られる利益を持っていくのは、「「ナショナリズムの亢進からさらに利益を得よう」と望んでいる「強欲な強者」(石原慎太郎とか安倍晋三とか)だけで」あって、弱者は、「金もないし、コネクションもないし、スキルもないし、総じてプロモーションのチャンスが限りなく少ない」のだから、論理的に言えば、国民的統合があってもそれから利益が得られる可能性はやはり極めて少ないのだ。

もし、感情的な情緒的判断でなく、ちゃんと論理的な判断が出来るなら、「現在十分な社会的利益を享受しえていないことの理由として」は「おのれ自身の無力とか無能」を数え上げなければならないだろう。これは認めるのはとても難しいものだが、感情を捨てて認めない限り弱者を脱することは出来ない。このような指摘も、内田さんが嫌われる理由になるのだろう。指摘される本人にとっては、もっとも嫌な指摘を、非人情に冷たくあっさりとしてしまうからだ。

内田さんは、このような錯覚をしている弱者はマジョリティ(多数派)で、「自分に受益機会が訪れないのは主に自己責任によるのであって、国民的統合を果たすことで事態が好転するとは思っていない「スマートな弱者」と、ステイタス・クオで十分に受益していると思っているので、これ以上欲を出す気のない「横着な強者」」という二つの集団はマイノリティ(少数派)だと判断している。僕も多分そうだろうと思う。

この現状認識が正しいがゆえに、「遠からず、日本はナショナリストだらけになるであろう」という予想も正しいと思われる。だが、このような未来の日本社会は、とてもやりきれないものを感じる。それを避ける方法はないものだろうか。このような弱者のナショナリズムは、「隣国への植民地主義的経済進出とか、「非国民の追放」によるうまみのある「空きポスト」の大量発生とか」、さらに弱者を見つけて、それをいじめることで利益をかすめ取ろうとする方向へ行くナショナリズムになるからだ。これは歴史を見てみれば予想がつくだろう。

この方向が、避けられない必然であったことも、内田さんは次のように分析する。


「因習的なプロモーション・システムの信奉者である親や教師たちは、子どもたちに向かって「利己的にふるまう」ことこそが受益機会の最大化を結果するとこれまで教え込んできたからである。
豊かな才能に恵まれた子どもはいまもたくさん生まれている。
けれども、その才能を「みんなのために使う」ことのたいせつさは誰も教えない。
「あなたの才能は、あなただけに利益をもたらすように排他的に使用しなさい」と子どもたちは教えられている。
彼らに「物心両面で支援してくれるような社会集団」に帰属することの有用性は誰も教えない。
むしろそんな集団に帰属したら、利益を独占できなくなるし、自己決定権も制限されるし、連帯責任を負わなければならないし、集団内の弱者のケアもしなければならないし・・・損なことばかりだから、「スタンドアローンでやった方がいい」ということだけが専一的にアナウンスされてきた。」


この解釈にも僕は正しさを感じる。また、親や教師たちがこのように教え込んできたことの現実的な理由も、


「社会全体にさまざまな中間共同体(親族や地域社会や企業など)の網目が張り巡らされ、個人の可動域が極端に狭められていた時代には、スタンドアローンで自己利益を追求するタイプの個体が利益を独占するチャンスがたしかに高かった。」


という指摘から、論理的に理解出来るものでもある。親や教師がバカだったから、このようなことが行われたのではなかった。かつては、時代的な背景が、そのような振る舞いが正しいと思われる時代があったのだ。

しかし、未来のナショナリズムの方向は、明らかに時代錯誤的な間違いのように僕は感じる。これを修正出来なかったら、日本は本当にひどい時代を迎えるのではないかと思う。ナショナリズムの方向は、反動的な右翼的な方向へ向かうようになるだろう。これに対しては、その反対の左翼的な方向から、狭い視野を指摘する批判が多いのではないかと思う。拝外主義的な国粋主義的な面に対する批判だ。

しかし、内田さんの視点は違う。「スタンドアローン」の孤立はもはや時代遅れであって、これからは集団に帰属して利益を分かち合う方向こそが模索されなければならないと考えるなら、たとえ間違った集団としてのナショナリズム的な方向が選ばれたとしても、その集団志向は評価しようという見方を提出する。「とりあえず、「自室に引きこもっているよりも、集団の一員である方が生きのびる上では有利だ」ということに気づいたという点をプラス評価しよう」という言葉にその評価を見つけることが出来る。

そして、その評価をした上で、帰属する集団を、質よりも「サイズ」という量で判断しようと提案する。その方が、集団に帰属したときの利益が図れるというのだ。あまりにも大きな「サイズ」の集団に帰属すると、「そのような集団は成員をあまり幸福にはしてくれない」というのだ。それは、「どのような集団も、あるサイズを超えると集団の維持が自己目的化し、集団成員の互酬的コミュニケーションには副次的な配慮しかされなくなる」からだ。極めて論理的に明快な展開だ。

内田さんは、資本主義の現体制の擁護者として、俗流若者論によって今時の若者を批判していると受け取られている。しかし、よく読んでみると、現状の若者の状況を、かなり悲惨なものとして理解して描写してはいるものの、その中に評価出来る積極面を探しているのが分かる。そして、そこから、新たな斬新な視点を打ち立てて、問題の解決の方向を示唆している。

それは、一方では非現実的な理想だと思う人もいるようだが、そう思う人は、逆に現実の悲惨な現状をそのまま肯定してしまうことになっているのではないだろうか。内田さんは、正しく現状を捉えているが、それをそのまま肯定しているのではないから、理想にシフトする方向を見いだせるのだと思う。内田さんを誤読する人は、自分の間違いを内田さんに投影して、内田さんが間違っているように思いたいのかも知れない。自分の間違いを自分で非難することは出来ないが、内田さんが間違えているなら、思う存分非難することが出来るだろうから。しかし、内田さんの文章を正確に読めるなら、内田さんは斬新な視点を語ってはいるものの、その語っている論理はごく当然の展開をしていることが分かるだろう。少しも難しいものではない。
[PR]
by ksyuumei | 2006-04-29 11:52 | 内田樹


<< 適材適所という働き方と組織 死刑廃止論を考える 4 >>