死刑廃止論を考える 1

たとえ死刑であっても、人が殺されるのを見るのは嫌だというような感情論ではなく、一般論としての死刑廃止論を考えてみたいと思う。もし感情論を基礎にして考えるなら、被害者の報復感情が何よりも優先されると言うことは、感情としては反対出来ない問題になると思われる。だから、感情論で考える限りでは死刑廃止という考えは生まれてこないだろう。

被害者の感情を捨象して抽象化するというのは、感情的な反発もあるかも知れないが、死刑廃止論というのは、そのようにして論理を展開していかないと正当性を主張することは出来ないだろう。基本的な原理・原則を設定して、その下に論理を展開していき、その結論として死刑廃止論が展開出来るかどうかを考えてみたいと思う。

基本的な原理として考えるのは、「死刑」というものが制度であるという点だ。それは個人が恣意的にコントロール出来るものではなく、国家の制度として個人を制約していくものであるということだ。この制度は、死刑という判断を決定する際に間違いを犯す可能性を持っていると言うことが一般論としての死刑廃止論の出発点になると思われる。



国家の判断が間違いを犯さないと考えるメンタリティは、「お上意識」などという言葉で表現されることがあるが、日本では広く一般化しているものではないかと思われる。また、たとえ間違いを犯したとしても、それは非常に少ないものであるから、確率的に無視しうるという議論もそこに存在する。

このときにその議論に反対する根拠として提出出来るのは、宮台氏が語っていた次のような市民意識だ。宮台氏は、「たとえ1000人の凶悪犯を逃そうとも、1人の無辜の市民が死刑になってはいけない」というニュアンスの言葉を語っていた。基本的には、これが近代民主主義国家の市民意識だと思うなら、間違いの訂正を奪う死刑制度は、一般論として廃止されなければならないという前提を持つことが出来るのではないかと思う。そして、廃止されることに伴う問題があるとすれば、それは死刑廃止の前提で解決を図るという論理にシフトしていくようになるだろう。

被害者感情を癒す問題や、犯罪抑止力の問題などは、死刑がなければ解決し得ない問題だとは捉えず、別の解決方法がとられるはずだという前提の下に考えると言うことだ。しかし、日本の「お上意識」は、別の言葉ではパターナリズムとも呼ばれていて、これを改革することは不可能に近いというようなことも宮台氏は語っている。だから、「お上意識」の下に死刑制度の世論支持を支えている現状は、死刑廃止論にとっては極めて厳しいものとなるだろうとも思う。

昨日紹介した宮崎学さんの「弁護士安田好弘を擁護する」というエントリーには、最後に、「ワシは自分の愛する女房や子供が殺された時、お上に犯人を殺してもらう(死刑)という思想そのものを良しとしない」と語られている。これが本当の市民意識というものだと思うが、今の日本ではなかなか共感を得にくいのではないか。

むしろ世論は、凶悪犯がすぐにでも処刑されることを感情的には望んでいる。そしてマスコミもその感情に媚びて、それを煽るようになる。それが結果として、死刑制度存続を願う司法権力に利用される。そのあたりのことを宮崎さんは、


「毎度言うのもアホらしいが、大きな刑事裁判のたびに巻き起こる「早く終わらせろ、早く吊るせ」的な世論にまたも迎合する司法官僚とメディアの姿が露呈したと指摘しておく。」


とまことに正しく指摘している。和歌山毒カレー事件については、物的証拠が何もなかったといわれている。状況証拠がそろっていたことと、犯人とされている女性が、人々の憎しみの感情を受けやすいキャラクターであったこととが重なって、すでに犯人であることが確定されたように思われている。しかし、その状況証拠が、すべて偶然のものであったなら、無辜の市民が無実であるにもかかわらず処刑されるかも知れないという状況になっている。

和歌山毒カレー事件については、誰が犯人なのかはまだ分からない。確証がないときに、間違いかも知れない判決で死刑にしてもいいのか、というのが、市民意識を出発点とした死刑廃止論の現実への適用になるのではないだろうか。死刑にならなければ間違いがいつか訂正される可能性を残すが、死刑になってしまったら、間違いを訂正するチャンスは残されていない。

このとき、間違えていなければ死刑にしてもいいのか、という感情的な議論も起こるかも知れないが、それは非論理的な感情論だと思う。そもそも、「間違えている」とか「間違えていない」とか言う判断は、この時点では出来ないから死刑制度を廃止して、訂正のチャンスを残そうとしているのだ。判断に間違いがなければ訂正などする必要がないのだから、「間違えていなければ」という前提は、そもそも前提として成り立たないのである。

成り立たない前提を持ち出すのは、どうしても報復感情を満足させたいために持ってくる、論理としては詭弁に属するものだと思う。しかし、それでも、山口県光市の事件のように、その犯罪と犯人が誰であるかということが明らかになっている事件もある。それさえも、原則的には死刑廃止論という観点からは、死刑にしてはいけないと考えるのが、論理的には正しいのだと僕は結論する。

もし、この場合は死刑がふさわしく、この場合は死刑が間違いだというようなことが判断されるとしたら、今度はその判断の正しさというものが問題になってくる。それは果たして明確に決定出来るのかという問題だ。現実の判断というのは、常に間違いを犯す可能性から逃れられないのだ。

だから特殊な状況で判断を区別するという設定をすると、その判断においてまた同じような問題が生じてしまう。それが解決出来ないのであれば、出発点において一律に死刑という可能性の方を否定するのが論理的には正しい方向だろう。それは間違いの可能性を訂正するチャンスを残すと言うことの方を最重視する論理だ。

この選択をさせるのが市民感覚というものだ。この市民感覚を支えるのは、個人の犯罪よりも、国家の暴走の方が社会に与える影響が大きいという感覚でもある。市民というのは、社会を支える市民という意味でもあるから、個人としての自分の利益と社会全体の利益のバランスを考えることの出来る人間でもなければならない。

「お上意識」の強い日本人を、宮台氏は「くれくれタコラ」のようなものと表現していた。「お上意識」は、国家権力を、自分の便益をもたらしてくれる都合のいい存在として捉える。何か自分のためにしてくれる権力はいい権力と言うことになるわけだ。たとえそれが個人的なエゴイズムから発した要求であろうとも。

このような権力は、それを支える「くれくれタコラ」の大衆と癒着して容易に腐敗堕落する。それは、社会の利益よりも個人の利益の方を上に置く、まったく市民とは呼べない存在になる。漫画家の小林よしのり氏などが、このような市民感覚を欠いた大衆を批判するのは正しいと思う。しかし、その否定として提出された望ましい人間像が、国家と一体になるような、もっと依存度の高い「お上意識」を持った人間像になってしまうのは自己矛盾というものだろう。

個人のエゴイズムを否定するあまり、その反対の極にいるような国家と一体化する主体性のない人間を理想化するのでは、国家の利益が個人のエゴイズムと一致したときにそれを批判することが出来ない。腐敗堕落した構造を批判することが出来なくなる。「公」の重要性を訴えても、その「公」自体が腐敗堕落してしまったら、腐敗堕落を支えるような言説になってしまう。

死刑廃止論においても、宮崎さんが指摘する、「お上に犯人を殺してもらう(死刑)という思想」は、個人のエゴイズムを国家に実現してもらおうとする意識の現れではないかとも思える。社会を支える市民意識を持つならば、本当の意味での「公」である社会にとって利益になるのは何かを考えなければならない。それは「公」に判断をゆだねることではなく、判断や決定に参加していき、そこで自己決定が行えるようなメカニズムをこそ求めなければならないと思う。

死刑廃止論に反対する論として、それは犯人の側の人権だけを一方的に認めて、殺される被害者の人権を無視しているというものがある。これは、感情に流されやすい見方をするとそう感じてしまうだろうと思う。しかし、死刑廃止論で最重要視しているのは、無実の市民が国家権力の誤りに対して死刑になってしまうということから、市民の人権を守るという観点なのである。

この人権が守られることを重視しているので、結果として真犯人に対してもさまざまな人権が守られるようになるというのが論理的な理解だと思う。真犯人に対する人権というのは、凶悪犯罪のすべての責任を犯人にかぶせるのではなく、その中のどれくらいを犯人が背負うべきかという観点を提供するという形で提出される人権になる。

もし、このような観点がなければ、西部劇ではないが、犯人だと分かった時点ですぐに「吊せ」と言うことになってしまうだろう。犯人だと分かった時点でも、その犯行を理解するために裁判という努力をすることが、犯人の人権を守ると言うことになっているのだと思う。

それでは、真犯人を死刑にしないことは、殺された被害者の人権を無視していることになるだろうか。これは直接的には論証出来ないと思う。死刑にしないことの影響が、回り回って被害者の人権を無視する行為につながる恐れはあるが、直接的にそれが帰結されることはないと思う。これも一つの感情論だろう。

殺されることは、生存権を侵害されることであり、被害者にとっては人権を侵害されたことになるだろう。しかし、犯人の死刑によってそれが回復するわけではない。だから、死刑がそれを無視しないことだという論理は成り立たない。むしろ、そのような犯罪被害者になる可能性が高い社会が形成されることが、被害者の人権を無視していることになるのではないだろうか。

アメリカ社会の犯罪発生率の高さは、アメリカ社会が、殺される人の人権を守っていないことを示すものだと思う。アメリカでは、それは基本的には自分で守れという発想なのだろうと思う。お上を頼るなと言うことなのだろう。だからこそ銃の所持が権利として明記されているのだと思う。

日本はお上に頼る社会なのに、犯罪の発生を何とかしろという要求はあまり聞かない。結果として起こった犯罪は重罰化せよという要求はあるが、発生について問題にしたものはあまり聞かない。これは、おそらくそれが非常に困難なことなので、要求しても実現されないと思っているからだろう。

犯罪の発生を防ぐには、凶悪犯が何故に凶悪犯になったかという深い分析が必要だ。これなしにいくら処罰しても発生は防げないだろう。単に個人の資質の問題として片づけてしまったら、そのような個人はいくらでも生まれてくる可能性があるのだから、凶悪犯罪を防ぐのは不可能であるということになる。従って被害者の人権は守られないままの社会になる。凶悪犯が生まれてくるメカニズムを解明するためにも、凶悪犯を単純に処刑するだけではいけないのではないかと僕は思う。それは多くの人が指摘するように、権力の民衆監視の機能を強めるだけなのではないだろうか。

このようなことを、死刑廃止論の一般論として考えてみた。この次は、「死刑廃止 info! アムネスティ・インターナショナル・日本死刑廃止ネットワークセンター」というページに載せられている、「死刑制度の廃止を求める著名人メッセージ」の中の主張を検討してみようかと思う。一流の論説を語る人たちは、どのように死刑廃止論の正当性を主張しているだろうかということを考えてみたい。
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by ksyuumei | 2006-04-26 10:27 | 社会


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